玉響
自室で寝ていたときに、柾樹は夢を見ている。
あの知らない街にいる夢だった。
近頃は頻繁にこんな夢ばかり見ているので、目を開いているときと閉じているときの、どちらが『現実』か、たまにわからなくなりそうになる。
そこは日本橋の本町通に似ているが、道幅が三倍ほど広かった。左右には等間隔で赤いガス灯。通りに並ぶ家々はどれも二階建てか三階建てで、やけに大きかったり、反対におもちゃのように小さかったりする。古びた硝子の瓦屋根を乗せ、色とりどりの提灯が軒先を縁取っている。頭上では紐で繋がった大小の着物や帯や布が、家と家とを結んで、満艦飾のように道の上でたなびいていた。
空は清々しい青天で、街角に人影や音は無く、足元の白い石畳が眩しい。今回も柾樹は軒先の巨大な天狗や猿の面を、看板みたいに眺めて歩いていた。毎度のことだが、何も考えていない。
――――久しぶりだな。
とは思っていた。
既視感とも異なる感触に浸りながら、建物の前を横切り、柾樹はふらふらと曲がり角まで来た。そこでもまた以前と同じように話し声がしたので、導かれるように細い路地へ入り込む。
道を抜けた先で、景色が広がり風が吹いた。
高台から見える空は青藍に輝き、彼方には石灰みたいな入道雲が峰を連ねている。眼下には薄い水たまりの中に浮かんでいるような無音の都市と、地平線まで続く家々。
小舟の浮かぶ涼しげな水路があった。川沿いの柳の下には、真紅の傘を差しかけた縁台。ここは前回、化猫の火乱と化鴉の仙娥がお喋りをしていた場所である。
今回そこに居たのは、別の者だった。
大きさといい形といい、柾樹はそれを山鼬だと思った。
きれいな川辺に、白い山鼬がいる。丸い頭に小さな耳。仔猫よりは一回り大きい。毛皮は雪のように真っ白で胴は細長く、手足も少し長い。オコジョは川の方を向き、背筋をシャンと伸ばして揺るがず後足で立っていた。
「狸達の話しでは、ダイダラボッチが玉手箱を手に入れたそうです」
オコジョへ向かって丁寧に喋っていたのは、ひれ伏した巨大な蟾蜍だった。
金色の目をして、全体に濁った白い色の皮膚をしている。石のようにごつごつした図体の蛙は、喉を鳴らして言上している。あれほどの大きさのカエルなら自雷也も乗れそうだと、柾樹は場違いなことを真剣に考えていた。
「玉手箱に、『無名の君』を閉じ込めようとするかもしれません」
蛙の言葉に、盗み聞きしていた青年は「え」と耳を欹てる。動物が喋っているところは驚いていなかった。『玉手箱』が話題になっているのである。それも『閉じ込められる』と言った。
「『無名の君』は、山で座っていらっしゃいます。まだ映し世に、“うた”が現れる瞬間ではないのでしょう」
巨大な蟾蜍は話し続けている。白い花崗岩の塊のような外見からは想像できない、ころころと玉が転がるのに似た、良い声をしていた。
「おい、てめぇら」
柾樹はずかずかと川辺へ出て行き、声をかける。
「それそれ、来た来た」
ヒキガエルが柾樹に気付いて喉を膨らませると、後足で立っていた白いオコジョも振り向いた。小さなオコジョには、人の顔がついていた。肌は浅黒く、丸々と可愛らしい頬は真っ赤だった。分厚い瞼の下に、細い目がある。小人は子どもみたいな顔で、柾樹を見上げた。
「久しぶりだな」
知らない小人に、どうしてか柾樹はそう呼びかけた。自分ではおかしいとも何とも思っていない。それどころか、胸には一種の懐かしさが去来している。でもスンとして答えない小人はそっぽを向き、川の向こう、青空の遥か彼方に聳える入道雲を眺めていた。
「聞こえたぞ。玉手箱で、『無名様』を封印できるのか?」
涼しい水路と柳の木の下、不思議なオコジョ小人の隣に座り柾樹は尋ねる。
「グウェロゲロー」
「ゲロゲロじゃねぇよ」
鳴いて答えたのはオコジョ小人ではなく、傍にいた蟾蜍だった。
「何だお前は?」
「『エガラ』でございます」
名乗るや蟾蜍は川へ飛び込み、意外なほど軽快な泳ぎで水中をすいすい逃げてしまう。
「あ、こら! 逃げるな、逃げるなー!」
残された柾樹は、慌てて蛙を引き止めた。オコジョ小人より、あっちのヒキガエルの方がまだしも話しが通じそうだと思ったのに、いなくなられては困る。
「わすれたのだな。ダイダラボッチ」
と、そこでオコジョ小人が喋った。柾樹の注意は輝く水面から隣へと戻る。
先の「久しぶり」という挨拶への返事が、「忘れた」だった。噛み合っていないので、ちょっと呆気に取られる。気になるのは、そこだけではなかった。
「大鬼?」
「“かげ”だというのに、よみがえったつもりで、いるのだな」
