スクナビコナ
古道具屋から小太り探偵を追い出せば、片付くというものではない。
まだ仕事は残っていた。雪輪に、御神刀の事と次第を話さなければならない。探偵が帰ると、長二郎も「御神刀はどうなった」と聞きたがった。
「後で話す」
柾樹はそう宣言してしまい、自らの発言で引き下がれなくなる。仕方がないから、不機嫌を顔に貼り付けて黒漆喰の蔵へと向かった。
蔵の中は土臭く、空気もひやりと冷たい。梯子段の上には、二階へ通じる入口が白い四角に切り取られていた。光を反射した埃が白くちらつく様を眺めてから、柾樹は階段を上る。
まるで首斬役人の前へ行く気分だった。
そのためだろうか。
蔵の二階で雪輪がきちんと座っているのを見たとき、柾樹は安堵した。思ったより借金が少なかったときに似た、変な安堵なのだが、瞬間は安堵したのである。
「お帰りなさいませ」
迎えた雪輪は指をつき、相変わらずの馬鹿丁寧な挨拶をした。
「お前、治ったのか?」
「いいえ」
座るのも忘れて吃驚している柾樹へ、感情の無い答えが返る。二階の窓は両方とも開いて微風が流れ込み、光の差し込む部分が明るかった。
「身体の震えが戻るにつれて、また動けるようにもなりました」
雪輪は自らの状態を、そのように説明する。柾樹は室内の薄闇と、定位置である古畳に座る娘の白さが明瞭な対比を成しているのに気を取られつつ、「そうか」と間抜けに呟いた。
「御神刀は……『霧降』は、無かったのですね」
普段と変わらない口調で、雪輪が先に切り出した。柾樹は「うん」と頷くより仕方ない。でも、これだけではいけなかった。
「そこなんだがな」
雪輪の前へ胡坐をかいて難しい顔になり、手につきやすい部分から話し始める。
祖父の幸兵衛が持っていた、『必中の賽』。『人食いの井戸』の鬼と、『霧降』の封印。全てを母が台無しにしてしまったこと。妖刀となった『霧降』に襲われたこと。封印が解けた古井戸と神田山の底抜け。銀縁眼鏡に宿っていた牛の化物と狐狸たちが、それらを食い止めるため消えてしまったことなどを説明した。
雪輪は沈黙し、相槌もしない。そうして最後まで聞いた後に、口を開いた。
「失われてしまったものは、仕方がありません。まずは、ご無事でようございました」
お手本みたいな返事だった。
――――良いわけがないだろ。
必要なものを、持って帰らなかったのである。嫌味かと、柾樹は反射的に撥ねつけようとした。
だが
「ご事情を知らなかったとは申せ……わたくしも、何もわかっておりませんでしたね」
娘の声が微かにしおれて、出かけた言葉は息と一緒に喉の奥へ引っ込んだ。
雪輪の眼差しと呟きは、眼前の虚空へ向けられている。感情の御簾を閉じきっている白い顔の向こうに、無防備な後悔が一瞬見えた。
「……どういうことだ?」
伺うように尋ねると
「ですから、柾樹さまにお怪我が無くて良かったと」
娘は視線を元に戻し、正面から答える。噛み合わないやり取りを踏んで、柾樹はやっと理解した。何だか知らないが、雪輪は柾樹の無事を歓迎しているらしいのだ。
「……悪かったな。『霧降』、返してやれなくて」
ようやく、天邪鬼も居心地の悪さを誤魔化して言った。すると
「では……何か他のもので、お返しをいただけましょうか?」
「あ?」
思いもしない依頼が、ぽんと出てきてまた驚かされる。
「他のものって何だ?」
「さあ? まだ、わかりかねます。でもお約束だけ、まず頂戴することは出来ましょうか」
白い顔ですらすら述べる雪輪は、罪を責めるというには穏やかで、ねだるには拗ねも愛嬌も無い。
「……わかったら言え」
銀縁眼鏡の小鬼は腕を組み、まずは望みを呑んだ。こうしていっそ、相応しいものを返せと求められる方が楽である。
――――罪作りをしてきたんじゃないのかい?
