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男爵夫人の受難について〈後〉

『嘘も方便』、『嘘も誠も話しの手管』とは言うけど、実のところはどうなんだろうね。


 それでね、お前さん。

 どうしてあたしが奥様から、こんな話しを伺ったかっていうとさ。この前、奥様が久しぶりに小富瀬の娘とお会いになったそうなんだよ。双子娘で、生まれた時から奥様はご存知の娘だ。親子揃って、おまんまから借家代まで世話になっていたんだから、奥様は育ての親みたいなものさ。


 この娘ってのが、芸者や女郎じゃないんだよ。

 それどころかお前さん……聞いて驚いちゃいけないよ? 何とマァ、今じゃ爵位を頂いた大家の若奥様なんだってさ。どうも子爵様らしいよ。芸妓の腹から出た娘が、洋装の貴婦人になるなんてねぇ。


『何でそんなに出世したのか』って?

 これも因果な話なんだ。


 小富瀬はね、さる御大尽の家へ後添いに入ったんだよ。

 その時、抱えていた子どもが三人。息子が一人に、娘が二人。それを母親に連ッ子で、養子養女へ入れて頂いたそうでさ。子どもは他へ猫に出されそうなもんなのに、気前のいい話しだよ。一番上の倅は十年以上前に、事故か何かでとられちまったそうだけど、娘たちは今もお屋敷暮らしってわけ。


 でも奥様はこの娘たちとも、二十年近く付き合いは無かったの。小富瀬ともね。奥様は縁を切ったんだよ。事情があったんだ。


 まだ奥様が、芸者勤めをしていたときだよ。

 後でご結婚される五本松様とは、お座敷で巡り会ったと言っただろう? お若い五本松様は、その頃から一目でそれとわかる聡いお方で、品は良いし金払いも良い。御酒を上がっての乱暴や、怒り出すような真似もなさらない方だった。奥様も気持ちの良い殿方だと思っていらしたそうでね。


 五本松様は、「そんなに賄い口が増えたなら大変だろう」と、芸者の奥様を何度も呼んで下さった。色気抜きでだよ。奥様てっきり羽振りが良いからお贔屓にしてくださるのかと、芸者時代は思っていらした。実は殿様は良いところを見せたくて見栄を張っていたんだと、後で白状されたそうでね。それはいいんだ。


 そんな頃、五本松様のお耳に奥様の……まぁ気に入りの芸者の、悪い話しが入り込んだんだよ。


「船宿の小村屋さんが金を盗まれまして、盗みはあの子の仕業じゃないかと、誰某が言っていたんでございます」とか。「あの子は旦那衆からひどく評判が悪いと、あそこの置屋の、何某芸者が話しておりましてよ」なんて具合にね。この『あの子』ってのが、奥様だったのさ。


 あのね、お前さん鵜呑みにするんじゃないよ? 嘘だよこんな話。根も葉もない作り話だよ! それにしても、これを誰が吹聴したと思う?

 小富瀬だよ。


 でも五本松様は、お酌の小富瀬が吹き込もうとした嘘を見破っちまった。船宿に入った盗人の話しも、旦那衆の評判も、とうにご存知だったのもあってね。


「酒が不味くなる。俺はそんなのは好かん!」

 と、他のお客様や女中もいる前で、切っておしまいになった。座を蹴ってお帰りになっちまう。

 滅多にない五本松様の怒りように、周りは大慌てでさ。報せが走って、待合の女将に問い質された小富瀬は、ぐずった果てに「あの子が五本松の旦那様の、気を引こうとするんですもの」と自白したのさ。


 これだけだったら、ただの芸者の意地と張り。女の悋気の引張り凧で片付いたろうよ。女将もそのつもりでいたらしいんだ。

 だけどこれを聞いた他の芸妓衆や幇間が

「騙されちゃいけませんよ!」

「これ以上は堪忍しちゃいられない!」

と口を開いて、小富瀬の吐いてきた嘘が出るわ出るわ……。それもね、あんな世話になっておきながら、小富瀬は裏じゃ奥様をダシにしたり踏み台にしたり、果ては目の仇にしていたんだよ。


