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こぎゆく舟のあとの白浪

 部屋がもぬけの殻になっていると家の者達が気付いた頃、柾樹はすでに駿河台の屋敷を抜け出していた。こんなにとっとと家を出た理由は、今日の夢見が悪かったのと、他に用事があったからである。


 裏庭の騒動の後、しばらく古井戸の傍で空を眺めていた柾樹は、間もなく動けるようになった。自分の足で母屋まで戻る。土埃にまみれていたので湯だけ浴び、自室のベッドへ潜り込んで寝ていた。やすのや、時にはよしのまで部屋へ様子を見に来る。寝たふりをしていた柾樹も、悪い気はしなかった。


 ただし母については、あまり考えたくない。元から記憶は無いも同然だった。でもどこかで母という存在を、漠然と善きものと想像し、何らかの淡い期待はあったのだ。乳母や子守が何人変わろうと、『産んだ人』は生涯変わらない。名前を呼ばれたときに心地が悪かったのは、特別なものを前にした戸惑いだった。


 けれど目の当たりにしたのは、娘たちを罵倒する姿。『必中の賽』に追い縋る様子。亡者となった兄の手に絞め上げられ、振り回されていた有様。


 何だあれは、と思った。

 柔らかいだけの塊が、のたうち回っている。非力で弱く、露骨なまでに生臭い。なめくじでも見たときに近い、変な気分しか残らなかった。自分はアレから生まれたという。が、兄の太郎と違って恨みも絶望も無いのがかえって空虚だった。つまり『母』と関わりがあるとして、通りすがりみたいなものなのだろう。アレを通って、この世に出てきただけなのだ。


 父の重郎には、姉達が事態を話してくれたらしい。家を抜け出るとき小耳に挟んだ限り、裏庭の森で起きた騒ぎは屋敷内で『古井戸が陥没して起きた事故』と処理されたようだった。無難な解釈であり解決だと思う。よしのが騒いでいないから、紅葉も無事と思われた。


 身軽になった柾樹の帯の間には、コヨーテの拳銃。懐には銀色の『玉手箱』が入っている。財布も持っているが、中に隠れていた小豆たちはいなくなってしまった。予備の銀縁眼鏡もただの眼鏡で、返事をしない。


 これが正常なのだ。しかし、いらぬ説教をしてくる眼鏡や、キャンキャンうるさい財布も悪くなかった。世界が急に静かになってしまって、奇妙な虚しさを持て余している。


「どうするかな……」

 少し遠くなった空を見上げる柾樹は、下駄を鳴らして呟いた。

 古道具屋へ持って帰る気でいた、御神刀の『霧降』。石の刀は失われてしまった。代わりに『玉手箱』は手に入れたけれど、これは約束の品と違う。


 ――――アイツ、怒るかな?


 考え事と共に土の道を歩いていくと、空が広くなってくる。

 神田川沿い火除地の辺りで、昌平橋が見えてきた所だった。枯れ始めた草の土手と、苔生した石垣。水路には昔ながらの荷足にたり伝馬てんまが漂い、船がぞろぞろ停泊している。その船のどれかの、人夫と思われた。


 汚らしい男が木の橋の袂に座り込み、柾樹を見ていた。


「……何だ?」

 自分が目立つ方の外見をしているのは、自覚がある。

 それでも相手の視線の中にただならぬものを感じた柾樹は、下駄の足を止めその男へ声をかけた。


 痩せた男の髪は濁った灰色で、貧相なチョン髷に結っている。前歯の主張が強い黒ずんだ顔に、無精髭。着古した木綿の単衣と、足には草鞋。酒臭いと思ったら、腰には徳利がぶらさがっていた。


「気を悪くなさったなら、ご勘弁を。ちと、人を探していたもので」

「人?」

 落ち着いた物腰で返事があって少々驚いていると、男はしゃがれた声で話し始める。


「お世話になったお方の忘れ形見が、帝都へ来ているはずでして。今日はここまで、舟の手伝いで寄ったものですから。運が良ければまたお会い出来ないだろうかと、何とはなく探していたのです」