先の道端でかけられた言葉が、頭の内側でこだました。
柾樹へ罪と囁き、『狭霧』と名乗ったあの男。
「雪輪……お前の弟は、『狭霧』っていうんだったな?」
眼鏡越しに睨んで柾樹が尋ねると、雪輪は真っ白な首を極僅かに傾げた。
「急なお話しでございますね?」
「急でも何でも良いんだよ。弟はどんな奴だ? 歳は?」
畳み掛けられた質問にも、娘の声の調子は上がりもせず下がりもしない。
「狭霧は、わたくしとは、あまり面立ちは似ていないと言われておりました。色白で、体つきは小柄な方。歳は十五でございます」
澄んだ声でそこまで言うと
「どこぞで、見かけましたか?」
異様につり上がった真っ黒な目が、正面で胡坐をかいている金茶頭を見た。
問われた側は、ぎくりとする。
「そこの道で……知らねぇ男が寄ってきたんだよ。図体のデカい、どう見ても俺より年上のそいつが、『狭霧』と名乗りやがった」
柾樹は俯きがちにぼそぼそと、巡査に捕まる切欠をつくった妙な男について語った。
「その者は名乗りを上げて、どうなったのでございますか?」
「別に、何も」
「それだけにございますか?」
「そうだよ」
男に強請られ財布を渡してしまったことは伏せて、柾樹は床へと視線を落とした。
「……狭霧は、優しい子でございましたよ」
ほろ、と娘が語り出す。
光まで吸い込みそうな雪輪の漆黒の瞳は横へと移り、狭い窓に縁取られた空を見つめていた。
「母は、厳しい人でした。これからも恙なく暮らせるように。わたくしが、人並みにお箸を扱えるようになるまで、手習いが出来るようになるまで……毎日何時間も仕込まれました。包丁の扱いや、縫い物など……何度失敗しようと、母は涙を堪えて辛抱強く教えますから。わたくしも、『もう嫌です』とは言えませんでした。それを狭霧は見ております。姉のわたくしの隣で、何とか手助けをしようとするのです」
語られたのは、柾樹が初めて聞いた雪輪の家族の景色だった。
雪輪は全身が小刻みに震えていても、何の苦も無さそうに家事や女中仕事をしている。それは通常の何倍も積み重ねてきた努力と、母親に厳しく教え込まれてきた時間の賜物だった。
「狭霧は……田上さまと、少し似ている気が致します」
「え、田上と? じゃあ、全然違うな……何だったんだアイツ?」
おしまいに雪輪が付け加えた一言で、柾樹は金縛りが解けたみたいになる。
狭霧少年の姿が、かなり具体的な輪郭を持って現れた。下宿書生三人のうちで最も小柄な長二郎は、もしかしなくてもこの女中娘より背が低い。狭霧も全体に、ひ弱な少年と思われた。
「もし両国橋のその男が、柾樹さまを知っていたとなりますと、失礼ながら、次は駿河台のお屋敷にも現れるやもしれません。お気になるようであれば、もう一度お屋敷へお戻りになられては如何でございますか?」
考え込んでいた銀縁眼鏡の青年へ、白い娘は物腰も静かに提案する。悪い話しではなかったはずだが、言われた側は何故かへそが曲がった。
「何だ、俺を追い出したいみてぇな言い方しやがって」
「いえ……そういうわけでは」
横目の柾樹のぶすっとした表情と返事に、雪輪はゆっくりした瞬きへ少々の困惑を浮かべている。
「屋敷に戻ると、また変な夢を見そうだから嫌だ」
適当な理由をつけ、両腕で伸びをしつつ床へ寝転がった。
「また見たのでございますか?」
文句を垂れた柾樹に、娘の冷たい声が尋ねる。
「ああ、そういえば……お前、山鼬に知り合いはいるか?」
「山鼬?」
柾樹の思いつきの質問を、雪輪が繰り返した。
「猫や鴉の知り合いもいただろ? こんな、掌に乗るくらい小さくて、白いやつだ」
柾樹は欠伸をして、今朝見た夢を反芻する。今朝の夢の奇妙な手触りは、これまで布引姫や轟刑部に会ったときの夢と似ていた。
「そのような山鼬は存じませんが」
双方、近所の犬猫の話しをするみたいに話している。
「人の顔がついてやがったんだ。山鼬じゃなくて、小人だったか? ヒキガエルを連れていて……」
柾樹は眉間を指で押さえ、夢の記憶を手繰り寄せた。
蟾蜍の単語を聞くと、雪輪が黒い視線をつと動かす。
「『スクナビコナノミコト』のようでございますね」
「すく……? 誰だ?」
起き上がり尋ねた青年に、女中娘は口を開いた。
「『古事記』にございます。小人の姿をした神様で、地祇であり、国つくりの神の一柱でもあると」
話しを聞き、柾樹は「ふーん」と喉の中で返事をする。イマイチ、ぴんと響いてはいなかった。
