表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
145/164

Butterfly effect 1

 街並みは朱鷺色に染まり、土埃と黄昏に霞み始めている。

 日本橋の家を出た千尋は生温い人波を掻き分け、砂塵と汗にまみれながら両国の方角へ走っていた。


 息は乱れて、どうしてこんなことにと頭は沸騰している。


 実家の蔵の前で、女中のお清は涙ながら、おかるが床に付いていて身体も弱っていると訴えていた。幼馴染の悲鳴も耳を離れない。桜は幼い頃から怖がりで、暗い場所も苦手だった。春先には人違いで攫われ、もう二度と恐ろしい目になど遭わせたくなかった。それなのに、こんなことになってしまった。


 後悔と焦燥で、目が回りそうになっている。兎に角『針の先』がいる所へ、無我夢中で走っていた。


 やがて家々の屋根の向こうに、お化けみたいな松の老木と、黒い板塀で囲まれた古い家屋敷が見えてくる。息を切らせた千尋は、古道具屋の数鹿流堂へと駆け込んだ。そこはいつも通り、まるで空間が凹み時間に置き去りにされているような屋敷だった。


 裏戸からガタガタ入り込み薄暗い炊事場まで辿り着けば、そこに雪輪がいた。


「お帰りなさいませ」

 土間に佇むほっそりした青白い娘は、汗と土埃にまみれて飛び込んできた青年を、どう思ったか。

 この娘に限って何も察しなかったというのは考えにくいが、平素と変わらない口調と佇まいで出迎えた。雪輪は首から下が動かせないところから、少しずつ手足を動かせるようになり、女中仕事をするまでに回復したのである。


「雪輪さん、一大事なんだ!」

 引っくり返った大声で叫び、千尋は女中の手を両手で鷲掴んだ。

 そのまま娘の手を引き、外へ走り出しそうだった。大声を聞きつけた金茶頭が座敷の方から出てこなければ、おそらくは実行していたに違いない。


「何だ?」

 と声がして、柾樹が久しぶりに姿を現した。表玄関の方から、長二郎も顔を出す。僅かに見えた向こうの明るい縁側では、化猫の火乱が寝転がっていた。


「ああ、戻っていたのか柾樹! 良かった! 良かった! あれはどうなった!? 探し物は見つかったのかッ!?」

 数日来、音沙汰の無かった友人の姿を見て、千尋は自然と笑顔が湧き出る。顔色の悪い女中を解放し、今度は縋りつかんばかりの勢いで柾樹へ尋ねた。


 御神刀の『霧降』があれば、あの化鼠も打ち負かせると思った。

 しかし返ってきた答えは、千尋の期待を脆くも裏切ったのである。


「あれは駄目だった」

 柾樹は素っ気なくも苦い顔で、そう答えた。

 経緯はかなり省略されたが、要するに駿河台の屋敷で不慮の事件が起こり、取り戻すと言っていた御神刀は失われてしまったというのである。聞かされた千尋の衝撃は、落胆や残念という温厚な表現では収まらない。呉服屋の息子は、膝が折れそうになった。


「どうした?」

「何があったんだよ?」

 友人たちに促され、千尋は上がり框に腰掛ける。両足は日本橋から両国まで走ってきた疲れと痛みで、痙攣していた。


「大変だ、一大事なんだ……!」

 うわ言みたいに千尋は言って、呉服屋の事件を話し始めたのだが、喉は干乾びてうまく話せない。余裕も失い、話す順序まで混乱して支離滅裂だった。


 それでもやっと話し終えた頃、足音も無く近付いてきた化猫の火乱が、背後で囁く。


「ふん……? “残り滓”が、潜り込んどったか」

 猫の呟きを聞くと、変なものだが千尋は緊張が解けて、深呼吸することが出来た。


「うちの蔵も古いんだ。安政の大地震でも、焼けなかった」

 雪輪が差し出した茶碗の白湯を飲み干し、実家の蔵について語る。両親や使用人に、あれは多くの家屋敷が崩壊や火災で失われた中で災禍を潜り抜けた、大変運の強い蔵だと聞いて育ってきた。