 往来の中に人を探す目をして、男は言った。


「それが、貴方をお見かけしたら……何故か、別の昔を思い出してしまいましてな。昔の知り合いを」

 痩せた男の、酒焼けした喉が発した掠れ声は、道行く大八車の音で消えかける。


「知り合い? 俺が?」

 僅かに首を傾げた、背の高い青年の前で

「いいえ、もう昔話で……それに向こうは私に馴染み顔をされても、御免蒙ると申しましょう。世の中を見る目が無かった男は、ノンキの挙句に乞食となり。あちらは見事な出世をし、大名屋敷の主にまでなったと、そんな話しで」

 黒ずんだ褐色の顔で、皺も深い口角が答えて微かに笑った。


「面白そうな話しじゃねぇか」

 どこが心の琴線に触れたか。隠者みたいな男の声に潜む何かが、柾樹をそこに引きとめた。

「今時分の若い人の耳には、多少珍しくも聞こえますか」

 貧しい身形の男は橋の袂で、風雨に晒され続けた地蔵のように座り込んでいる。土の地面を見つめる目元には、青い陰を宿していた。


「そうだな、聞いてみたい。いつの話しだ?」

 腕組みした書生青年は、相手を見下ろして尋ねる。首を捻る動作をした男は、垢と埃にまみれた顔を伏せて話し始めた。


「大した話しではないのですが……。私はこれでも若い時分、一角の店を営んでいたのですよ。しかし私より四代前からあった家屋敷で、その有り難味も苦労も知らず。家の一切を周りに任せきりで心学講舎を開き、学者を気取っておりました。よくある失敗話しの、お膳立て通りでしょう? ある日そこへ、ふらと男がやって来ましてな。ぼろの着物で、生国も曖昧。乞食か、浮浪の者といった風体でした。どこかの村で、番太郎をしていたと話していましたな」


 涼しい秋の川風が柔らかにそよぐ中、過ぎた時代を物語る。

 干物みたいなこの男は、御一新の前まで豊かに暮らしていたという。閉じた太平の世に磨き上げられた理念と理想に埋もれ、世俗に浴せずとも生きていられた、学者肌の若主人だった。

 そこへ突然やって来た、浮浪の男。


「とても学問に興味があるとは見えない。しかし、どうしても入れてくれと言いましてな。『そうしなければならないのだ』と、地面に這い蹲って頼み続けるのです。何故なのだと理由を聞くと……長らく悩んでいましたが、白状しました。『託宣で、ここへ行けと出たのだ』と」


 文字も読めそうにない浮浪の男が、儒者の話を聞きに入りたい理由は『お告げ』だった。


「文明が拓けた今では、お笑い種と片付けもしましょう。だが昔の人というのは大層素朴で、迷信深かったのですよ。何かというと縁起を祝ったものです。迎え弔いに逢ったと喜んだり、辻でいたちが前を横切れば、縁起が悪いと道を変えたり……。他愛ないものでした」

 豊かに暮らした頃の名残か、男の口調は品があり行儀が良い。


「私は学者気分でいましたから、少しは目が啓けているつもりでした。呆れつつも、こんな無学な男なりに『託宣』とやらに意味を見出す志があるのやもしれぬと考えましてな。憐れむ気持ちで、入れてやったのです。末席どころか、縁側の隅にいる有様でしたが」

 昔は『先生』だった貧者はそう言い、懐かしそうな眼差しを再び往来へ向けた。


「ぶらりぶらりと歩き回っているだけの、一風変わった男でした。でも目はきらきらとして、如何にも一癖ある面構え。どこに暮らして、何をしているか誰も知らない。かと思えば、どうして知り合ったのか立派なお侍様を連れてきたりする。にやにや笑うばかりで答えない。そして日々の飯を食えるだけの稼ぎはある」


