長芋の恋
次の日、柾樹と千尋は神田川沿いの道を西へ向かっていた。一先ず桜に会って、貴瀬川家の看護婦話が嘘であるかもしれないと教えてやるのが目的である。出発は少し遅くなったが、この調子ならば遅くとも夕暮れ前には牛込に到着出来ると思われた。
しかし神田区の昌平橋付近に差し掛かったところで、二人は予定外のものと出くわした。ある店先で若者達が屯している。その殆どが書生なのを見て、柾樹は正直「またか」と思った。ここは先日、柾樹が(彼にとって)小さな喧嘩をした場所とほど近い。
首を突っ込んでいる暇は無い……と思いつつ、通り過ぎざま覗き見る。そこには顔に血を滲ませた書生風の青年が座り込んでいた。視線を上げたその若者と思いがけず柾樹の目が合った瞬間、先方が叫んだ。
「ああーッ! この前の!」
周囲の書生たちも振り返って柾樹を確認し、驚いた声を上げる。どいつもこいつも柾樹は顔を覚えていない。だがうろたえる彼らの様子から察するに、先日蹴散らした酔っ払い書生どもであるようだった。以前ほどではないにしろ、今日も何だか酒臭い。血気盛んな一人が柾樹に食って掛かろうとし、柾樹の背後に立つ大柄な千尋に気付いて尻込みした。座り込んでいた若者が血の滲む頬を撫でて立ち上がり、身構えている周囲に向けて言う。
「よせよせ。あのときは僕らも紺野をいたぶり過ぎていたし、騒ぎが酷かったのも事実だ」
冷静な対応をした彼は、大変に濃い顔をしていた。くどいほどの二重瞼で、肌まで黒光りしている。そんなリーダー格と思しき書生の口にした『コンノ』という名に、柾樹と千尋は顔を見合わせた。
「コンノ? おい今、紺野って言ったか? この前の、あの長芋が?」
一歩踏み込んで柾樹が尋ねる。酔っ払い書生たちは一瞬シンとしてから
「長芋……? あははははっ! たしかにそうだ!」
「言ったもんだな!」
「そっくりだ!」
揃って笑い出した。そんなに面白いと思っていなかった柾樹が困惑するくらい笑っている。酔っ払いの笑い声をさえぎり、今度は千尋が身を乗り出した。
「な、なあ、その紺野ってのは、あんたらと同じ学校の者か? どんな奴だ? それから、ええと……もしかしてそいつは、どこかの令嬢と、知り合いだったりしないか?」
おろおろと、唐突な質問をする。しかし先の『長芋』発言によりちょっとは親しみが湧いていたか、くどい二重瞼の青年は陽気な声で答えてくれた。
「なんだなんだ、君たち紺野の知り合いだったのか? そうとも、あの長芋クンは、今をときめく貴瀬川伯爵の御令嬢と、自分が夫婦になると信じ切っているぞ」
おどけた調子で言うので、聞いていた者たちもまたげらげら笑った。でも柾樹と千尋は笑えない。千尋など顔から血の色が失せ始めた。
「ど、ど、どうしてそんなことになった? そいつに用があるかもしれないんだ! 教えてくれ頼む!」
食いつく千尋の態度に、若者たちはそれぞれ互いの顔を見合う。
「僕らも詳しい事は知らん。ただ、紺野が下宿している金満家の屋敷で、お嬢さんと知り合ったというのは聞いた」
「知りたくもなかったよなぁ」
「でもこの前どうしても聞けとしつこいから、酒と飯を条件に仕方なく聞いてやったが」
口々にそう言って、知っている事を教えてくれた。
ことは半年前に端を発する。若者は『紺野清五郎』といった。大学へ通うため田舎から単身帝都へ上り、親の知人の家で下宿暮らしをしている。そんな紺野青年はあるとき、貴瀬川伯爵家の一人娘と知り合った。彼女は姉のように慕っている叔母の嫁ぎ先へ、よく遊びに来ていたのだ。
その人は見たこともないほど愛らしく美しい人だというのが、紺野の談である。色気づいた目をして道をズケズケ歩く女達とは異なり、楚々とした気品と高貴さに溢れ、誰にでも分け隔てなく接する慈愛の深さと奇跡のような無欲さは、神々しいばかり。
