Love Letter
ランプの明かりに照らされたいつもの十二畳へ、頬に煤をつけた柾樹が顔を出す。古い道具で埋まる座敷の真ん中には七輪が置かれ、その上に鎮座している金属の鍋から湯気が上っていた。戻ってきた柾樹の顔を見て千尋が笑い、火の具合を見ていた長二郎も肩越しに少し振り向いて「お、ご苦労」と軽口を叩く。
「何で俺が風呂焚きなんかしなけりゃならねぇんだよッ」
柾樹は手ぬぐいで顔を拭きながら七輪の前に胡坐をかくと、文句を垂れた。
「留守居頭が焚くと言ったんだ。居候はつべこべ言わずに働きたまえ」
忙しそうに七輪を横から覗き込み、長二郎は涼しい顔で言う。
この古道具屋は昔料亭だった名残で、据え風呂などという贅沢なものがあった。でも水汲みの重労働に加え、薪など燃料費も嵩むため、殆ど使われずに放置されている。居候の書生たちも近所の銭湯へ通っており、今まで風呂を使おうと考えたこともなかった。
ではそれがどうして風呂を沸かすことになったかと言えば、千尋が突然、『銭湯に行けない雪輪が風呂にも入れないことに気付いてしまった』という、この一事に尽きる。その気付きはきっと、昼間に聞いた貴瀬川屋敷における桜の厚遇ぶりと無関係ではない。年頃の娘なのだから風呂くらい入りたかろうと、千尋は考えてしまったのだ。
雪輪が銭湯に行かないのは本人が行きたくないからであって、閉じ込められているわけではない。それにあの娘は不思議と、垢や脂の嫌なにおいもしない。気にしなくて良いだろうと柾樹は言った。だが最も役立たずな人間の言葉はそよ風より軽く聞き流され、おまけに風呂焚きを押し付けられた。
――――庭で行水でもすりゃあいいじゃねぇか。
こんな事を無神経全開で言ってしまったのも、罰として風呂焚きを命じられる一因となった。尚、柾樹は風呂などほぼ焚いたことが無いため、薪のくべ方その他に物凄く無駄が多かったのは、今のところ柾樹しか知らない秘密である。
当の雪輪は柾樹に一瞥くれただけで、後は何も聞こえなかったような顔をして身体を震わせていた。風呂を焚いてやると言ったときも、礼を述べたのみで別段喜ぶ風もなかった。しかし一度も断らなかったのを見ると、やはり風呂に入れるのを人並みに喜んでいたのかもしれない。
そんな雪輪は今、風呂に入っているはずである。それにしても一切音が聞こえてこなかった。もしやお湯に触って溶けているのではないかと危惧していなくもないが、誰も口には出さないでいる。
「居候って言ったら、田上もアイツも居候だろうが」
一見もっともらしい主張をする柾樹へ、野菜の乗った皿と箸を手に長二郎が呆れて言った。
「一番のゴクツブシが何言ってるんだ。柾樹なんてここに来てから何もしてないじゃないか」
「さっき玉子買って来ただろ」
「偉そうに言うなよ、子供のお使いじゃあるまいし。僕はそんなの三つの頃からやっていたぞ」
「俺とお前じゃ人生背景が違うんだよっ」
「ああ、ホラお前ら、もういいから食うぞ」
二人の喧嘩を宥め、千尋が湯気の立つ鍋へ箸を伸ばした。
この牛肉は桜の手土産である。桜は謎の文明開化菓子の他に、牛肉を持参していた。帰りがけに桜が笑って語ったところによると、これは千尋の母親のおかるが持たせた品だという。
暮白屋の名物内儀のおかるは、ボンヤリ者の一人息子が心配で心配で仕方ない。苦労をさせる目的で留守番へ出したというのに、何だかんだと古道具屋を訪れては、「しっかり学問に励んでいるか」「遊んではいないか」「何か困ってはいないか」と気を配り、倅の近況についてあれこれと詮索し、飯を山ほどこしらえ、かいがいしく縫物をし、入用のものがあったらお買いと、少なくない小遣いを置いて帰っていく。
