蜃気楼
書斎机の前で、後妻の残した血の繋がらない双子娘達が、よく似た顔で話し合っている。重郎は椅子に腰かけ、娘達から留守中起きた事態を聞いていた。
「それにしても、おっ母さんのこの『手紙』は、つくづく何のために書いたのかわからないわね」
琴が持ち込んだ『手紙』。それを手に取り、よしのが眉をひそめて言った。
「まず、どうして帝都へ戻ってきたのかしら? ここ数年は、東海道の尼寺に入っていたんでしょう?」
やすのも、手元の報告書類を眺めて首を傾げている。その疑問に、よしのが答えた。
「尼寺暮らしと言ったって、出家でも何でもないわ。勝手に居ついちゃっただけなのよ。探偵の調べだと、遍歴の尼様がしばらくお寺で逗留していた後、その人にくっついて帝都へ来たらしいわ」
勝気な妹は、調べ上げていた母の近況について語った。
よしのは相内家の若奥様として、新九郎の勤め向きの内容まで把握している。怪しい使い物などが来れば、夫や重郎の目に触れる前に追い返していた。お陰で、金色の菓子を持ち込みたい側には「蓮っ葉な奥様」と煙たがられてもいるが、新九郎はのびのびと働いている。
そんなよしのは弟が持って来た『手紙』を一目見て、異常を察知したのである。
自分達の過去と、周辺関係。仕事の合間に聞こえてくる情報や訃報。僅かな異変。それらを総合し、次の行動へ移った。失踪した母の情報を集め、これまであえて疎遠でいた昔馴染みの男爵夫人にも会っていたのだ。
「尼様に? 何か思うところがあったのかしら?」
「さあ? そこまではわからないけど」
双子達は顔を見合わせていた。
世話になった寺を出て、遍歴の尼について歩いていた琴。しかし剃髪したわけでもないようだった。
「それで帝都へ来たおっ母さんは、まず昔の書生の……関山さんを探し出したのね?」
帝都へ到着して間もなく、琴は関山のもとへと現れていた。
「そう。関山はあの事件で、一度は田舎へ引っ込んだわ。でも、実家の都合でまた帝都へ出てきていたから。何年も経って、外務省の官吏にまでなったのにね。とんでもないのが訪ねてきて、あちらは吃驚。何たって、琴様の倅の太郎様を使って命乞いして、自分は逃げたんですからね。大急ぎでお詫びの心付け、『香華』のお金を渡して、お引取り願ったのよ」
「おっ母さんは、喜んだでしょうね」
改めてよしのの説明を聞き、やすのが瞼を閉じた。
琴は関山を脅迫に行ったのではない。頼れそうな先を頼っただけだった。琴は他人を困らせてやろうなどと、どす黒い考えは持っていない。思いつくまま行動しているだけであり、迷いの無さは動物的でさえあった。
「ええ、大喜びで『ありがたい』と言って、帰ったそうよ」
「だけど、お世話になろうと思っていた関山さんは、すぐに英吉利へ逃げてしまったのね」
やすのの言うとおりで、辞令が出ていた関山は船に飛び乗り、西の彼方へ逃げ去ってしまう。それを聞くと、よしのが少し言い辛そうに口を開いた。
「ついて行く気だったかもしれないわよ、英吉利まで」
「何ですって?」
「おっ母さん、五本松様に会ったとき、『青年外交官に見初められた』と話していたそうだから。もう恥ずかしくて……」
娘達の話しを聞き、黙っている重郎も想像がついた。
琴は常に上機嫌でいなければ、身を保っていられない。幸福な空想に書き換えてしまう。『自分が青年外交官に見初められる』という、願望的な空想が発生した。それを昔の知り合いである五本松男爵夫人に、現実として喋ったのだろう。柾樹に『太郎が女と英吉利へ逃げた』と語ったのも、これの派生で亜種のようなものだった。
「嘘の見栄っ張りが原因で、花街にもいられなくなったのに……どうして懲りないのかしら?」
「何たって今が嫌で嫌で、仕方ないのよね。不運だ、情けない、口惜しいと、そんなのばかり」
母の有様に、双子娘は頭を垂れている。
重郎も再婚して間もない時期から、わかってはいた。
妻が奥様方の社交についていけるのかと、詩歌や画などわかるのか、習うかと重郎は尋ねたのである。すると「わかっております。先生に習いました」と答える。ではと夜会や来客の席へ出せば、驚くほど何も出来ない。
出来ないなら出来ないで、重郎は構わなかった。
しかし琴は、「おっ母さんは蔑まれて、習わせてもらえない」と、倅へ己が辛さをこぼしていた。孝行息子は、母の意と感情をよく汲んだ。学校だけでなく、社交の場にも連れて行って頂きたいですと、父に申し出てきた。