「そちらにいるのが、土々呂の首魁でございましょう」

 空になった茶碗を受け取った女中が、表情の無い白い面で言う。

 千尋は娘を見上げ、冷静さが戻るのと同じ速度で気まずくなった。


「そ……それで、あの。土々呂が……『針の先』を……雪輪さんを連れて来いと、言っているんです、が」

 苦しいほど俯き、全身強張らせながら打ち明ける。


「……雪輪を暮白屋に連れて行って、どうするんだよ?」

「土々呂と挨拶をして、酒を飲んで帰るわけにはいかないだろ?」

「そ、それは……」

 柾樹と長二郎の視線も、左右から刺さってきた。皮膚の汗が蒸発して、体温が奪われていく。千尋は膝の上の両手を握り締めた。


「『針の先』を渡せと言ったって、土々呂は雪輪を潰して駄目にしちまうだけだぞ。無名の君の『針の先』に何かあったら、誓約の『産児』も反転しちまう」

 腕を組んだ柾樹が眼鏡の奥で、凄い目をして言う。柾樹がこんな表情を千尋に向けたことは、かつて無かった。長二郎も気の毒そうな表情はしているものの、否定はしない。

 そう言われる気はしていたし、千尋もわかっていた。


「し、しかし……しかし、おっ母さんと桜が、殺されてしまったら……」

 掠れる声を絞り出した。

「だから何やねん」

 苦悶の表情で項垂れる青年へ、火乱が無情に切り返す。


「放っとき。まぁ、たしかに危ないわなぁ。“残り滓”は、映し世へ直接噛み付くなんちゅう、阿呆な真似もするわいな。そんでも結局、時間が無いのは土々呂の方や。放っとけば自滅しよる」

 赤毛の猫が、生意気に言う。そして中心人物たる雪輪は沈黙したまま、茶碗を流しへ置いていた。


「せめて、うちへ来て土々呂に姿を見せるだけでも……!」

 暮白屋の倅は、母や桜を諦めるなど出来ない。引き下がるわけにいかなかった。この状態から救ってくれそうな雪輪へ、直に訴え掛けようとした。

「駄目だ」

 その訴えを、柾樹が乱暴に断ち切る。


「た、頼む! 土々呂に連れてくると言ってしまったんだ!」

「そんなん知るかいな、ド阿呆」

 千尋が床で両手をつき頭を擦り付けるようにして頼んでも、火乱は長い尻尾をゆっくり左右に振るばかりで容赦ない。


 千尋は愕然とした。それから段々と、胸が悪くなってきた。

 自力で蔵の扉を開けて二人の救出が出来たなら、そうしている。家の蔵は人力で開かず、人質も取られた。恥を忍んで頼っているのに、同情すらされない。思わぬ無慈悲と冷酷に晒され、顔が紅潮し始める。


「そんなのは……そんなのは、うちのおっ母さんや桜と、関係無いじゃないか」

 心は我か人かといった状態で、千尋は湧いた感情を湿った黒い土間へぶつけた。

「あ?」

 不機嫌な柾樹の声が聞こえたが、そちらを見る気にも答える気にもならない。


「赤ん坊が生まれなくなるって話しは、まだ決まっていないだろう? 『そうなるかもしれない』という、それだけじゃないか。本当に生まれなくなるかなんて、わからない。科学や技術は、日進月歩で進んでいるんだ! もし『子授けの神通力』の誓約が、反転したとしてもだ。人の知恵と力を合わせれば、乗り越えられるんじゃ」

 訴えるのに必死の千尋は、喋る言葉を選んでいられなかった。


 辺境の山郷で永らく眠っていた『子授けの神』。

 嵐の晩に現れた、正体不明の存在との間に交わされた大昔の誓い。それを破るだけで未来が一点に絞られ決定してしまうなど、千尋には信じられなかった。信じたくないのが、現在の心境だった。

 世は開け、今まで見えなかったものが見えるようになっている。出来なかったことは出来るようになり、叶わなかった願いも減りつつある。不可能は除去され、いつの日か『神』は必要なくなるという、どこかの書物で見た文言で、己を鼓舞してそこまで言った。


「白岡、お前何言ってるかわかってんのか?」

 と、柾樹が冷徹に尋ねてくる。

 千尋がハッと見ると、そこには青白い顔をした娘がいた。俯くでもなくただ静かに、真っ黒な瞳で斜め下方を見ている。


「あ、い……いや、違うんです。違うんだ。その……」

 緊張感を支えきれなくなり、千尋は顔を擦ってまた元通り沈み込み、言い淀む。

 つい昨日まで。今日の午前中までは、千尋も雪輪に害が及ばないよう気を配っていた。あれは決して嘘ではない。千尋は温厚な性質と、人並み以上の親切な性質の持ち主だった。けれどその優しさは、自分にとっての合理を瞬時に選びきれない決断力の無さとも表裏している。