しかも頭脳明晰な彼女と紺野青年は、物の好みから世間一般に対する考え方まで見事に一致し、学問の面においても舶来の最新書から自国の古典に至るまで、いくらでも語り合えた。それでいて娘は賢さをひけらかすでもなく、田舎書生の他愛ない故郷の話も無邪気に聞いてくれる。時には彼女の友人も交え、みんなでピクニックへ行ったりと、楽しい時間を過ごすこと三ヶ月。
紺野青年は、自分と彼女は結婚するべきだと考えるようになった。どうしてそうなったのかは当人にしかわからないが、彼の中でそういう結論になった。とはいえ自分たちの身分が全く釣り合わないのはわかっている。そこで彼は彼女に手紙を書いた。
いかに自らの想いが真実であるかという宣言に始まり、自分はこの愛を成就させるため全てを捨てるから、貴女も伯爵家を捨ててついて来てほしいと述べた。そうなると今のような暮らしは出来ないだろうけれど、決して悪い目には合わせない、貴女ならきっと簡単でしょうと説明し、不愉快と欲望に塗れた世界とは離れた、清らかで幸福な聖なる夫婦になりましょうと結んで送った。
けれど令嬢からは『これからも良いお友達でいましょう』という、短い手紙が返ってきただけだった。それきり叔母の屋敷へも来なくなった。そして程なく、彼女の縁談が聞こえてきたのである。
紺野青年は混乱した。夢のように幸せな日々から一転、暗黒の底へ突き落されたも同然だった。何がいけなかったのかわからない。縁談の事実だけは、『あの人は家の都合で已む無く嫁がされるのだ』と呑み込んだものの、相手の態度の豹変が、どうしても呑み込めない。
野蛮な下心は無く、精神で繋がり合う関係が保てればそれで良いのです、と弁明の手紙も出した。それなのに何故、何度手紙を出しても彼女から返事が一切来なくなったのか。貴瀬川の屋敷へ行っても、「お会いしたくないそうです」と追い返されるのか。会うことも出来ないのか。
彼女が自分に「会いたくない」などと言うなんて考えられない、あるわけがないと紺野は友人達に語った。婚約が決まったとはいえ、自分は彼女に『お友達』として認められている。それならば自分と会う義務すらあるはずだというのが、紺野青年の論だった。それにもし嫌いになったのなら『嫌い』と、手紙の返事に書けば良い。それすら無い。
そして紺野青年は万が一にも彼女に嫌われていた場合、自分の人生はそこで終わりになるのだろうが、理知的で慈悲深い彼女は、必要となれば決然と真言の刃を振り下ろし、自分を苦しみから解き放ってくれる筈だから、『放置して無視』などという結末は絶対無いと言い張った。
第一嫌な相手に『お友達でいましょう』などと書く馬鹿はいない。彼女はそういう社交辞令は軽蔑していたから、口にするとは到底思えないというのが彼の主張の根拠だった。
こうなると紺野に出来るのは屋敷の外を行ったり来たりして彼女を捜し、遠く眺めるだけだった。でもそれも、侍女がすぐに気付いてカーテンを閉めてしまう。仕方なく彼女が出掛ける先へ、先回りして待っていたりした。庭を散歩している時を見計らい、近所の子供に手紙を渡すよう小遣いを握らせて頼んだりもした。
「手紙?」
「有名な和歌をしたためたらしいぞ。どんな歌か知らんが『あの人ならわかってくれる』そうだ」
柾樹の呟きに、顔の濃い青年は痒みを堪えるような表情で答える。
だが紺野青年の様々な努力も、彼女との幸せな時間を取り戻すには至らなかった。
――――周りの人々が邪魔をしているのだ。
――――僕の代わりに会ってきて、彼女から返事を受け取ってきてくれ……。
先日、紺野は思いつめた顔で、相談を聞いてくれた学友たちにそんな無理を言い出した。聞かされた側は、たまったものではない。
「聞いているだけで胸クソ悪くなってきてだな……おまけに紺野の奴、恋の憂さ晴らしに一献どうだと言っても一口も飲まない。しかし僕らは酒を飲んでいたのもあって頭に血が上ってだ。情けない奴だ性根を叩きなおしてやると、道端に紺野を引きずり出して騒いでいたというわけさ」
