Last quarter moon
主のいない家は、灯りを点けられない。
帝都は神田区に建つ長屋で留守番をしている娘は、暗い部屋で庇の向こうに掛かる月を見ていた。狭い縁側の向こうには、おもちゃのような小さな庭がついている。
娘の肌は青白く、長い髪は濡れたように黒い。灰色の太織で包まれた細い身体は、小刻みに震えていた。異様につり上がった目は、黒々と光っている。
「堀田様は、どうなさったのでしょう」
春の夜に霞む月を眺め、雪輪は呟いた。
「酒でも飲んで歩いてるんやろ」
傍らで、渋い声が答える。
縁側に蹲っていたのは、赤い毛の先を金色に光らせた大きな猫だった。普通の猫より、三まわりは大きい。人語を操る赤毛の大猫は、自らを『火乱』と名乗っていた。白い娘の守り役であり、世間で化猫と呼ばれる存在である。
火乱が『映し世』へ最初に顕現した時代は、千年ほど前に遡った。
始まりは、かつて花の都にいた貧乏貴族である。この男が、左大臣家の姫君に噂だけで恋をした。見も知らぬ、決して結ばれぬ相手である。恋に迷った男は、古代の術を真似て猫の姿の『神』を映し出した。せめて姫と同じ日、同じ場所で死なせてくれと、涙を払って哀願する。
――――阿呆らし。
鼻先で嘲りながらも赤い猫は願いを叶え、左大臣家の姫は病に倒れた。世の中でこれは呪いと呼ぶに相違ない。それでも願は成就した。用事の片付いた火乱は常世へ戻るため、飼い主の貴公子はぺろぺろ丸めてしまう。
そこで化猫は止められた。止めたのは、華厳と名乗る外道の呪禁師だった。
遠い地の山に眠る、名の無い神の『針の先』。それを守るため、我が式神にならぬかと持ちかけられた。ここで火乱も勘付いた。外道の呪禁師は『守り役』となる存在を映し出させるため、貴公子へ古の呪を教えたのだろう。
だが化猫には与り知らぬ人間地獄で、式神になるのも悪くなかった。火乱はこれに乗り、華厳の『式神』という新しい誓約が成り立つ。“軽く”なり、常世と映世の行き来が容易になった。目まぐるしく変わる映し世を見物し、遊び歩いて千年と少し。
ようよう『名の無い神』が目を覚まし、事態が動き出した。
火乱は散策気分で、武蔵野まで様子を見に来たのである。そこで酒樽に頭を突っ込み、飲んだくれているときに出会ったのが、最後の『針の先』となる雪輪という娘だった。
「どこぞでまた土々呂に、厄介をかけられたりしていないでしょうか?」
これでも一応、姫と呼ばれて育った娘は、長屋の縁側から下弦の月を眺めている。夜空に向け、小さな声で言った。常世へ渡るため『針の先』を欲しがっている神の残り滓たちに、ここの家主である堀田という老人が、引っ掛かってはいないかと案じている。
両国橋で身投げしようとした雪輪を止めるため、火乱は人間の堀田源右衛門を連れてきた。そうして雪輪が源右衛門に連れられ、この神田区の長屋へ入り込んで一月弱が過ぎている。
「だんない、だんない。ひいさんがこの長屋におるのも、まだ奴ら気付いてへんわ」
欠伸して、火乱は返事をしてやった。
「それならば良いのですが……。春先とはいえ、まだ朝晩も冷えます。お風邪をこじらせないと良いのですけれど」
隣家の板塀の上から枝を伸ばして眠る紅梅を見て、娘は尚も言う。
「ええ歳した大人やろ。放っといたらええわ」
歳をとれば大人であろうという、化猫の理解と理屈で返した。月明かりの縁側で火乱は仰向けに引っくり返り、腹の毛を舐める。
「火乱、お食べ」