 件の男は自分から心学講舎へ入れてくれと言った割に、学問をする気配もない。目の開いている先生も、不思議に思った。


「どうやって日銭を稼いでいるのかと、一度尋ねました。すると男は『お前には恩がある』と、懐から見たこともないサイコロを、幾つか出して見せましてな。『これで決めるのだ』と言うのです。『これは必ず正しい答えを教えてくれる賽なのだ』と」

 白髪まじりの顎鬚をなでた男は、乾燥しきって罅割れた唇で小さく笑って言う。


「サイコロか」

 川端に突っ立った柾樹は、空に流れる薄い雲を眺めて、鸚鵡返しに呟いた。

 そうなのではないかという予感は、何故だか最初からあったので驚きはしない。


「おかしな話しに、驚きましてな。どこで手に入れたのか、冗談のつもりで訊きましたら、『とあるお屋敷へ忍び込み、そこの古井戸の鬼に貰った』と、大得意で話すのです。古井戸の底から大きな手が伸びてきて、賽を渡した。鬼の腕には黄金色の、刃の如き毛が生えていたと……」

 着古した着物一枚纏った世捨て人は、茶の席で話すような落ち着きでもって昔話を続けていた。


「へえ……それで?」

「では何故、お前はそんな古井戸の鬼に会えたのかと更に尋ねました。すると『薬売りに教えてもらった』と言うのです。故郷の村へ来た薬売りから、不思議な『古井戸の鬼』の話を聞いた。死者を蘇らせる秘密の薬をも譲り受けた。これは運試しをせねばならぬと思い、ここまで来たのだと……。どこまでも人を食ったような男でした」


 隠者の風体の男が語る話しを、琥珀色の髪をした青年は無言で聞いている。心学講舎へやって来た奇妙な男は、不思議な井戸の在り処を『薬売り』に教わっていた。


「あの男は熱心に語っていました。『おれは今まで、うだつの上がらない人生だった。これからは、たらふく美味いものを食いたい。美女を並べて花見がしたい。誰もが仰ぎ見る大名屋敷に住み、底無しの黄金で太閤様になりたい』と。『飽きたと思ったこの世が、面白くなってきた。いくらでも鬼の賽を振ってやる』と、そう言ってのけるのです。何とも如何わしい男でしたが……あれほど吹っ切れていれば、いっそ痛快でしたな」


 苦笑気味に、『先生』は言う。

 鬼の賽を手に入れた男は、降り積もっていた鬱屈を火種にして、野心が燃え上がったのだろう。しかしそれまで草の隙間で息を殺して生きてきた男に思い描ける“夢”は、まるきり双六すごろく遊びといった、竜宮城や黄金の宮殿だけだった。


「私は感心しませんでした。顔へ出ていたのでしょう。あやつは『信じるも信じないも御勝手』と言い、話しはそれで終いでした。数日すると講舎にも来なくなりましたが……それも賽で決めたのでしょうかな」

 白髪の頭を少し傾げ、世に捨てられた隠者は掠れ声で囁く。


「あの男が、何をどこまで賽頼みにしていたかは知りません。だが私よりは余程の胆力で、命を惜しまず走り回り、世の中にも通じていたのは確かでしょう。次に会ったときには、飛ぶ鳥落とす勢いの御用商人となっていました。逸早く動乱を察し、最新式の鉄砲を買い集め、一儲けしていたのです。そこからは……瞬く間に差がついた。私が指をくわえて時世を眺めている間に、あちらは御大尽となりました。最後は爵位を頂戴して、華族様になったとか。大したものですよ」


 儒者の前から一度姿を消した卑しい男は、次に会ったときには素晴らしい成功を掴んでいた。最初から背負うものも、失うものも無かったのだろう。古い者達が手垢だらけの観念と価値観に手足をとられ動けなくなっているのを尻目に、男は世の高みへ駆け上がって行った。