眉をひそめている柾樹に、人面の小さなオコジョは中年男のような、可愛くない声で話しかけてきた。「つもり」も何もないだろうとムッとする。しかし何か、掴みどころの無い不安が波紋のように体内で波打ち、渦巻き始めた。
「だれかのまねしか、できなくなっているではないか」
人の面をした白い毛皮の小人は、無感情な声で更に続ける。オコジョ小人の言葉は不完全で、微妙につんのめっていた。少なくとも、さらりと流暢ではない。
「俺は真似なんかしてねぇよ」
片膝を立てた格好で、青年は憤慨して言い返した。
「いいえ、真似をしていましたよ。呼ぶ人の声に木霊の如く、『おいおい』と答え。九十九神の如く、過去を繋げて垣間見せ……」
戻ってきた蟾蜍のエガラが、草むらから大きな顔だけ覗かせて口を挟んだ。柾樹は蛙の指摘を受け、改めて一旦考える。
『おーいおーい』と呼ぶ木霊のような声なら、紅葉館で聞こえた。
祖父の部屋の縁側に、生まれる前の過去を垣間見た。
あれはみんな、柾樹が誰かの『真似』をして自分でやったのだと、大きな蟾蜍は言っている。わかったような気もしたし、わからない気もした。
「何でも良いんだよ。それよりお前、『玉手箱』の閉じ方を知ってるのか? 知ってるなら教えろ」
柾樹は自分が必要と感じる案件を優先する。オコジョ小人に向き直り、問い質した。
「『無名の君』と、あらそうのか」
詰め寄られても、人面オコジョはスンとした態度を崩さず、訊き返してくる。
「そうじゃない。神刀の『霧降』が壊れちまったんだ。仕方がないから、『無名様』とかいうのを眠らせるために、玉手箱を使いたいだけだ」
「我らは、玉手箱の閉じ方を知りません。ここには閉じ込める時間が無いのですもの」
説明する柾樹へ、蟾蜍のエガラが川縁の草の間に平たい顔をべそりと出して返事をした。昔話などで『玉手箱』は、『開けるな』という禁止条件付きで渡される。そして箱の正しい扱い方を知っているのは、人ではない者達だった。でもオコジョ小人とヒキガエルは、知らないという。
「映し世の、何百年前になりましょうか。箱をつくった幸運者は、知っていましたね。でも五体バラバラに砕けてしまいました。メフィストフェレスを箱に閉じ込めようとして、怒らせたのですよ」
細緻な模様と仕掛けの施されている不思議な小箱を作った、『幸運者』。けれど彼は扱いに失敗したらしい。
「黒い犬……? ロバートを殺した、あいつか」
呟いて、柾樹は思い出した。
雨の晩に、居留地で亜米利加人を食い殺した異形の化物。柾樹に襲い掛かってきた、黒い毛皮を被った骨の犬。ロバートは持って生まれた氷色の左目を、『悪魔を呼ぶ目』と父親に厭われていた。そしてロバートとその一族は、『何か』から逃げ回るように、欧州各地を転々としていた。全体まで柾樹の想像は追いつかないが、執念深い黒い犬は約束を守らせようと数百年、標的を追い続けたのかもしれない。
「『永遠の支配』、『冥府の眠り』……そう言って、終わりを恐れたのです。かわいそうに」
ヒキガエルは、気の毒そうに言った。
「じゃあ他に、箱の扱いを知っている奴はいねぇのか?」
欲しい商品のある別の店を問い合わせるみたいに尋ねる。祖父の幸兵衛は何らかの手段でもって知っていたのだろうが、祖父は誰にも箱の開け方を教えなかった。手掛かりとなりそうなものも、部屋には遺されていなかったのだ。
「かかしは、しっている」
浅黒い顔で、オコジョ小人が頷いた。
「案山子?」
「あれは映し世のどこにでも現れ、何でも知っています」
エガラが濁った白い巨体を丸く膨らませて答える。どこにでも現れ、何でも知っている者。
「もしかして……土々呂か?」
「そう名乗っていますか」
濃い金色の目を動かして、蟾蜍は答えた。映し世のことを何でも知っている土々呂は、『玉手箱』の扱い方も知っているという。柾樹もなるほどと思った。
「しかし、玉手箱の扱いなど教えますまい。最後の“誓約”。『針の先』です」
透明な水の流れる涼しい水路の横で、蟾蜍が無い首を横に振る。
「なぁ、おい? どうして土々呂は、ずっと雪輪に付き纏っているんだ?」
柾樹は首を傾げた。あらゆる手段を用いて『無名の君』の封印を抉じ開け、気が遠くなるほどの遠回りをしてまで『針の先』に近付こうとしている薬売り。土々呂が雪輪に付き纏っている理由を、柾樹は知らない。
「“神の成れの果て”でも、『針の先』が動けば、常世へ渡ることが叶うからです」
「帰れるのか?」
その質問は柾樹の口が勝手に喋ったのだけれど、エガラはそうだとも違うとも答えなかった。
「“うた”を歌ってほしいのに、玉手箱など使われては困ると考えるでしょう」