赤毛の猫の鼻先に、雪輪が簡素な膳をすすめた。中には小さな丸い握り飯が二つ入っていた。近所の左官の女房が、「お口汚しですが」と運んできたのである。源右衛門は喜んで受け取っておきながら、食わないまま、「用事がある」と出掛けた。
「何や、いらんのか?」
化猫は緑柱石と同じ色の目で、娘を見上げる。
「お腹が空かないのです」
答える雪輪は震える白い指を伸ばし、火乱の顎をくすぐった。化猫はこの娘に撫でられるのが、存外に心地が悪くないと学んでいる。
「ほんなら、呼ばれとこか」
長い尻尾を振って膳の前に座り、猫は行儀良く食べ始めた。握り飯をモシャモシャ齧り、火乱は「ひいさん」と声をかける。娘が黒い目だけ動かして振り向いた。
「あの爺さん、何やアカンかったか? 親の知り合いやったんやろ?」
緑の瞳の隅に月を宿して、大きな猫は質問する。
帝都へ来たばかりの頃、雪輪と弟の狭霧は、源右衛門と会って話しをしている。そして老人の世間話によれば、雪輪の父と源右衛門は『友人』のはずだった。だが静か過ぎる娘に、化猫は不自然を嗅ぎ取っている。
「堀田様は……駿河台にある『相内』殿という御大尽のお屋敷で、門番をしていたそうです」
特に見るものも無い小さな庭へ視線を戻した娘は、一呼吸置いて語り出した。
「門番?」
猫は繰り返して、左の耳が動く。
源右衛門と雪輪は、初対面に近かった。共通の話題も少ない。喜んで爺の相手になるほど陽気でもない旧旗本の娘に、元御家人は暇と気まずさに任せて身辺の人間関係を喋っていた。
「そのお屋敷のご嫡男である、柾樹坊ちゃんという方の、お話しをなさっていました。かなり親しく……お孫のように思っている方のようです」
ぽつぽつと話す雪輪の黒い瞳に、冷やかな光りが満ちていく。
堀田源右衛門は十年以上、駿河台にある『相内』という政商の大屋敷で門番をしていた。先代当主とは古い顔なじみであり、総領息子の“爺や”同然となり、親しく付き合っているという。
「……ひいさん、そっちの『相内家』とやらも知り合いか?」
赤毛の化猫が問うと、真っ白な娘は無言で、つり上がった目を僅かに細めた。
「父が少々世話になった、あの方でしょう」
名前も言いたくないようである。
これほどの拒否感があった上で、雪輪は源右衛門のお喋りを何も知らないように聞いていたのだから性質が悪い。
「あらぁ~……。もしかして例の鉱山開発の、アレかいな?」
雪輪の父親が故郷の里で鉱山開発に手を出し、大失敗をした経緯は火乱も知っていた。
「もし狭霧がいたら、悶着が起きたやもしれません。いなくて良かったと思っておきましょう」
帝都で離ればなれとなった弟の名を出し、娘は目を閉じる。
元御家人の源右衛門と、雪輪の父である湾凪抛雪は旧幕臣同士の知り合いだった。更に湾凪家と、新興貴族の相内家も、鉱山開発の相談をするほど関わりがあったのである。湾凪抛雪という人物はお殿様ではあっても、大博打に飛び乗る男ではなかった。両家を結びつけ博打に乗せた者がいる。それが堀田源右衛門だった。
「はー、そら悪かったなぁ。赤目御前様の結界の中で、わいも鼻がそこまで利かへんねや。堪忍やで」
赤い舌で口の周りを舐めると、全く悪びれる風もなく火乱は詫びた。火乱も常世や雪輪と関わりを持つ人間であれば、ある程度は嗅ぎつけられる。だが絶対ではなかった。
「ほんで、そない爺さんの世話にはなれへんちゅうことか。『盗泉の水は飲まず』ってやつかいな?」
人間くさい言葉を用いて、化猫は先の話しの続きを尋ねる。
