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狭霧 2

 仕事がない。仕事がないから、金もない。

 少ない所持品を一つずつ手放しながら、狭霧と姉は帝都での日々をやり過ごした。

 何故、どうして、と重く胸の塞がる日々が増えていく。


 それでも都市の人々と交わるうち、新しい世情も知るようになった。

 越後から来た出稼ぎの人は、どこも米価が高騰し、騒ぎが起きていると話していた。これから北海道へ行くという人は、英吉利の労働党が、仏蘭西の共産党が、プロシアの社会党が、腐敗した富豪を倒し世を正さんとしているのだと、熱烈に語っていた。


 こんな話しは、帝都へ来なければ掠りもしなかっただろう。急に世界が広がった気がした。同時に狭霧は、自分が如何に無知で、恥ずかしいほど取り残されているかを思い知った。気持ちだけが無闇に焦り、焦れば焦るだけ将来は遠ざかり閉ざされていくようで、正体のわからない恐れと疲労が蓄積していく。


 寝床にしていた木賃宿も、臭気と蚤が跋扈し、一人一畳の寝場所が確保できるかどうかという空間で気が滅入った。

 そんな中でも、元々浮世離れしていた姉は変わらなかった。


「てめぇ、病人か」

 息の臭い男どもに絡まれようと、姉は菰の下に隠れて手拭を被り、建物の隅で口がきけないふりをしている。引っ張られたり、乱暴に叩かれても動じなかった。ひたすら息を殺し、じっとしている。


 しかし一方で、青白い肌をして体が小刻みに震え続ける姉は

らいか、労咳か、それとも不具者か」

と、やたらに怪しまれ、時には化物か何かのように気味悪がられた。


 伝染する病気ではないと言っても、裏でこそこそ話し合いが行われ、二人まとめて木賃宿を出されてしまうときがあった。仕事が決まりかけたところへ、どこからか姉の病の噂が忍び込み、「弟から伝染うつるのでは」と雇い話が立ち消えになったりもした。

 故郷では然程不思議に思っていなかった姉の異常は、よそ者と他人の密集地帯で、危険扱いされる。まるで誰かに、進もうとする道をことごとく邪魔されているかのようで、うまくいかない。


「狭霧だけでも、行きなさい」

 姉は、事あるごとにそう言った。

 僕がいなくなったら姉上はどうするのですと尋ねれば、どうとでもなるから、としか答えない。

 姉も木賃宿で、たまにちょっとした縫い物などして僅かに金を得てはいた。しかし雑菓子の代金にしかならないような小銭では、稼ぎとは言えない。他に女の身で稼げる仕事といえば、まず女郎くらいだった。姉の身の上では、きっとそれさえ難しい。


――――姉上は死ぬ気ではないのか。


 狭霧は不安と、更なる焦燥にかられた。姉は食べ物も弟にばかり食べるよう勧めて、自分は殆ど食べない。

 心配をさせている。ここまで引っ張って連れてきたのは、弟の自分である。一家を守る家長としての自負もある。


――――僕がしっかりしなければ。


 狭霧は一層、あちこち歩き回った。


 街角で「田舎の百姓から官邸の馬丁になった男がいる」と聞けば、また元気が出た。「某家の御家来衆であった人が、郵便集配人となり、足を棒にして働いている」と、そんな話しに励まされた。土方部屋の隅で、黄色い顔をした男が宙を睨み「死んだら負けだ」と、爪を噛みながら嘯いていた。その通りだと、狭霧も自分に言い聞かせた。


 恥を忍んで、大伯父の家にも再び行ってみた。

 けれど屋敷は、もう空き家となって売りに出されていた。これで頼れるあては無くなった。進退窮まったのを悟り、引き返した。たぶん、顔色は真っ青だったろう。


――――僕の周りから、どんどん人がいなくなる。


 今まで無かった呟きが、胸に浮かんだ。


 穢れた土地と嫌い離れた、今は亡き故郷の豊かな緑と川の景色が思い出された。

 里の者達を父とも兄とも思えと命じた、父の真意が今頃になって少しわかった気がした。


 旧弊と迷信に繋がれ、神棚に押し込まれるにも等しい暮らしだった。それでも飲める水や、明るい日光はあった。電信やビールは無くとも、山へ行けば山菜や胡桃はあった。都市とは違う、厳しさと豊かさがあった。