 たとえば、奥様が二十人のお座敷をつとめたという話しが出れば

「あたしが先頃に切り回した一座も、四十人の大勢様でしたっけ」

と割り込んで、自慢話にすり替えたり。どこぞの文士が奥様の昔話を聞いてチョイと新聞の記事になったりすれば

「あたしも、この前に大新聞の編集長さんから、記事にしたいと写真と話しを頼まれたんですけど。お恥かしいですからとお断りしたんでございますのよ」

なんていった具合でさ。他にもお座敷の品物を壊したり盗んで、それを全部奥様がやったと擦り付けたりね。


 みんな小富瀬の嘘っぱちなんだよ。でもアノヒト、嘘を言っている覚えさえないようなんだ。それこそ嘘みたいだろう? 芸者衆や周りは、ヤレ厄介な女だと離れていた。だけど懐に入り込まれた奥様だけは、近過ぎて見えなかったんだねぇ。

 それにしても、ここで槍玉に上げられたときの、小富瀬の啖呵も凄いんだよ。


「皆さん、どうして揃ってそんなひどいことばっかり仰るんですか、あたしは親に可愛がられず、おしめも替えてもらえない哀れな子でしたのに。まるであたし一人が悪いように言いますが、あの人は善人のふりをしているだけですよ! あたしが大変なのは知っているくせに、衣装きもの代や米代も出すよう言ってくるんです! どうしてこんな惨い女の肩を持つんです!?」


 ってね。何言ってんだかわかりゃしない。何が楽しくて赤の他人が、アンタのおしめがどうだったか気にしてやらなきゃならないんだ。後は火がついた赤ん坊みたいに泣き叫んで、手が付けられない。騒ぎに呼ばれて奥様も待合へ顔を出した。すると小富瀬が

「よくもこんな目にあわせてくれた一生許さない!」

と喚いたってんだもの。そりゃ奥様の台詞だろ。


 その後、小富瀬は子どもら連れて、長屋を出て行ったそうだよ。

「世話なんて誰も頼んじゃいなかった!」と抜かしてさ。色々教えて、何もかもツケといてやって、赤ん坊の産着まで縫って。世話をし抜いた人に、この仕打ちだよ。あたしもこの辺りの話しは小耳に挟んでいたんだ。それで小富瀬を妙に覚えていたんだよ。奥様から詳しくお聞きするまで、ここまでとは思わなかったけどね。


 話しはあっという間に広まって、小富瀬は零落おちぶれた。誰もあの女に寄り付きゃしない。白い目で見られて、相手にされず進退窮まった。そこへ、さっき話した御大尽の後妻話が舞い込んだんだ。渡りに船とばかり小富瀬は飛び乗って、花街へ後足で砂かけるようにしてお屋敷暮らしへ成り上がったと、こういう次第さ。


 でもこんな目に遭った奥様の方は、気が参ってしまったそうでね。

 金は諦めるとしても、何だかもうガックリしてしまって、一人残った長屋で寝込んでいらした。すると五本松様からお使いが来てね。「地方へ転勤するんだが、一緒に来るか」とお声をかけて下すって、ここから馴れ初め話に繋がった。


 今じゃ殿様は令尹れいいんを歴任されて、裁判所にお勤めのご子息と利発なお嬢様もいらして、奥様は男爵夫人で大出世。こんなサゲでも付いてくれなきゃ、あたしの方が腹が立ち過ぎて目が廻っちまう。人間好きなお人好しを食い潰すような奴は大ッ嫌いなんだから!


 気味は良くないと言っても、これで奥様はめでたく小富瀬とキッパリ縁切りだ。

 殿様と地方へ行っていらしたし、僅かに風の便りが聞こえてくるくらいでね。その風の便りの一つで、小富瀬がお屋敷を出奔したと聞いたときは、ああまたか、と思われたそうだよ。そうなんだよ。小富瀬は後添いに入ったその家からも、出て行ったんだ。小富瀬がどこへ行ったかまでは、わからなかった。