源右衛門は門番として、相内屋敷に雇われてきた。雪輪が招かれたこの小奇麗な二間の家も何もかも、相内家より回ってきた銭金で出来ているようなものである。
「助けて頂いて、まことに有り難いこととは思っていますよ」
「ホンマかいな?」
前足を舐めて顔を洗い、犬ほどの体躯をした大猫は小声で零した。雪輪は過剰な潔癖を主張する気は無いにせよ、相内家と関わりたくはないのだろう。
「元より、こちらで長居は出来ないと思っていました。火乱が詫びることではありません」
表情の無い顔で娘は答え、黒い瞳はまた庭を見る。
雪輪は弟の状態が落ち着くのを確かめたら、故郷の地へ帰りたいと火乱に伝えていた。この娘には『子授けの神通力』がある。自分が人口密集地に居ることを、懸念していた。帝都へ来る途中の宿場町では、『子授け』の騒ぎも再燃しかけている。もっとも『針の先』の宿命は、人間ごときがどこに居ようが逃げられるものではなかった。
それでも雪輪が『無名の君』の眠る故郷の山へ戻るなら、化猫に止める理由は無い。
「妙に世話焼きな爺さんや思たら、そないなことがあったかぁ。そらちょっと顔色変わっても、仕方ないのかもわからへんな」
縁側の月見に戻り、赤い化猫は長い尻尾をゆらゆら振る。
深夜の鍋焼きうどんを切欠に、湾凪家の姉弟と会ったときから源右衛門は親切だった。火乱に導かれ、隅田川へ身投げしようとしていた娘に出くわしてからは、もっと親切になった。
「後ろ暗いわなぁ。ひいさん、ちらっとも笑わへんし」
ここまで火乱はくっ付いてきて、一部始終を見ている。堀田老人が話しかけたり、おどけてみせても雪輪はぴくりとも笑わなかった。
「面白ければ笑うのですが」
背筋を伸ばし、整った正座を崩さない娘は愛想がない。源右衛門のおどけが、単純につまらなかったらしい。それはそれで頭の高い反応だった。
「それに、わたくしが堀田様をなじっても、仕方がないでしょう」
涼しい声で娘は言う。いじらしい遠慮をしない代わり、源右衛門に対しては憎悪や嫌悪も燻らせてはいなかった。
「ま、ええんやええんや。こないなのをな、報いとか因果応報いうんや。少しいけずしたったらええねん」
火乱は適当なことを喋る。手を振る代わりに、赤い尻尾を左右に振った。
動乱と混迷の時代に、手段を選んではいられなかったのだろう。使える全てを使って生き延びてきた元武士は、自らの行いの一端により現在が少しばかり苦くなった。
「報いならば……堀田様は、すでに受けていらっしゃるのではないでしょうか」
雪輪が物思う眼差しになる。
「ふうん? その組紐か? 何や聞こえたんか?」
化猫の透き通る緑色の瞳が見上げたのは、娘の震える華奢な指先が触れたもの。高く結われた黒髪の根には、外道の呪禁師が眠る藍碧玉の簪がある。そしてもう一つ、古臭い紫色の組紐が結われていた。これは灰色太織の着物と一緒に、源右衛門が雪輪へ譲った品だった。
「ご子息の形見であったようです。こういう組紐が、昔は流行していたそうですよ」
ざっと三十年近く前になる。あちらもこちらも久々の血に酔って、のぼせていた時代に流行した。
「へ、そうやったか?」
「ええ。維新の志士や、彰義隊の絵草紙にもあります。でもその後に、断髪令となりましたから」
化猫はそんな人間の些細まで興味が無いけれど、そんな変転もあった。
「それで、何が聞こえたんや? あの爺さんの倅の声か?」
「いいえ。ご新造様の声が」
雪輪は紫の組紐が伝えてきたその『声』について語る。