母子の間でこんな話になっていたと重郎が知ったのは、太郎が死んだ後である。
「それで、関山さんは逃げてしまったのね。困ったおっ母さんは別の頼る先を探して、新橋の駅で『御手洗』さんを……田代さんを見つけて」
再び面を上げ、やすのが言った。
太郎と共にサイコロ盗みを働いた一人、番頭の田代。長い年季を棒に振った元番頭は『御手洗』と名前を変え、顔かたちまで変え、別人となって生活を再建していた。一時は金貸しをしていたという。十年が過ぎ、正体を隠しきれる自信が付いたか、大胆にも相内家の婿である新九郎にまで近付いていた。
「偶然そこで、五本松の奥様にも会ったのよ」
よしのが、探偵の調書きを手に取って頷く。新橋での彼らの再会が、一ヶ月ほど前だった。
「おっ母さん、尼様と一緒にいたんじゃなかったの?」
「それだけがハッキリしないのよ。五本松夫人に会って、気が変わったんじゃないかしら? その頃から、一人で動いていたみたいね。田町、麻布、京橋と来て」
やすのの疑問に、よしのも形の良い眉を寄せて話している。
旅の尼僧と帝都まで来た琴は、またしても本能のような自然さで目的と行動を変えていた。
「新橋の停車場で鬼に捕まった田代は、心臓が止まりかけたでしょうね。このお屋敷を出て以来、『御手洗』になって暮らしていたのに。こちらも大慌てで紙入の底をはたいて、『奥様』を追い払ったのよ。もう二度と来ないと約束させて。でも……」
「すぐに破って、また現れたのね?」
銀行から引き出したばかりだった、仕事用の百二十円と交換で、二度と来ないと言った『奥様』。その約束は瞬く間に破られ、御手洗の家の前に鬼はやって来た。
「これで今度こそ、あちらの息の根を止めてしまったのよ。そりゃ止まるでしょうよ。十年来の苦労を台無しにしてくれる人が、にこにこ家を訪ねて来たらね。まぁ、あの田代は天罰のような気もするわ」
紙束を姉へ手渡し、よしのは冷たく切り捨てる。御手洗氏は、病による急死と新聞に出ていた。死因には、鬼に捕まった恐怖も絡んでいただろう。
「頼りの田代も死んでしまって、おっ母さんはこの家へ来たのね」
「でもお屋敷には入れないし、郵便だと手紙は握り潰されるでしょう? それで直接、柾樹に渡したのよ」
母の行動履歴に目を通すやすのの隣で、よしのがくたびれた顔をしていた。金は底をつき、居場所のない琴はふらふらと駿河台の屋敷へやって来たのである。
「それにしても、やっぱり変な手紙よね?」
『手紙』を再び手に取り、よしのは訝っていた。重郎も読んだが、何を伝えたいのか曖昧な文面。横から覗いて、やすのが言った。
「反応を伺っていたんだと思うわ。柾樹さんは昔を知らないもの。うまくいけば、これからも会ってくれると考えたんじゃないかしら? ご生母の威光が、まだ通じると思って。まさか鼻にも引っ掛けられず、手紙がさっさとよしのちゃんの手へ渡ってしまうなんて、想像していなくて」
長姉は母が、『跡取り息子』だけと交渉を持とうとした理由について語る。
「都合のいいときだけ、母親なのを思い出すのよ。昔からそういう人だったわ」
よしのが『手紙』に向けた眼差しは、冷やかだった。
「小さい頃、おっ母さんに早く大きくなって芸者になれと言われたわね」
「売れっ子になれって、あれね。左団扇で暮らすんだって」
早く芸者になり孝行せよと聞かされ育った双子娘は、鏡に映したような顔を見て語り合っていた。
「私達の身代わりみたいに、『芸者』にされたのが、太郎兄さんだったのね」
「よしのちゃん……」
「わかってるわ。今頃になって何を言っても遅いのよ。もう助けてあげられない」
涙ぐんだよしのは俯き、やすのが黙る。
最初から黙っていた重郎も、肘掛け椅子の上で更に深沈と黙しつつ、思い出していた。
相手の好みに合わせ、何枚もの顔を使い分けられた太郎。賢さと器用さは、重郎も時に瞠目した。あれは持って生まれた才能であり、幼い頃から生活の中で要求され、身に付けた能力だったのだろう。
だがそれを理解した上で、重郎の胸底には拭いがたい疑惑が潜んでいた。
太郎は金を脅し取る名目で、手下二人と『賽盗み』を目論んだ。けれど金を得る手段として、遠回り過ぎる。金銭は方便で、狙いはやはり『必中の賽』だったのではなかろうかと疑っていた。
幸兵衛は『必中の賽』を、滅多に人目に触れさせなかった。
