神は賽を振らない
根本的に違う世界というものがあって、これを無理に『人間の』解するかたちにする。
すると、大よそこんな景色になる。
「つまらぬのう」
艶やかな薄布の片袖で口元を覆い、美しい童女が言った。
外見は、『人間』ならば五つ前後といったところ。愛らしい曲線の頬は真珠のように輝き、白銀の髪を長く垂らしていた。流れる髪の表面を、青や紫の光が零れ落ちている。瞳は透き通る紫色。瞼を縁取る睫毛も、また銀白に輝いていた。童女は小さな身体に色とりどりの薄布を幾十枚と羽織り、首から下全て覆い隠している。
「これでもう、この『水盤』で遊べぬではないか」
目の前に浮かぶ厚みの無い『水盤』を覗き込んで、可憐な童女は薄紅色の唇を尖らせる。水盤は鏡のようでありながら、細かな波紋が絶え間なく揺れていた。『水盤』は一つではなく、果ての見えない蒼穹の下は見渡す限り“鏡の平原”。蒼を映す銀色の鏡が一つ、切り出されて浮かんでいた。
「あまり駄々をこねられて、この翁を困らせてくださいますな」
鏡の平原の上で水盤を挟み、老年の男が笑みを浮かべて語りかける。
無骨な手には黒と金の大きな扇。剃髪に、堂々とした巨大な体躯。鈍い緋金の袈裟と、細緻な模様の織り込まれた分厚い漆黒の裘代を悠々と纏っている。頬は張りがあり、微笑めば皺が威厳となって刻まれた。皮膚は浅黒く、黄緑色の瞳が発光して仄かに光っている。
「よい勝負であったと思うたものを」
「まこと、よい勝負にございましたな」
白い童女と黒い老人は、宙に浮かぶ水盤を眺めて語り合っていた。
「されど、そなたの勝ちではないか」
妖艶な輝きを宿す紫色の眼差しで、白い童女が言う。
「『霧降』が無ければ、かの勝敗は変わっておりましたろう」
大きな身体を揺らして答え、老人は破顔した。
「わしの打った大蛇神の『霧降』が、悪手であったのじゃな」
映し世では、既に伝説の彼方となった時代。白銀の髪をした童女は、それをつい先刻の出来事として語る。
「あれこそは、思い切りの良い一手にございました。驚きましたぞ。しかしながら、少々思い切るのが良過ぎましたな。『霧降』の暴走により我ら常世の者は、すべからく映し世から追い出されてしまい申した」
「悪手であったのう……。思いがけぬ変化があってこそ、勝負の面白さとは申せ」
「何の、映し世にその『時間』が訪れただけのことでございましょう」
「四百九十六の『人形』は、手に入れたが」
呟いて背後を見た白い童女の視線の先に、かつて手に入れた『人形』の一つが傅いている。
紅色の薄絹を纏った白磁の肌と細い手足。艶やかな赤茶色の髪。整った柔らかな眉。花弁のような赤い唇をしていた。鼻っ柱の強そうな面構えをして、きりりと目尻のつり上がった目玉は動かない。
美しい人形は『常清』と名も付けられるほど、童女のお気に入りだった。
先頃、少し壊されそうになったりもしたけれど、元の姿を取り戻している。綺麗な人形は主である童女により、永遠を約され『形』だけを残していた。『中身』は白い童女の影である。そのため、空っぽの『木乃伊』と、からかわれたりもした。
映し世に在れば、よく喋り無邪気に振る舞うが、影は本体を前にすれば影でしかない。
「そちには、八百と八も手駒があるではないか」
「まだ新しい人形が欲しゅうございましたか? されど最後の『針の先』は、やはり『無名の君』のもの。こればかりは」
「わかっておる。それゆえ、そちの勝ちじゃと申しておろう」
ちくりと童女が棘のある返事をすると、黒い翁は微苦笑した。
後ろで少女の『人形』は、大人しく傅いている。
人形になる前、この『常清』は、時間の無いこことは違う場所で生まれた。
神々が人と共にいた時代。少女は、ある御方のお傍に侍るはずだった。黄金の輿に乗り、迎えに来る『その方』と契りを結ぶ。宿命に従い、集められた者の数は四百九十六。
しかし決まっていた“誓約”の成就を、拒否した者がいた。
悲痛な願いの言葉は聞き届けられる。映し出された大蛇の神により、神食いの剣が現れた。四百九十六人の宿命だった“誓約”は食われ、塗り潰される。そして大蛇を呼び出す方法を囁いた、紫色の瞳の『姫様』が降臨した。
宿命から逃れた少女達を待っていたものは、姫様の『針の先』となる別の宿命だった。
――――そうかそうか。涙が出るほど嬉しいか。何と愛おしいものよ。
喜ぶ『姫様』によって、常清は幸せな『人形』となった。
「これで『無名の君』がここより出でれば……我ら再びこの水盤に関わること、叶わぬのじゃな」
厚みの無い水盤へ、あどけない顔を近付けた童女は鈴を転がすような声で呟く。
「まだしばし、かように眺めることは出来ましょう。それもまた、愉快にございまするぞ?」
七色、八色と変化し続ける水盤を見つめ、老人は黄緑色の目を細めた。
「つまらぬのう……『言霊』が現れて、常世からも入り込めるようになったと申すに」
顔を突っ込んで遊び足りない、という様子の童女を、老人は叱らない。
「永久に変わらぬ常世と違うて、映し世は目まぐるしく変わりまするからな」
水盤に細かい泡が弾けては溶けて消える様を、とっくり眺めて翁は言った。