 青年の無様を前に、赤毛の猫が横に裂けた口から尖った牙を覗かせ、人間みたいに笑った。


「へん、『そうなるかもしれないだけ』……お前、中々うまいこと言うやないか。でもそない言うたら、お前の家の、蔵の二人も同じやろ? 土々呂に潰される、かもわからへん、ちゅうだけや。土々呂にそないにする力が、どれだけ残っとるかも怪しいが」

 猫の緑柱石の瞳が、薄暗い屋内の陰影を映して妖しく光る。


「食われたかて、二人やろ。人の世の、仰山おる仲間の役に立つんや。良かったやないか。喜んだらどないや?」

「で、出来るわけないだろ、そんなこと!!」

 早々、諦めを促す化猫を、普段大人しい青年が血相を変え怒鳴りつける。


「はあ、よう言うわ。喜んで死ぬ奴なら、なんぼでもおるやないか? 人生に派手な見せ場が出来て良かったやろ。生き残った連中で、仲良う後悔と恐怖の飴玉しゃぶって、後は尤もらしい理屈付けたら気ィ済むわ。人の世なんぞ、ずっとそないにしてやってきたやないか。愛しい主君のためやったら、口に刃物ぶち込んで自害するんも、幸せなんやろ? 世のため人のためなら、ますます結構やないか。喜べるように頭の中、ちょちょっとつついたろか?」

「火乱」

 化猫がぺらぺら喋るのを、雪輪が嗜めた。だが伊達男と聞き紛う声で、火乱はいよいよ凄む。


「しゃあないやろ。運が悪かったんや。ツキが無かった。お前が阿呆で能無しやった。それだけのことや。どないしても嫌や言うんやったら、まずはお前が血みどろになって何とかせんかい」

 喋り倒す化猫に一切言い返せず、千尋は石みたいに座り込んでいた。


 あの時、全力で危機に立ち向かったかと自問すれば、そうではないともう一人の自分が答える。

 機転は利かず、立ち向かう勇敢さも無かった。手を汚さず、痛い目にも遭わず、最も安易な助けを求めてここまで逃げてきたのである。助けと言えば、まだ聞こえも良い。実態は、雪輪に家族の身代わりになってくれと言っているのと同じだった。


 その雪輪は、まだじっと下を見つめている。静観を決め込んでいるように、見えなくもなかった。

 だがこの非力で無抵抗な女中を掴んで引き摺っていくことも、千尋には出来なかった。


「すみません…………無理を、言いました。戻って、もう一度、土々呂と話してみます」

 化猫が言ったとおりの能無しぶりを発揮し、情けないことをずるずる述べる。


「あのお……時間稼ぎは、出来ないだろうか?」

 その時、長二郎が切り出した。三人と一匹の視線が集中する。


「時間稼ぎ……?」

「うん、人質の交換を引っ張るんだ。月が満ちるまで、時間を稼ぐんだよ。『無名様』の来臨が始まれば、土々呂は滅びるんだろう? 土々呂が潰れるまで人質の交渉を伸ばして、その後に『無名様』を玉手箱へ閉じ込めれば、雪輪ちゃんも無事だよな? まぁ、具体的な方法は僕も見当が付かないし、荒唐無稽な話しだが……」

 癖毛の後ろ頭を掻き、小柄な青年は顔を顰めて言った。無理に捻り出した苦肉の策なのは、明らかだった。


「大砲でも引いてきて、蔵ぶち壊しちまえ。隠れる場所が無くなれば、土々呂も出てくるだろ」

 不機嫌顔をしていた柾樹も、横から雑な案を口にする。

「ば、馬鹿を言わないでくれ……! 中にいる人間まで、崩れた建物の下敷きになるだろう!? それに土々呂が自棄やけを起こして暴れ出したら、人質に何をするか!」

 立ち上がりかけていた千尋はそこまで喚いたが、力が抜けてまた同じ位置に座り込んでしまった。


 友人二人は、何も考えていなかったわけではなかったのだ。それだけで心は僅かに救われたにせよ、如何にもやり方が悪い。


「あんなぁ? いくら土々呂が“残り滓”やいうたかて、『映し世』の武器が通じるとでも思っとるんか? 人間様も、立派にならはったもんやなぁ。なよ竹のお姫さんの頃と、何も変わってへんやないか。ホンマ感心しますわ。こらまた播摩の姫御世が、喜んで顔出しそうな話しやで」

 鼻先でせせら笑い、真面目に茶化す火乱が口を挟んだ。


「せやからな? たったの二人ですむんやったら、そらもう安いもんやっちゅう……」

 化猫は、書生達の作戦行動をやめさせようとする。

 だが

「二人で、すみましょうか?」

 それを更に遮ったのは、雪輪だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