女房が賽の使い方を間違え、強盗に鉞で真っ二つにされてからは、より慎重になった。重郎でさえ、見たのはたった三度である。その内の一回は太郎も同席した。噂に聞いていた不思議な『賽』。それが大旦那様の手元で転がる様を、少年は食い入るように見つめていた。
そして、大旦那様の部屋を退いた後である。
――――僕なら、もっとうまくやるのになぁ。
太郎の口から、そんな言葉が出た。
二度と言うなと重郎は叱り、太郎も言わなかったが、胸底はどうであったか。
従順で聞き分けの良かった少年も、成長する。知恵と力と自信もつけた、十八の若者。『必中の賽』を手に入れ、世を睥睨する座を奪おうとした。幸兵衛の圧制から逃れようとした。あるいは逃れたかったのは、母親である琴の手だったか。あまりに危険な『賽盗み』の動機には、これくらいの火力がなければ、説明がつかない気がした。
だが太郎も琴もいない。重郎はこれらを、誰にも明かす気は無かった。
「言えた義理じゃないけど……どうして教えてくれなかったの姉さん? お父っつぁまもですよ。私、太郎兄さんを追い詰めていたのは、お父っつぁまだとばかり」
少し拗ねた目で、よしのが血の繋がらない父を見る。
「……産みの母親を恨むよりは、いくらか良かろうと思ってな」
現当主たる重郎は、聞き取りにくい低い声で返した。組織の二番手が『悪』になっておくのは、集団をまとめる上で手っ取り早いのである。
「ちっとも良かありませんわよ」
合理一辺倒な父へ、よしのが文句を垂れた。
「あの日、おっ母さんを、お屋敷から逃がしたのも……お父っつぁまですか?」
やすのが遠慮がちに尋ねる。重郎は一旦黙り込んだ。
「私は、何も出来なかったのだ。我ながら情けないが大旦那様には逆らえず、知らぬ間に太郎も追い詰めていたのだろう。こうなったのは、父であり夫であり、家長の私の咎でもある」
台本でも読むように重郎が言うと、娘たちは互いの目を見合わせた。
「おっ母さんが、そう言ったのですか? 『助けてくださらなかった』、『だから後生です、お見逃しを』と?」
「お爺様は、離縁なんて生易しいものでは許さなかったでしょうからね……」
姉妹の話しにも当主は厳しい髭の下の口を開かず、瞑目で答える。
『人喰いの井戸』から連れ戻され、大旦那様に大雷を落とされて尚。琴は嘘に嘘を塗り重ね、たまたま来た大山まで使って窮地を逃れようと足掻いた。これ以上、人が殺されるのを見たくもなかった重郎は、妻を外へ逃がしたのである。
「琴は、罰を受けただろう。それでいい」
双子の娘達には、そう告げた。何より大旦那様の『人柱になれ』という指図が、惨かったのである。今回の件で琴は正体を暴かれ、死ぬほどの思いもした。
「はい……私も、これで良かったんだと思いますわ」
「もしもおっ母さんが家に残っていたら、柾樹が兄さんの二の舞になっていた気がするもの」
娘たちがそう言ったとき、ノックの音がして新九郎と大山が顔を出す。
「よしの。紅葉が目を覚ましたよ。おっ母さまはどこと、呼んでいる」
「ああ、良かった……! すぐ行きますわ!」
新九郎の報せで、母の顔になったよしのが声を上げた。西山家の夫婦が書斎を出て行くと
「あのう……旦那様。柾樹坊ちゃんが、お部屋にいらっしゃらないようなのですが」
続いて紺色半被の家令が、気まずそうな顔で申し出る。大山が運んできたのは、自室で寝ていた柾樹が逃亡した報せだった。
「申し訳ございません、少し目を離した隙に」
「良いのよ、大山さん。他の皆もね。張り付いているわけにいかないでしょう。ごめんなさいね」
やすのが慰め、詫びる大山を下がらせる。ドアが閉まると、重郎が口を開いた。
「柾樹は、御神刀を探していたな」
「え?」
「見張りの……密偵の報せでは、“あの山郷”の生き残りが、帝都へ来ているらしい」
それを聞くと、やすのが青くなり机へ一歩近付く。
「それじゃ、危ないですわ。すぐ人をやって、柾樹さんを連れ戻した方が」
「柾樹の下宿している古道具屋に、『女中』がいる」
何かというと弟を心配してばかりの姉娘に、当主は冷厳な声で先を続けた。
「調べさせたが、近所の者さえ姿を見ていない。古道具屋へ行った大山も与八郎も、紅葉も見ていない。どこの何者かわからん。帝都へ来た山郷の生き残りは……この『女中』だろう。どうやって柾樹の近くへ潜り込んだのか、見当もつかないが」