「あれは、『人間』はおもしろいのう? 食うて殖えて、彼方此方と駆け回る。それだけの仕業を大仰に騒ぐ。思い違いをする。見間違う。あわれで愛しゅうて、美しいではないか」
小さな『水盤』の世界の、また極小さな一点。刹那の一時、瑞獣と呼ばれた情け深い姫は、嫣然と微笑んだ。天衣無縫な白い童女に、黒い翁も微笑み返した。
「まこと、姫はお優しゅうございまするな。『無名の君』がお戻りになれば、何と申されましょうや」
「つまらぬ。ああ、つまらぬのう。星が砕けて散る方が、輝いて華々しかったものを!」
聞いた途端、あくびでもしそうな表情になった童女は、再び色鮮やかな片袖で顔を半分隠してしまう。
「これにて、そなたの好む、静謐な終わりとなるのであろうな?」
「はい。星の火が燃えて尽きるが如くに」
「在ったことを知る者は消え果てて」
「始まる前へと、戻るまでにございます」
拗ねた顔をしている童女へ、老人はにこりと微笑む。
「では、我らが貴き君がお戻りになるまで……次の勝負、こちらの水盤は如何かな?」
「どれじゃ?」
老人が黒と金の扇を上げると、パキリと音がして、下から新しい『水盤』が浮き上がった。童女と老人は、浮かび上がった別の鏡を覗き込む。
幸も不幸も無い『永遠の宮』で、次の遊びが始まろうとしていた。
神は賽を振らない。しかし『人の理解を超えた何か』は、今日もサイコロを転がしている。
この小さな小さな物語の始まりは、遥か昔に遡った。
誰も覚えていない時代に語られていた、遠いおとぎ話がある。
神代の昔。まだ白い童女の姫様や、黒い翁もいなかった時代。千を七つ並べて、到底足りないほどの昔。『とてもおそろしいこと』があったという。
――日輪は蒼褪め、月は掻き消え、雪と灰が降りつもり、冬は百年続いた――
天は骨と同じ色に染まり、地のあらゆるものが灰白色の中へ吸い込まれる。
人も獣も草花も、ある日突然、濁流となり駆け下ってきた灰白色の雲に呑まれ消えてしまった。免れた者達は亡者のように彷徨い、それもまもなく雪と灰とに埋もれていった。
春と夏と秋は、それきりどこかへ去ってしまった。
唐突に訪れた、終わらない冬。閉じ込められた者達は、暴威の理由もわからない。食べ物が消え、飲む水は失われ、身体を休める場所も見つからない。破滅の冬の只中で、泣く動機も生きる理由も忘れ果てた。死なない道を探し続ける者だけが生き延びた。悲劇は度を越し、滑稽な憐れさで歩き回り、飢えと寒さの中を耐え忍ぶ。いつまで経っても、雪と灰とは降り止まない。水は止まり、風が止まり、色は失われ、全ては灰白色の底へ消えていく。
そして何もかもが消え果てて、ただ一人を残し誰もいなくなったとき。
静まり返った一人ぼっちの死の淵で、残った一人は『誰か』を呼ぶ“うた”を歌った。
時の彼方に見失われた、古い『誰か』のうただった。まだ鳥が飛び獣が走り、大地は緑や黄金に染まり、青い水が流れ赤い花が咲いていた頃。
――その名を呼ぶ『本当の言葉』が届けば、古い『誰か』は願いを叶えるために、降りてきてくれる――
僅かな伝承の欠片に縋り、渇する一人がうたった声は、『誰か』に届いた。
雪と灰とが、降るのをやめる。止まった海が流れだし、分厚い雲は風にちぎれて世界に色が戻りはじめた。『誰か』の手に守られて、一人は水を得る。草の根を食べ、雪と灰と獣の牙から身を隠す洞窟まで辿り着いた。眠りの安らぎを得て、導かれるように時間は移ろう。そうして一人は、奇跡のもう一人と巡り会い、失くした涙を思い出した。
遠い遠い、おとぎ話。
一人は二人になった。二人は三人と四人になった。七人と八人になり、十四人と十六人になった。十四人と十六人は、三十一人と三十二人に別れ、百二十四人と百二十七人になった。
とうとう、三千三百五十五万三百三十六人まで、子らは生まれた。
やがて“誓約”のうたの通り、八千百二十八人の子が『針の先』になるときが来た。
むごいことだとみんなが泣いて、古い『誰か』は千年眠った。
やがて“誓約”のうたの通り、四百九十六人の子が『針の先』になるときが来た。
くるしい別れでみんなが泣いて、古い『誰か』はまた千年眠った。
やがて“誓約”のうたの通り、二十八人が『針の先』になるときが来た。
かわいそうだとみんなが泣いて、古い『誰か』はまた千年眠った。
やがて“誓約”のうたの通り、六人が『針の先』になるときが来た。
かなしいことだとみんなが泣いて、古い『誰か』は再び眠った。
――――百代先まで忘れはしない。最後の一人は、きっと、必ず。
そう誓った。だが豊かな色と音とが戻るにつれ、狂うほどの悲惨も絶望も、涙に震えた神秘も。恐慌の悲鳴とその記憶さえ、漂白され幻となる。
「そんな昔話は間違いだ」
「我らには力がある」
「終わりの日など、もう来ない」
いつしか祈る者は減り、迷妄は役に立たぬと失われ、古俗は彼方へ追い払われた。
ずっと昔、人形になる前の少女が契るはずだった御方。
長い時を待ち続け、呼ぶ名も忘れ去られた古い『誰か』の残り滓は、『無名の君』と呼ばれている。