 それが、一月くらい前だよ。

 五本松男爵夫人になられた奥様の前へ、ひょいと姿を現したんだ。


 新橋の停車場で、出たんだって。

 奥様が婦人待合室を出た先で、「マァお珍しいこと!」って声が聞こえて、振り向いたら居たってんだよ。ニコニコ笑って声をかけてきた小富瀬を見て、奥様は胴震いされたってさ。


「お屋敷へご挨拶へ伺おうと思っていたんですが」と抜かしたそうだからね。あたしだったら手近なもの投げ付けて追い払ってたよ。奥様はどうやって逃れようかと、それで頭がいっぱいで殆ど聞いちゃいなかったそうだけど、小富瀬が語り出したところによるとだね。


 後妻に入った……今や子爵様の、当時の御当主が残酷な方で、いくら奥方様と崇められようと辛い仕打ちに耐えきれず出て行ったんだってさ。子どもが憐れと思いつつ、年増女の身じゃ飯も食わせてやれないし、涙を呑んで置いて行ったと。


 ここ何年かは、どこぞの尼寺で厄介になっていた。それが、とある青年外交官に見初められて、あんまり向こうが熱心に口説いてくるから、心が震えて年甲斐もなく帝都まで出てきた。もうすぐ一緒に英吉利へ渡るってのさ。それがこうして『ご挨拶』することになりましてと言ったそうだけど、とんだご挨拶だね。


 そこへ女中が人力車くるまのお支度が整いましたと呼びに来て、お終いになったんだよ。奥様が「遊びにいらっしゃいとは言えなかった」と情けなさそうに仰るから、お愛想だって言っちゃいけませんよ! と、あたしが叫んじまったよ。


 だけど、これがまた昨日になって、小富瀬の娘と婦人慈善会でお会いになったそうなんだ。

 双子娘の、妹の方でね。向こうから声をかけてきた。あちらも、奥様が男爵夫人になられたのは、知ってはいたんだよ。でも遠慮して、今までは出来るだけ離れていたそうなんだ。最後に会った時には、八つかそこらだった女の子が、今じゃ嫁いで母となられていて、奥様嬉しかったそうでね。


 その妹娘がさ、「近頃、母が現れませんでしたか?」と、尋ねてきたんだって。


 奥様が驚いて、どうなさいましたとお聞きしたら、子爵様のお屋敷の方にも出たんだって。手紙を置いて行ったってのさ。その手紙を読んでも、何を考えているのか一向わからない。それでも嫌な予感があって、もしや手掛かりがあるかと、恥を忍んでお声をかけさせていただきましたとね。恥を恥とわかる人なんだねぇ……。


 妹娘は今回の手紙を切欠に、母親の昔を調べて、仕出かしてきたそれこれは知っていた。ただ、あんまり酷くてどうにもまだ信じきれなくて、母の話は本当でしょうかと尋ねられたそうでね。子どもに罪は無いんだし、可哀想だけど、ここまできたら隠し立てしたってしょうがないよ。


 奥様は妹娘に尋ねられた小富瀬の昔話を、一つ一つ確かめながら知っている限りお話ししなすった。新橋の停車場の一件も話したら、あちらは顔を真っ赤にしていたそうだよ。「くれぐれもご用心あそばして」と言って、帰って行ったそうでね。娘にご用心と言われるなんざ、どんな親だい。


 それにしてもさ、お前さん。

 一月前に、英吉利へ行くと言っていた人がだよ? まだ帝都でウロチョロしているなんて、ちっと変だろ?


 奥様は新橋で小富瀬に出くわした後、殿様にお伝え申し上げていたんだ。殿様もあの女は何をするかわからないぞと仰って、人を雇って調べさせていたんだよ。奥様は、そこまで探偵して他人の素性を暴いたりしたくないと、これまで詳細は聞かずにいた。


 だけど妹娘の話しだと、まだ小富瀬は帝都にいるらしいし。お嫁入りも近いお嬢様に、まさかが起きたら取り返しがつかない。覚悟を決めて、あの女について調べた書類をご覧になったのさ。それを読んだらまた気が失せそうになって、そこへあたしがお髪を上げに伺ったんで、気心も知れているし言わずにいられず、語ってしまわれたとね。

 ああ、気も失せるような話だったよ。


 まずね、小富瀬の生地と姓名がわかったんだ。詳しい地名は仰らなかったけど、山陽道の先の方みたいだね。それで芸妓時代、小富瀬は周りの人に本名を『琴』と名乗っていたんだ。これが違ったんだよ。


 故郷では『お万』て名前だったんだ。ソレ、そうそう、そこから出鱈目なの。そしてこのお万は、両替商の娘だったんだよ。そうだよ、回船問屋じゃないの!