「亡くなる直前だったようです」
月の光に輪郭まで青くして、娘は呟いた。
源右衛門の妻は、虎疫で死んでいる。死の床で、亡き息子の形見を握り締めていた。枕元の夫が語りかける、白湯は欲しいか寒くはないかという呼びかけは、今わの際の耳にもう届いていなかったか。
「『武家の女でいるうちに、死ねばよかった』と」
うわ言みたいに堀田家の妻君はそう言い残し、こと切れた。
「えらい厳しいこと言わはったな……」
化外の者にしては人情の理解できる火乱は、針に似た白い髭をひくつかせた。討死もせず生き残った武士の端くれは、長年連れ添った妻に最期の最後で、渾身の恨み言を聞かされたのである。
「そらまぁ門番の爺さんも、形振り構わず駆けずり回るわな」
火乱は伊達な声で言った。
飄然と見せて、あの老人もどこかしら後悔はあるのだろう。蹴落とした相手の忘れ形見が亡妻の着物を纏い、死んだ息子の組紐を髪に結っている。黒い過去が、家に帰ると座っている。これを明るく引き受けるには、元御家人は歳を取り過ぎていた。
源右衛門は、己が長くないと悟っている。そのため雪輪の次の引き受け先を探しているが、まだ見つかっていない。息切れと咳を堪えて町を歩き回っていた枯れ木みたいな老人を、火乱は屋根の上から見ていた。
「あ」
そのとき雪輪が、月に照らされた顔を上げる。蒼い夜の底から、遠く汽車の笛がピイーと聞こえた。
「良い音」
常に静かな娘の声が、微かに弾んだ。雪輪の故郷の付近には、まだまだ鉄道の敷設は進んでいなかった。
「ひいさん、汽笛が好きなんか?」
火乱が尋ねる。
雪輪は自ら外界との接触を断っていた。恐がっているのだと、火乱は見ている。恐れの対象は、他者の害意ではなかった。雪輪は己の手で、世界に触れて壊してしまうことこそ恐れている。それでいて好奇心は強かった。
帝都にひしめく家々の黒い屋根瓦や、喫茶店の窓に嵌め込まれた色硝子。赤い煉瓦の建物。上野山から響く鐘。空に張り巡らされた電線。居酒屋から漂う油の匂い。立ち並ぶガス燈の火。道行く商人の賑やかで長閑な呼び声。天を駆けるような馬車。暁の隅田川の上を滑る数多の釣り船。鰻屋の蒲焼の煙。闇夜に鉄棒を引く音と、手風琴が奏でる新しい歌。
入り乱れる新旧あらゆるものに興味を示していた。墓地や廃屋の陰、泊まり歩く先々で、男に笑われ女に変な目で見られながら、捨てられた古新聞や広告を手に取っては読んでいる。
――――火乱、この『破傷風菌』とは、どういうものですか?
火乱はわかっているけれど、言えないので「はてな?」と答えておいた。
すると雪輪は、自分で情報の欠片を集めてくる。
――――治らなかった病が、治る時代になるのですね。
細菌とそれを培養した偉大な博士の功績に、感心していた。自分がその恩恵を得ることは無いだろうに。
未来への役に立たない感動を抱いた娘が行き着く先を、化猫は知っていた。その古い“誓約”の成就を守るため、火乱は式神となって『針の先』の傍らにいる。だが千年過ごすうちに、少しだけ人の情がわかるようになってしまった化猫は、何だか鼻がむずむずしていた。
「夜の汽笛は、良いものですね」
美しい音曲に耳を澄ませるように、雪輪が囁く。理由は不明だが、この娘にとって汽笛を聞くのは夜に限るようだった。
「聞いたら、何と言ったでしょう?」
再び下弦の月を見上げた娘の声は、早春の夜空へ溶けていく。
夜の汽笛を聞かせたかった人は誰かと、赤い化猫はあえて尋ねなかった。




