狭霧 1
奇跡が起こると思っていた。
狭霧が生まれた家は、中世以来の家である。
伝説を信じれば、由来は遥か古代まで遡った。『神の棲む山』と、そこに纏わる伝承を守り続けてきた一族の、頭領の息子として生まれた。しかしそんな大袈裟な血統書などなくとも、幼い頃の狭霧は満ち足りていた。
暮らしは裕福ではなかった。
それでも勤勉な父と、気品ある母。無口で少し不思議な、優しい姉がいた。
同年代の遊び相手がいない子供時代だけ、ちょっと風変わりだったろうか。物心ついた頃から『若さま』の遊び相手は、主に姉だった。
姉はどうしてか、常に身体が小刻みに震えている少女だった。病名は不明だったが、何らかの病を患っていたのである。両親は遠方から医者を呼び、姉はおとなしく薬を飲んでいた。
だが周囲の人々は『病』とは理解せず、全く異なる読み解き方をした。
姉の身体が震えるのは、“山の神に魅入られているため”だと噂したのだ。だから姉の手が触れただけで、老婆も少女も子を授かると言われた。
外界と切り離された谷底で、世界から忘れられたように存在していた山郷の中にあって、『神通力』を有する『ひいさま』は敬いと恐れの対象だった。
そして狭霧もまた、「若さまは」という前提が何かとついて回る中で育った。
狭霧に最大の影響を与えたのは、旧旗本のお殿様だった父である。
「世界は広い。外国には蒸気船どころか、空を飛ぶ飛行船なるものまであるそうだ」
どこで調べてくるのか、異国の話しも聞かせてくれた。
「誰もが空を飛び、自由に旅をする時代になるやもしれんぞ」
夢みたいなことを語り、狭霧だけでなく里の人達をも驚かせた。
よく父は、「文明開化の世なのだ」とも言っていた。
御一新を機に、世の中では正月の飾り物や盂蘭盆会、歌念仏などは「不要である」と一掃されている。路傍の石の地蔵は取り払われ、寺は焼かれ、春日山では県令官員の催しとして神鹿数十匹が狩られた。こういう時代の中で、父も諸々の儀式、祭の簡略化を尊んだ。倹約も兼ねていたに違いない。
しかし故郷の山郷の人々は、それら一切を受け付けず、反発ばかりだった。
マッチの火は不浄ゆえ使ってはならぬと言う。電線は若い娘の生き血を塗って通信する邪法であるから、里へ持ち込むなど論外だと怒る。牛の乳を飲めば顔が牛になる……彼らの無知と妄信は、きりがなかった。
隔離された辺鄙な土地では、無理もなかったのだろう。古俗に安住し埋もれきっていた里人達は、姉の『病』にさえ、医薬を使うなどとんでもないと反対していた。その一方で『神通力』を頼り、子どもを売って小銭を稼ぐ。子授けの流行に乗り、僅かな黄金を手に入れては喜んでいた。
父が進めようとした鉱山開発にも、彼らは良い顔をしなかった。
年寄り達は余所者が入れば山が荒れると騒ぎ、嫌がった。そして最初は父に味方していた若い連中も、開発が失敗した後には被害者の顔をした。
最終的には父一人が、穢れと責任一切を押し付けられる。
狭霧が気付いた時、すでに父は借金と辛労に追いまくられて、病気がちになっていた。
死の直前、父は当時まだ幼かった狭霧に、故郷の里の子授け騒動と開発の失敗の一部始終を教えた。昔の知り合いを通じ、持ち込まれた鉱山開発だったと話していた。相手の名前も教わった気がするが、思い出せない。
「これからは里の者たちを、父とも兄とも思い従うように」
そう父には命じられた。
姉の『病』が、山の神に結び付けられ畏怖されるのも、急には変えられない。人身質入も古来から普通の行為で、まだまだ童男童女が海外にも売られる世の中。里人たちも黄金に慣れていなかったため、今は仕方が無い。長らく閉じていた里で、里人なりに考えており、無知なだけであるからと説いた。
だから父が死んで、僅か一年後。
流行り病で、里の子どもが全滅した折に里で流布した“姫の呪い”や“祟り”という言葉も、許してやらなければと、狭霧は歯を食い縛る思いで耐えた。
しかし狭霧は迷信に囚われている頑民を、いつか正してやろうと心の奥で誓っていた。
父が他界し戸主となってからは、子どもながら先々について考える。
何かしなければと思った。新しい時代のための勉強もしたかった。だが願いは虚しく、狭霧の意見や望みは右から左へ聞き流される。分別を弁えていただきたいと、裏に表に言われるのは悔しかった。それでも母がいる頃は、まだ土地を少しずつ開拓してやっていこうと思っていた。
完全に考えが変わったのは、母の病死が切欠だったろう。
それまで村八分も同然で、近付いてもこなかった里人達が、急に米や野菜など運んでくるようになった。理由はまたしても、姉の『祟り』を鎮めるための『お供え』だった。
狭霧は吐き気がした。後で畏れて詫びるくらいなら、母が生きているうちに、医者を呼ぶ手間と銭とを融通してくれれば良かっただけなのだ。
自分たちは、人間扱いをされていない。愚にもつかない妄想や妄説に振り回される。
里の連中は、揃いも揃って生来が愚昧なのだと見切りをつけた。財産は無いに等しく、姉と二人残された身の上。こんな腐った地に、縛られているのは嫌だった。
覚悟を決めてひそひそ支度をしていた矢先。何かで脅かされた狭霧は姉を連れ、飛び出すように故郷を離れたのである。
理由は何だったろうか?