「そいつらの話しだと、この『玉手箱』を使えば、『無名様』を閉じ込められるんだとよ」
懐を探り、銀色の玉手箱を取り出す。鈍い銀色の箱は、持ち主の手の中で光を反射していた。
「そうですか」
現れた小さな箱を見つめ、雪輪が薄い反応を示す。
時を閉じ込められるという『幸運者』の箱は、蟲惑的な光りと魅力を放っていた。
「ただ、使い方がわからねぇんだよな……使い方、は、土々呂――が――知って、いるそう――だが?」
と、箱を手に、柾樹が話している最中だった。
唐突に声がよじれ、錐揉みするように低く転調し始めたのである。
「柾樹さま……?」
つり上がった目を瞠り、雪輪が呼びかけた。
蔵の空気が緊張し、気温が急速に下がっていく。古い壁や天井の梁、古本や大長持からざわざわと、柘榴の実に似た無数の赤い目玉が現れ始めた。柾樹は全身岩みたいになって、視線も動かなくなっている。
「もうすぐ、『一の祀』の――神逐、が始まる」
低い『何か』の異様な声と同調し、青年の口は勝手に何事かを喋り始めた。洞窟の奥のような反響が、薄暗い蔵の中で不調和に重なっている。
「お前――が、うた――を歌――う、んだよ」
柾樹の口を使って不安定に喋る『誰か』の声は、断定的に告げた。
「うた――は、降りて、きたか?」
「いいえ」
雪輪は眉も動かさず、全く人間相手のときと同じ調子で答えている。
「では、どうする?」
「さあ?」
自然に会話する二人の間を、蟋蟀と似た黒い脚の三本生えた古本が、よったらよったら横切っていく。見えない氷が張っていくように、空間がピシリギシリと軋みはじめる。時間ごと割れてしまいそうなほど、歪な強張りが支配していく。
それを破ったのは、年老いた者の柔らかな声だった。
《いおし寝し、からめき消ゆれ大鬼……》
銅鑼のように響き渡ったその強い言葉の力で、赤い目玉の九十九神たちが一斉に消える。表紙の剥げた古本は、ぱたんと床へ倒れて動かなくなった。そして柾樹が「え?」と、動きを取り戻す。話しを聞いていなかった時みたいに、琥珀色の髪の青年はきょとんとしていた。
「……お目を覚まされましたか?」
雪輪が床に落ちた古い本を、震える指で拾い上げる。
「俺は起きてる、寝てたんじゃねぇ……何だ? 俺は何であんなこと言った?」
柾樹は目をこすり、自分の手を見つめていた。
「ご自覚はあったのですね」
呟く娘の肩の強張りも、僅かにゆるんでいた。
《そこな小鬼、湾凪の姫も……あれなる“影”には心せよ?》
耳鳴りに近い煩わしさに混じり、頭の中へ柔和な老人の声が語りかけてきた。雪輪の髪にある碧色の玉が、ほんのりと明滅している。雪輪が簪を抜き手に取ると、飾りの玉の中心部では、淡い光りが小さな渦を巻いていた。
「何だ……お前?」
薄っすら光る玉を、柾樹も覗き込んだ。
《『針の先』の宿木……。人の世の名を華厳。外道と呼ばれし呪禁師。千年ほど昔、『無名の君』を眠らせる『霧降』と、『人の形』の封印を結んだは、我が技。それを破る者と、まみえること嬉しいぞ大鬼?》
簪で久しく眠っていた碧色の玉が、朗々と喋り始めた。
かつて『無名様』に、封印が三つあったというのは柾樹も聞いている。その内の二つまでをつくったのが
「こいつか」
「はい」
はい、じゃないだろと、柾樹は舌打ちした。この期に及んで、まだ秘密があるのかと呆れる。
「華厳様……先ほど語り掛けてきた者が、ダイダラボッチでございましょうか?」
隠し事の多い娘は知らぬ顔で、手の中で光る玉簪へ尋ねていた。つい今しがた、柾樹の口を通じて訴えたい何事かを喋っていた者は、名乗っていない。
《如何にも。此度は、止めることも叶った。しかし『神食み』の剣と食い合い、滅びてまだ映し世に残る鬼の妄執。再び露となれば、どうして止められよう?》
人であることを捨てた呪禁師は、微笑みの見えそうな音で朗らかに答える。
「ではあの時、市ヶ谷へ来たのも鬼でございましたか」
雪輪の言うあの時とは、嵐の晩に柾樹が攫いに来たときだった。
大鬼の妄念は異界の嵐に乗り、呪われた者にバイオリンを弾かせ、市ヶ谷まで走らせ陵雲閣の上まで吹き飛ばしたのである。
《土々呂と大鬼は、我が封印をも捻じり曲げた。大蛇神の『霧降』まで食い滅ぼすとは、浅ましい》
簪の飾りは光り、くっくっと笑っていた。