 大伯父の一家も、家を出された時にはがっかりしたが、屋敷を手放す寸前の境遇から狭霧たちに三円を渡してくれたのである。


 何故、世間知らずで何も出来ないくせに、一身独立して外へ出ようなどと考えてしまったのか。どうして自分が大きな存在に導かれているなんて、大それた勘違いをしたのかと、情けなくなってくる。大志を抱ける身の丈ではなかった現実と惨めさで、潰れそうだった。


 苦い後悔が積もる中、いつ終わるかもわからない移動と野宿の日が続く。日雇い仕事で、食いつないだ。変な味のする水と、舌に馴染まない粗悪な団子を腹に押し込んで歩き続けた。


 そしてその日も、狭霧は姉を残し、宿代わりにしていたお社を出たのである。


 少し頭痛を感じたけれど、まだ動けると口入屋を回った。

 耳が切れそうな冷たい風に弄られ歩き回っても、薄汚れ痩せこけた少年に与えられる仕事は無かった。


 日が傾いてきた時刻に諦め、何か腹に入れようと歩いていると、道端で小学生五、六人が兵隊ごっこをして遊んでいた。

 山奥の田舎村では見たこともない、帽子を被ったり、編上げの靴を履いた子もいる。


――道は六百八十里、長門の浦を船出して、早ふた月をふる里の、山をはるかにながむれば……――


 町の子どもの歌う声と遊ぶ様を、呆けたように突っ立って眺めていた。


 そのとき、狭霧に職人体の男が、とんとぶつかった。

 ハッとして懐に触れれば、白銅三枚が無い。「掏られた」と気付いた。狭霧が大声を出すと、向こうは足早に人混みへ潜り込んでしまう。追おうとしたところを、別の男に止められた。


「やめておきなよ。荒立てない方が良い。掏りは後が怖いからね」

 親切そうな若い男は身形も整い、男振りが良い。一瞬気を取られた。もう一度人混みの方を見て、振り返ったら先の男も逃げていく。これも掏り仲間だった。


 狭霧は夢中で、男たちを追いかけた。

 悪かったと言って、返してくれるのではないか。警察が捕まえてくれるのではないか。奴らは逃げる途中で、盗んだものを落としているのではないかという考えが、脈絡もなく浮かんでは消えた。


 やがて懸命に追い縋った先で、狭霧は突然、物陰から飛び出てきた男に横面をぶん殴られたのである。壁に激突し、脳震盪を起こした。倒れて動けない少年の、僅かな荷物まで根こそぎ分捕ると、男たちは逃げて行く。

 残ったのは、とてつもない疲労だけだった。


 すっかり日が暮れた頃、姉の待っているお社へ戻らなければと、狭霧は足を引き摺り歩き出した。


 しかし頭痛はひどくなり、方向の感覚も狂ってくる。いつしかどこか知らない道へ、一人迷い込んでいた。誰かに道を尋ねたくとも、人影が無い。ほんの少しの助けが欲しいだけなのに、それが貰えない。


 冷たい風に煽られ足元がふらついて、寄りかかろうとした壁の下は空堀だった。

 暗くて見えず、踏み外して堀に落ちた狭霧は、そこでとうとう動けなくなった。


――――僕の人生、どうしてこんなことになってしまったのだろう?