旅の道中の詳細も、おぼろに霞んでいる。
自分の他に姉と、里から無理に付いて来た娘との三人旅だったように思う。でもあの娘は途中でいなくなったから、きっとどこかで別れたのだろう。
あの娘が、故郷へ帰ったはずはなかった。
故郷の里は大雨による山崩れで、すでにこの世から跡形も無く消えている。旅の途中でその天災を聞き知ったとき、危ないところだったと狭霧は思った。あのまま故郷で暮らしていたら、自分たちも巻き込まれていたに違いない。
故郷の山郷があった方角へ向かって手を合わせはしたが、戻ろうとは考えなかった。
あのときの狭霧は生き残ったことに、罪悪感よりも、何ものかの意思を感じたのである。自分は夢見た場所へ行くよう導かれている、大きな存在に守られているのではないかと思った。
こうして旅の目的地たる帝都に辿り着く。
汽車が走り、馬が蹴立てる砂の夥しさと、人力車と人の数の多さに驚かされた。ホテルや喫茶店、煉瓦造りの大きな銀行が立ち並ぶ景色。その中を、靴を履いた紳士が歩き、束髪にリボンの令嬢が通り過ぎる。今まで暮らしていた土地とは、別世界の都に圧倒された。
けれど立派な看板のすぐ裏では、見苦しい現実の集う獄舎のような闇が、落ちてくる者を待っている。混沌と雑駁の放置された都市へ転がり込んだ者が、旅人や客人でいられる時間は短かった。
右も左もわからない迷子同然で、大伯父の家を探してさ迷い歩く。
途中で、かつて父の知り合いだったという旧御家人の老人に会った。
親切なその人は楽しそうに、旗本だった頃の父母の昔話をしてくれた。それを聞き、やはり父は立派な人物だったのだと、狭霧は誇らしくなった。故郷の里人達が寄ってたかって責め立てたような、愚か者ではなかったのだと嬉しくなった。
立派な父の息子として、恥ずかしい振る舞いをしたくはない。長屋へ招いてくれようとした老人の申し出は断わった。
そしてようやく見つけた、大伯父の屋敷。そこでは末息子が生き残り、家長となっていた。
世が変わってもまだ官辺の目をまだ気にしていたらしく、狭霧達の頼みはにべもなく断わられる。それどころか鉱山開発の失敗について、金に目のくらんだ愚行、家の恥と罵られた。
到着するなり奥座敷に押し込められた姉の、『神通力』についても同様だった。
「教部省より、梓、巫女、市子、迷信一切無用となったを知らぬとは、何たることか」
肩をいからせた大人たちに、狭霧が怒鳴られる。
必死で頭を下げ、狭霧は心をこめて説明した。知らなかったのではない。父は里で、姉の『神通力』をやめさせようとしていた。悪いのは里人たちである。せめてしばらくの間だけでもと、生活の援助を嘆願したが断わられた。
世が世ならそれなりの立場になっていたであろう人は、高慢で旧幕役人の悪いところを固めて作ったような人だった。こんなことだから、天下が覆ったのだと思った。
二日後に三円を渡され、「これで好きな道へ行け」と屋敷を出される。
はじめから頭のどこかで、半ば駄目だろうと思っていた。これで、はっきりと一縷の望みは断たれてしまう。屋敷を後にした最初の晩に、『好きな道』に辿り着けるかどうかもわからないまま夜空を眺めた。
「狭霧や父上のせいではありませんよ」
姉は、そう言って慰めてくれた。
覚悟の出奔ではあったから、嘆いてばかりもいられない。翌日から仕事を探して回った。太物屋や酒店の飯炊き。湯屋の水汲み。料理屋や、蕎麦屋の出前持ちでも良い。五年でも十年でも奉公をして、給金を貯めようと狭霧は考えていた。
世のため人のため、役に立つことがしたい。何か『本当のこと』をしたいと、漠然と思っていた。
まずは働いて、自分は学校へ行く。勉強をして、父が話していた外国にも行ってみたい。そしていつか、渋谷の水車の辺りに僅かなり田園を買い、小さな家を持って、姉や家族と共に暮らすのだ。
それが出来たら幸せだと思っていた。
でも口入屋や土方部屋へ二軒、三軒と行っても、話しも聞いてもらえない。頭数は余っていると断わられた。一にも二にも口利きが必要で、そうでない者は十把一絡げの有象無象ということであるらしいと、次第にわかってくる。
「ああなっちゃ、士族も惨めなもんだナァ」
「孤児院にでも行ったらいいんだ」
口入屋を立ち去るとき、薄汚い男達の嗤う声が背後で聞こえた。
「それじゃアンタが、病の姉さんの世話をしているってのかい? 何てことだろうね、可哀想に」
土方部屋の女房は、狭霧の身の上を聞き涙を流していた。
故郷で暮らしていた頃にも、思い通りにならず腹が立ったり、苛々することは多々あったが、『可哀想』とは思っていなかった。
自分は可哀想だったのか。惨めだったのかと狭霧は驚き、その頃からだろう。自分の内にあった何か大事なものが、少しずつ削れて磨り減っていくような気がした。
次第に人と関わるのが、苦痛になってくる。優しげな笑顔の人の、何気ない言葉も信じられない。狭霧は身の回りの全てに、暗い疑いを抱くようになっていた。