『残り滓』である土々呂の執念と、大鬼の力は、呪禁師の想定や思惑まで超えたのだろう。だが華厳の声に漂うのは怒りや嘆きではなく、褒めて楽しんでいる色合いだった。
「よくわからねぇが……お前が『無名様』を封印したんだな? それじゃ、この箱の使い方も知ってるか? 狐のツネキヨも、弱らせて軽くすれば入るだのと言ってやがったんだんだが」
喋る簪の方へ、柾樹は銀色の箱を突きつける。
《これは、いとおしき箱……されど、これなる箱で『針の先』への到達を今一度歪めんとすれば……また何処より、何人を狩りて人柱とする? そして何人が、再び山の守人となるか?》
簪の玉飾りはそれだけを述べると光りを失い、元の飾りに戻ってしまった。
「狩るって何だ? 無理なのか? どうなんだ、おい!?」
「眠ってしまわれたのでしょう。もう力が残っていないようなのです」
呼びかけに応じなくなった碧玉の簪を手に、雪輪が答える。娘の声には、呪禁師を労う響きがあった。
「昔は橋や城の普請のため、生贄を捧げるのも珍しくはなかったと申します……。『封印』を結ぶときにも、生贄を狩り集めてきたのでしょう」
雪輪は冷静に語っている。千年前の話しで、当時は然程の倫理的な罪悪感が無かったであろうとはいえ、柾樹は外道の名に恥じない華厳とやらを好意的に解釈する気にはなれなかった。
「やっぱり使い方は、土々呂に聞くしかなさそうだな」
軽く歯軋りした柾樹は、古い簪が娘の髪に挿し直される様を見ながら呟いた。
――あなたも『針の先』を横取りしたいのですか――
夢の中で、蟾蜍のエガラに言われた言葉を思い出す。
柾樹に染み付いている大鬼の残影が、土々呂と同じく『針の先』を欲しがっている。そんな連中に振り回されてたまるかと思った。
「この箱は、お前が持ってろ」
「はい」
無造作に銀色の小箱を差し出した柾樹は、震える白い両手へそれを預ける。土々呂が使い方を教えるとは思えないにしても、何も無いより良さそうだった。雪輪の黒い目は、箱の表面を覆う繊細な幾何学模様を眺めている。表情も態度も、嬉しそうには見えなかった。
可愛げのない娘は、さっき『霧降』の代わりになる何かをくれと、柾樹に頼んだ。
では一体何を貰えば喜ぶのか。全く見当がつかない。たぶん、流行の着物や帯でもなかった。実は欲しいものなど無いのではないかと、白過ぎるほど白い横顔を盗み見て、柾樹は疑いを捏ねくり回す。
「そろそろ、夕餉の支度を致しましょうか」
再び窓の外を見て、雪輪が言った。
さっきまで鬼がいたのも、もう気にしていない様子である。日常と非日常を、やすやすと行き来してしまえる女中に、柾樹はちょっと気が抜けた。
「そうだな。腹が減った」
「まずは、お茶をお上がりになりますか」
話しながら蔵の階段を二、三段下りかけたところで、書生青年は「あ」と振り返る。
「チョコレート、持ってくるの忘れたな」
雪輪にくれてやろうと思っていたのに、屋敷へ置いてきてしまったと気がついた。
「良いのです。食べれば、また身体が動かなくなってしまうやもしれません」
答えた雪輪は、ゆるく首を振る。
「チョコレートを食べれば、治るんじゃないのか?」
柾樹が言うと、肌も青白い女中娘が目を細めた。いつもと違う角度から眺める長い睫毛が、偶然そのように見せただけかもしれない。
「確かなことは、わかりかねますが……わたくしは、常世と映し世の狭間にある身。震えは、それゆえに起きていた現象の一つかと存じます。チョコレートは一時とはいえ、わたくしをこちらの映し世へ、繋げると申しましょうか。引き戻してくれていたのでしょう」
事もなげな、落ち着き払ったそれを聞いて、柾樹は黙る。
柾樹が駿河台の屋敷へ戻る前、雪輪はチョコレートを食べた。あれで震えは止まったが、身体は動かせなかったのだ。蔵の二階へ運び込まれ、浮世人形のようになっていた。チョコレートの効果が無かったのではない。
映し世に引き戻された雪輪の身体が、もう動かなくなっている。
触れれば温かく、柔らかい。しかしこの娘はずっと飲まず食わずで、睡眠すらとっていなかった。人間の肉体は、そのような状況に耐えない。数日で飢えて乾き、半年も経たずに死ぬ。
いや、もしかすると。
そこまで考え、柾樹はその先の発想に踏み込むのをやめた。娘も静かに後へ続き、共に蔵の外へ出て行く。
それにしても、これも雪輪は言わなかったが、スクナビコナという小さな神は『常世』にすまう神でもあった。