リーダー格の青年が語るあの日の事情を聞き、柾樹は少々決まりが悪くなってくる。
「……俺はアイツの持っていた本が、理由の喧嘩かと思ったが」
「ああ、それもある。女の趣味にかぶれて何かと御高説を振り回すもんだから、鬱陶しくてな」
そんな折、通りかかった金茶頭に蹴散らされ、紺野青年の無理難題は聞かなかった事にされた。そして三日が経過し、紺野も諦めたものと思っていたら、そうでもなかったのである。
「さっきここで、紺野がぼんやり立ちん棒をしていたんだよ。まったく、声なんてかけなければ良かった。昨日ここらで、件の令嬢の姿を見かけたと言うんだ。赤い肩掛けに花の髪飾りで人力車に乗っていたとさ。人違いだろうと言っても『お忍びで僕に会いに来たのだ、やはり手紙を読んでいたのだ』とパニックだ」
彷徨える書生はこの三日、貴瀬川の屋敷に彼女の姿が見えず大混乱し、右往左往していたという。
「恋情ってのは昂ると幻まで見えてくるものなんだな」
「うん、いよいよ本物になってきた」
「しかしそうは言っても僕らだって人の子だ。叶わぬ恋に迷う学友を、憐れとも思うじゃないか」
荒っぽくも親切な学生たちは、恋の道化師と化した紺野の有様を面白がりながらも、近頃目つきまでおかしくなってきた彼を正気に戻そうとした。
「だから今度は僕らがここの店へ紺野を連れ込んで、良い酒と飯も揃えて『目を覚ませ』と言ってやったんだ。衣食足りて礼節を知ると言うだろう? 腹が満たされれば、少しは落ち着くかと思ってな。『お前が考えているほど、向こうはお前をどうとも思っていないんだ』と、ハッキリ言ってやったんだよ」
顔の濃い青年は力説したが、それにしても情け容赦無しに言ったものである。
そうして学友たちに改めて諭されると、利口な紺野青年は急に落ち着いた態度になった。そして『何とも思っていないのは十分に有り得ることだ。それが証明されれば好都合だ』と嘯いた。
「でもな。紺野の奴、わかったような顔をして、ちっとも耳を貸さないんだ」
「縁が無かった、最後の手紙が別れの手紙だったんだと言って聞かせても、『そんなのはおかしい』と断固拒否だよ」
他の書生連中も口々に言う。
やがて最初は親切だった学友達も、とてつもなく頑固で話の噛み合わない紺野に苛立っていく。次第に感情が先走り、最終的には彼ら得意の弁証で、寄ってたかってやり込める形になった。そのうち黙り込んだ紺野青年は強い酒を数杯一気にあおると、突然立ち上がり大声で怒鳴りだした。
「『僕とあの人の魂の触れ合いがどれほど絶対的な輝きを放っていたか、君たちにはわからない!』とか……な?」
随分思い切ったことを喚いた。人々の凍りつき具合は如何ばかりだったか。
「一体何を言い出すのかとあきれ返ってたら、アイツよろよろ店を出て行った。それで僕が追いかけて、店先で引き止めようとした途端、泣き叫びながら殴りかかって来てな。みんな飛び出して止めに入ったが、僕も油断をしていたから手痛い打撃を受けて、このザマさ」
リーダー格が肩をすくめて言い、仲間たちも苦笑いで頷いた。柾樹が横目で隣を見れば、千尋が変な汗をかいて呆然としている。「おい」と足で蹴ると意識を取り戻した。
「そっ……それで、そいつは今どこにいる!? 言って聞かせなけりゃならんことがあるんだが!」
相手の肩を掴んでがくがく揺さぶり、大柄な見た目に似つかわしくないトンキョーな声で尋ねた。掴みかかられた濃い顔の青年はびっくりしつつも冷静に、太い眉をひそめて首を傾げる。
「さ、さあ? わからん。とりあえずあっちへ走って行ったぞ。貴瀬川伯爵の屋敷じゃないのか? まぁ、行ったところでどうせ追い払われるだけだろうにな」
言って、通りの西を指差した。