蟾蜍が言うには、土々呂は雪輪にうたを歌ってほしいようである。
昔からこの国の人々はよく歌った。作物が取れたと歌い、魚がとれたと歌い、祭りで山車を牽いては歌い、建物の棟上に歌い、火事場へ行く火事師が歌った。木遣や石引きや鐘引きなど、重いものを牽くときにも、うたを歌って牽く。だが柾樹には、雪輪が歌なんて歌うのかという貧相な疑問しか浮かばなかった。
「映し世の時と縦横に組み込まれ、あれは己がわからなくなってしまいました。あれにとって『針の先』は、使い方のわからぬ道具です。映し世に、何をどう縫い止めているのかも見失っています。それでも『針の先』へと向かう法則だけは、今も保っているのです。それゆえ同じ過ちを繰り返します」
蟾蜍は喉を鳴らし、それこそ歌うようにコロコロと語る。『針の先』が常世と繋がっているという、そこしかわかっていない土々呂。
「過ち……? 何をしたんだ?」
「ゲコゲコゲコゲコ、グォログォログォログォロ」
「答えろよ!」
急に蛙声で鳴き始めたヒキガエルへ、腕組みした青年は怒鳴る。エガラとかいう蛙は丁寧に喋ってくれるのだが、柾樹は部分的におちょくられている気がしてならなかった。
「『針の先』へと群がっては、壊してしまいましたよ」
美しい声でエガラは言う。
「土々呂は、ひとのものを横取りしてやろうって魂胆だったのか」
「あれは悪くないのです。誓約が守られなかっただけなのですもの」
納得していた柾樹を、ヒキガエルは訂正した。
「あなたも『針の先』を横取りしたいのですか」
「あ?」
まるで見てきたようにエガラに言われ、柾樹は横取りという言葉に吃驚してしまう。
「かなしいですが、“影”はこちらへ渡れませんよ」
清々しい光りを浴びて、巨大な蟾蜍は呟いた。傍らのオコジョ小人も黙っていて、小さな丸い頭は僅かに項垂れている。
「映し世は奇妙ですね。みな変わってしまいます。間もなく『無名の君』の来臨。『一の祀』の、『神逐』が始まりましょう。あなたと人とが名を付けたのですよ。でも、それも忘れてしまったでしょうね。お別れです、ダイダラボッチ。潮が引きます。舟が出ます」
のっそのっそと平たい体が動いて方向転換し、巨大な白い蟾蜍は別れの言葉を口にした。
「何だ……俺はここに帰れないのか?」
再び柾樹の口が、意思とは無関係に囁く。
自分でも何を言っているのかわからないが、こいつらが言うならそうなのだろうと、変に落ち着いていた。眼下に広がる、薄い水たまりの中に浮かぶような街。地平線まで敷き詰められた色硝子の屋根がきらきら輝く様を、懐かしい切なさに吹かれて眺める。
「他の“成れの果て”たちも、同じですよ。『針の先』を潰して、壊してしまうだけでしょう。人と同じで、あの者たちは、時が満ちて“うた”が降るのが何時なのか、わからないのですもの。かつて人が言霊を知ったときのように、火の扱いを悟ったときのように、数を閃いたときのように、“終わりのうた”は舞い降りるのですけれど。それまで近付かせないために、猫が追い払っていますから」
穏やかな口ぶりで、蟾蜍は教えてくれた。
「でも……ゆるしのことだまがあれば、かえりくるやもしれない」
白い毛皮を纏った小人が、振り向いて告げた。
そこへ、川に停泊していた小船の影から何か現れる。どんぶらどんぶら流れてきたのは、椀のような形をした、黒くて丸い舟だった。長い尻尾を翻し、ぴょんとお椀の舟へ飛び乗ると、オコジョみたいな小人は川を下って流れて行ってしまう。
去りゆく小さなものは別れを告げず、一瞥もしなかった。
見送るものはそれが礼を欠いていると、ちっとも思わなかった。
――――あいつを遠くへ追いやったのは、俺だった。
違う世界であるからやめろと言われたのに、人と共に映し世にいると決めた自分は誰だったか?
かつての同胞だった小さなあいつの名は、何といったか?
そう考えたところで、柾樹は目が覚めたのである。
自室のベッドで仰向けになり、瞼も半開きで、しばらく天井を見ていた。全身に重力が掛かり、頭は靄が漂うようで動けない。今回もまた、目が覚めても泡と消えない夢だった。水路の小波や風の感触、ヒキガエルの声と言葉。人の顔をした、白くて小さな山鼬の眼差し。細部まで思い出せる。しかし
「何だって、俺がダイダラボッチなんだ…………?」
薄明るい部屋で、独り言が漏れた。古井戸の大鬼は、滅び去ったはずだった。おかしな点は他にもあった。不自然なほど、夢の内容と感触は鮮明に思い出せる。夢は思い出せるのに
「……『俺』は、誰だったかな……?」
目覚めた後の自分が何者か、一時間ほど思い出せなかった。