「その男が言っていた『古井戸』が、どこにあるかは……聞いたか?」

 柾樹が口を開くと、座り込んでいる男は汚い灰色の白髪頭を横に振る。

「さあ? それは聞きそびれましたな。肝試しでもなさるか? おやめなさい、探すのは至難でしょう。古井戸は今でも、帝都に星の数ほどある」

 それとなく嗜めて言った。

 今も長屋から蔵つき屋敷まで、帝都の生活用水の多くは井戸の車で汲み上げている。


「ああ、それでも星といえば……あまりにも深い井戸は昼でも星を映す、『星の井戸』などと呼ばれますな。もしかすると、深い深い星の井戸のどれか一つの中に、『鬼』が隠れていたのやもしれません」

 顔を少し上へ向け、橋の袂で男は言う。


「あんた、今は鬼の話を信じているのか?」

 柾樹が尋ねると、黒ずんだ顔は恥じ入るように、また伏せられてしまった。


「考えが変わってきたのでしょう。若い頃には、偉大な功を成すか、さもなくば後悔の無い潔さを尊んでいたものですが……失敗をし過ぎたか、歳をとったか。多く別れを知ったせいか」

 やがて男が紡いだ言葉には、どこか道化にも通じそうな滑稽と、物寂しい響きが織り込まれている。


「しかし、いつしか……どんな形でも生き抜いた方が良いと、そう考えるようになったのです。すると不思議なもので、あの世といったものも、本当はあるのではないかと思うようになりました」

 薄汚い現実の吹き溜まり。そこに隠れることを余儀なくされ、骨まで染み込んだ寂しさと共に生きる男は、温かな口調で語った。


「とは申せ、貴方は鬼に賽をもらおうなどと、お考えにならない方が良い。あの男も、ただで賽をもらったのではないと話しておりました。鬼は『必ず当たる賽』と引き換えに、『お前の鬼子をもらうぞ』と言ったそうですからな」

 ぼろを纏った男は、しゃがれた声をまた低くして言う。


「鬼子?」

 その呼び名が指し示すところを、深く知らない柾樹は繰り返した。『鬼子』の意味は、様々ある。産まれたときに歯や髪が生えている子を指す愛称の意から、産まれるとすぐ走り出し産婦を死なせてしまう魔ものまであった。尋ねられた側も、詳しくは知らなかった。


「さて、気性の荒い子か、親に似ていない子か……どういう意味かわかりません。賽と引き換えの、人柱というものでしょうか。鬼も鬼だが、あの男も必ず子どもをくれてやると鬼に約束して賽を手に入れたそうです。黴臭い御伽話のようですけれど、あの男がにやにや語ると凄みというか、背筋がゾッとして何だか気味が悪かった」

 そう言う男の口調は静かで、落ち着いた雰囲気も変わらない。


「聞くところでは、あの男が世を去った今も、家は息子が立派に継いで栄えているそうです。親心を覚え、鬼に賽を返して許してもらったか。鬼退治でもしたか? いずれにせよ、『鬼子』は鬼に攫われなかったのでしょう。それとも、初めから終わりまで、私がからかわれていただけやもしれませんな」

 干乾びた男の頬骨の上に浮かんだ笑みは、純粋に懐かしそうだった。聞き手に話しを信じさせよう、脅かしてやろうといった邪さはなく、昔こんな出来事があったという、それだけといった様子だった。


「おや、そろそろ引き揚げるようだ。退屈な話しを致しました」

 今は舟人足の手伝いなどして、飯を食っているらしい『先生』。川辺に漂う舟と荷を運ぶ人々を見て、曲がった腰を伸ばし立ち上がる。


「いや……面白かった」

 そう答えた柾樹を、見るともなく確かめた男は頭を下げた。

「奇妙なご縁でしたな、お若い方。お達者で」

 物腰は終始穏やかに、最後にもう一度だけ微笑を浮かべる。


 柾樹と一回も目を合わせないまま、後はもう死ぬのが役目といった男は去って行った。

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