 動けなくなった少年は、空堀の中で考えた。

 こんな人生のはずはない。死の床に倒れた父の、最後に語った言葉が思い出された。


『前途は遠い。だが、いつか……誰もが幸福になる世が来る。それが文明というものだからだ。お前達の時代には、きっと真の文明が開けるようになる』

 父は数年越しの胃潰瘍で血を吐き、寝込むようになって久しかった。


『どうやら私は……間に合わないようだが』

 起き上がれなくなった父は、肉の落ちた頬で微笑んでいた。


 前途は遠くとも、辿り着けると教わった。故郷を出て、まだ僅かしか経っていない。まだまだ始まってもいない。何一つ成していない。

 新しい世界は、素晴らしいはずなのだ。


――――助からなければ、おかしいじゃないか。


 だから狭霧は意識が途切れる瞬間まで、奇跡が起こるはずだと信じていた。

 そして、信じた奇跡は起きたのだろう。


 下谷にある人力車夫の長屋へ、夜に紛れて変な子供が訪ねてきた翌日だった。


「なぁ、そこの車夫の兄さん! アンタだよ、アンタ!」

「え?」


 場所は吾妻橋を渡り川上を走って、弘福禅寺は裏手にある牛島神社の近くである。

 そこで狭霧は、木陰に人力車を停め休んでいた。団子屋へ行った久孝老人を待っていると、声をかけられたのだ。


 木の葉が舞う樹木の陰から、知らない男が背中を丸めて近付いてきた。目玉が大きく、坊主頭に棒縞の着流しで、骨もがっちりとした腕っ節の強そうな男だった。これを人力車に乗せると考えると、覚悟がいる。狭霧も少々覚悟した。


「アンタ、あの爺さんと知り合いかい?」

 ひょこひょこ寄ってきた男の話しは、自分を乗せて運べという件ではなかった。

 団子屋の店先にいる老人を眺め、尋ねてくる。強面でありながら、何とも言えない愛嬌があった。悪い人ではなさそうだと、色白の少年は一先ず安堵して気が緩んだ。


「久孝おじさんですか? はい、ご厄介になっている者です」

 立ち上がり相手を見上げた狭霧は、突如やって来た男と、車夫の老人とを交互に見た。


「おじさんにご用ですか? 呼んで来ましょうか」

「ああ、いや。良いんだよ。用事なら、アンタの方だ」

「僕に?」

 呼びに行こうとした少年車夫を引き止めた男は、懐の中をごそごそと探り始めた。


「アンタ、『狭霧』さんというのだね? さっき、あの爺さんが呼んでたろう?」

「はい」

 先ほど、「狭霧はそこで待っておいで」と、久孝老人に言われたのである。少年はこっくり頷いた。


「それが名前だな? そうかい、それじゃあ……こいつを知っているかい?」

 言った後、男は探っていた懐から、そろりと慎重な動きで何か取り出す。


 出てきたのは懐剣だった。艶やかな黒い漆塗りの鞘。そこには金蒔絵で、『九曜に影六角と割四石』という家紋があった。

 見た瞬間、狭霧は「あ」と声を発していた。


――――何故、ここに?


 帝都を彷徨う間に、売った品である。姉が手放した、母の形見だった。古道具屋に、「もう刀の世ではございませんので」と、十銭で買い叩かれたのだ。その懐剣が、目の前へ差し出されていた。


 失っていた過去と記憶が、真っ黒な怒涛のように押し寄せてくる。

 心臓はばくばくと騒ぎ、全身を冷や汗が流れはじめた。精神は激しく抵抗し、こんなものは知らない、認めまいと拒否するけれど、肉体の器官がそれを許さない。頭は混乱して血の気が引き、乾いた唇が戦慄わなないていた。


――――僕は、どうしてここにいる? こんな所で、何をしている?


 狭霧が道端で車夫に拾い上げられ、すでに半年経っている。


『いっていらっしゃい、気を付けるのですよ』と、狭霧を送り出した姉の白い影はどこへ行った?


「お、おい……?」

 膝がガクガクと震え始めた少年車夫に、懐剣を運んできた変な男は大きな目玉を見開いて驚いている。

「狭霧、どうした!? 何かあったか!?」

 異変を察し、駆けてくる久孝老人の声が聞こえた。男はあわてた様子で身を翻し、逃げていく。何故あの懐剣を持っていたのだろうという疑問が、少年の脳裏を過ぎった。


 そして全部を思い出す前に、強烈な耳鳴りと頭痛に襲われ、卒倒してしまったのである。

 後の事は、途切れてしまってわからない。

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