重郎の話しを聞き、やすのは目を瞠り息を詰めている。
「柾樹は、奪ったものを返してやろうと思ったのだろう。あの天邪鬼に、そう思わせる娘なのだろう。命を狙ったりはしないはずだ。その気があるなら、とうにしていただろう。幼子ではない。放っておきなさい」
無表情で重郎は言った。
「自由にして構わないと、そう仰ればよろしいのに……ご心配のお気持ち、お伝えになればようございますわ」
姉娘は苦笑して、声も控えめに意見する。
「倅との話し方を、知らなくてな」
重郎も微かな声で返した。
重郎は父子の会話というものを、幸兵衛に教わっていない。指図と命令でしか話せない重郎の態度は、使用人たちが「重郎様は太郎様にお厳しい」と囁く原因になった。そして柾樹に同じ轍を踏ませまいと自らに命令を封じれば、今度は沈黙と無関心になってしまう。
「お父っつぁまこそ、父親の責任を押し付けられたようなものでしょう? それなのに、何故おっ母さんに何も仰らなかったんですの?」
やすのが、また尋ねた。愚かな妻に懇願され、監獄となる屋敷から逃がした無力な夫。
「理由はどうあれ、夫や父親になったのは自分の判断だ」
答える重郎の無表情は変わらない。
「お父っつぁま、私たち恵まれていたと思ってますわ。よしのちゃんの誤解も、きっとこれで解けましたわ。離れ屋に閉じ込めていたんじゃありませんわね。かくまって下さっていたのですわね」
やすのが穏やかな口調で言う。母と兄と、古井戸の『秘密』を守るため、嫁にも出されず奥座敷に閉じ込められてきた姉娘を、当主は見上げた。
「聞いておりますわ。あの離れ屋は……千早様のために建てられたのでしょう?」
そこにあったのは、顔立ちは琴と瓜二つの。けれど母親にはなかった、悲しい微笑だった。
「今はお前達の家だ。部屋へ戻りなさい」
崩れない無感情で促されたやすのは、淑やかに「はい」と答えて書斎を出て行った。一人になった当主は立ち上がり、開いた窓の外を見る。
重郎は、父親である幸兵衛に絶対服従して生きてきた。ここまで立派な奴隷は、そういないだろう。その人生でただ一つ逆らったのが、前妻である千早との離縁だった。
動乱時代の、軍資金と引き換えの結婚だった。全く釣り合わない家へ嫁いできた、十六歳の娘。侍女はお嬢様がお可哀想と泣いて憚らず、婚礼の席は葬式同然だった。口が重い夫。お姫様育ちの、世にも稀なという美しい娘の扱い方など知らない。重郎も、夫婦としてうまくいかないだろうと思っていた。
常識も仕来りも、何もかも違う環境に放り込まれた千早。大旦那様には怒鳴られる。今までなら絶対に無かった扱いであり、辛くなかったはずがなかった。
しかし千早は、旦那様と一緒ならどこへでも、命を捨ててでもお供いたしますという。
薄気味悪い、とさえ思っていた。こんな男に躊躇いもなく近付き、微笑む理由が無い。自己犠牲や夫婦という役割だけで、説明出来ない。
それでも、千早の心を察する手掛かりとなりそうな思い出は僅かにあった。
馬車で帰宅したときである。
慣れないながらも重郎が、不器用に手を差し伸べた。西洋の作法に、従ったまでだった。その手に掴まり降りた千早が、ほんの少し、ぴょんと小娘のように飛び跳ねたのである。繋いだ手が嬉しくて仕方ないという眼差しで、実家や許婚と引き離されてきた妻は笑っていた。
重郎が千早を大事に出来たかといえば、甚だ危うい。でも二人の日々を手放したくなかったのは、本当だった。そんな失いたくなかった日々は十年後、儚く終わる。
ある日、千早は突然高熱を発し、頭痛と腹痛を訴えた。夏風邪を疑っているうちに、嘔吐を繰り返す。熱はさらに上がり、二、三日すると意識が混濁して喋れなくなり、目の焦点も合わなくなる。医者が手を施すも、六日後に他界した。
――――だから早う離縁せいと言うたのじゃ。
『必中の賽』に逆らい妻を離さなかった息子へ、父が言った。用のないこの屋敷を早々去っておれば死なずにすんだろうにと、残酷な託宣が聞こえた。
――――お前が殺したようなもんじゃ。
これで重郎は、頭のどこかが壊れたらしい。鍵が壊れた金庫のように、元より不得手だった心の開き方は完全にわからなくなってしまった。
窓から秋の庭を見下ろすと、木立ちの陰で彼岸花が一輪咲いている。少しでも千早が安らげる環境をと、重郎が建てさせた離れ屋。
そこには今、別の家族が住んでいる。