 でもね、探偵の調べだと娘時代のお万は隣近所に、「回船問屋へ嫁入りが決まった」と話していたんだよ。


青海屋おうみや』さんっていう、地元で一番立派な回船問屋があったんだ。その頃に若旦那がいてさ、男ぶりが良くて、若い連中のまとめ役。近所じゃ娘達の噂の的。そんな若旦那のお嫁になるっていうんだもん。探偵に昔話をした人達の証言だと、周りは大したもんだと感心していた。


 贅沢育ちのお万は子供時分から、見栄っ張りの嘘つき娘と言われていた。でも隣町へ花嫁衣装を見立てに行ったと話したり、揃えたという道具を友達へ見せたりする。結納はいつ頃だと話す。みんなもコレは本当だ、お祝いをしなけりゃと考えていたんだよ。めでたいことだし駆けつけなくっちゃと相談していた。


 それが生憎、こいつも嘘だったんだよ。そんな縁談無かったのさ。

 青海屋の若旦那は、他にチャンと仲人を通じてお嫁の迎え先が決まっていた。人の噂で、ふざけた話しを聞かされて、あちら様は大立腹。お万の実家は、怒鳴り込んできた青海屋さんに土下座でお詫び。周りにも呆れられるやら哀れまれるやら。時期の悪さも重なって、とうとう土地にいられない。今じゃお万の親兄弟は、何処で暮らしているとも知れない。道理で実家へ帰れないわけだよ。


 当のお万はどうしたのかって?

 嘘が知れて、すぐさま家の奉公人と逃げ出したんだよ。何度も名前を変えながら帝都まで流れ着いて、芸妓屋へ入り込んだのさ。


 まったく、何がしたいんだろうねあの女は? 好き放題して生きてきたみたいだけど、何が楽しいんだろうね?


 その場しのぎで耳障りの良いこと言って、都合よく名前を使い捨てて、どれも嘘っぱちだ。誠なんざ一つも無い。化けの皮がはがれたら、癇癪起こして雲隠れだろ。若い外交官とやらの話しも怪しいね。夫が冷たくなって逃げたとか、情人いろに捨てられたって話しまでキナ臭いと思って。へたすりゃ死んでんじゃないのかい? だってさ、小富瀬に関わった男も女も殆どがどこかへ消えていて、探偵も後が追えなかったというんだもの。

 五本松様が家内円満。一介のお役人から出世されて、奥様も男爵夫人になられたのとは大違いだよ。


 もしかして……それで火が点いて、また子爵様のお屋敷へ近付いたのかね?

 あたしの考えだけどさ、帝都でウロウロしているうちに、五本松様のお暮らしを聞き知ったんじゃないのかい? そこで今更ながら自分も、子爵夫人に返り咲こうとしたんじゃないかと勘繰っちまったりして。


 だってやる事なす事、これだもん。

 五本松の奥様に『勝った』と思えれば良しだけど、『負けた』と思えばじっとしていられないんだよ。自分だけじゃ、幸せや生き甲斐を感じられないんだろ。小さなことでも負けたと思ったら、いてもたってもいられず嫉妬にかられて走り出す……。


 そういや嫉妬の鬼の橋姫様も、何に怒っているのかよくわからないお方だったねぇ。元になったお話しは、平家物語の異本に出てくるんだって、お父っつぁんが言ってたっけ。

 ああ、お能だと男に捨てられたのを恨んでいるけど、実のところはハッキリしないらしいよ。やたらと妬んで僻んで怒っていて、鬼になっちまう。ただの通りすがりまで巻き込まれて、わけもわからず軒並み死んじまう。


 そういう鬼なんだよ。『剣巻』の橋姫様はね。

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