息子が『有難いとは思っているが、恥ずかしいからやめてくれ』と遠慮がちに断っても、そのそばから「女親なんてこんなもんなんだよ!」とおかるが怒りだすという構図が、毎度のことだった。余談だが、おかるは自分が熱心に供給している食物や小遣いのほとんどが、息子ではなく同居人である長二郎の腹に納まったり、どこかへ横流しされている事実を知らない。
最近になってとうとう夫の銀右ヱ門に叱られ、おかるが押し掛けてくることはなくなった。入り婿で女房の尻に敷かれっぱなしの大人しい銀右ヱ門だが、これで(主に倅の中で)株を上げた。それでもおかるは米や味噌醤油をはじめ、油やお茶や胡麻や炭まで、下男や丁稚に届けさせる。そして今回も桜が千尋のところへ顔を出しに行くと聞きつけ、「たまには食べさせてやりたい」と牛肉を預けたのだった。長葱や豆腐がついてこなかっただけ、進歩だろう。
と、そこで。飯をよそおうとしゃもじを手に取った千尋が、廊下の方を見て凍りついた。異変を察した柾樹と長二郎も後ろを見る。雪輪が廊下で指をついていた。
「大変結構なお湯を頂戴致しました。有難う存じます」
白地に花柄の入った浴衣で身を包み、漆黒の洗い髪を襟足の辺りでくるりと結んで馬の尾型に束ねている。その姿は湯上りというより、井戸から出てきたといった風だった。
「ああ……」
「うん……」
「おかえり……」
書生三人とも、それ以上言葉が出ない。
この浴衣は古道具屋のものだった。雪輪は完全な着の身着のままで暮らしてきたため、替えも無い。やむなくその辺の長持や葛篭を片っ端から開け、とりあえず着替えに必要なものを一揃い見つけて渡してやったのだ。古手屋ではないため、選択肢は少ないが、それでも無いより良いだろう。雪輪は戸惑っているようだったけれど、いいから使えと持たせた。
木綿の浴衣は薄青の細かい菊花柄。蝶結びにしている紺色の帯は、千尋の兵児帯だった。使い古され染みだらけにしても、花柄が入っていれば少しは可愛らしくなるかと思ったのに、年季の入った古着の効果か、逆に何かの凄味が増した。もういっそ鶴亀が飛び狂うような赤振袖くらい着ないと、この陰気さはどうにもならないのかもしれない。
「雪輪ちゃん。たまにはこっちで一緒にお上がりよ」
鍋に長葱を追加して、長二郎が手招きした。しかし雪輪は動かない。
「早く来い」
面倒くさそうに柾樹が言うと、雪輪は一礼して座敷へ入って来る。それでも座敷の隅に座るだけだった。重ねて促され、やっと牛鍋の円陣に加わる。
柾樹は放り出してあった自分の羽織を取り、「着ろ」と言って雪輪に渡した。久々に近くで見る娘は湯上りにも関わらず血色の悪さも相変わらずで、指先まで小刻みに震えている。くたびれた白い襟から伸びる細い首筋が、これまたぎょっとするほど白かった。
「牛鍋は食べた事あるかい? ……そうか、じゃあこれに肉をくぐらせて食べてごらん。うまいよ」
長二郎が生卵の入った小鉢を渡す。雪輪は優しい説明を聞きつつ、手の中の小鉢と、長葱や焼き豆腐が牛肉と泳ぐ鍋の中を、物珍しそうに見つめていた。取り方もわからないのか、鍋奉行の長二郎がよそい分けてやって、ようよう食べはじめる。味も何も感じないのではないかというほど、箸で小さく小さくしてから口へ運んでいた。
「うまいかい?」
にこにこ笑って長二郎に訊かれ、雪輪は真っ黒な目を伏せがちに「はい」と答える。
「桜ちゃん、また肉持って来てくれないかなぁ」
幸せそうな顔で肉を噛み締めて長二郎が言うのを聞き、柾樹が千尋に尋ねた。
「そういえば桜の奴、もう貴瀬川の屋敷に戻ったのか?」
「ああ、里下りは今日までだと。元々暇を出すこと自体渋られていたのを、頼み込んで帰ってきたらしい」
千尋は返事をする傍ら、鍋の豆腐を取ろうと苦労している。
「頼み込んで? なんだ、そんなに奥勤めが嫌だったのか?」
「そこまで嫌がってるようには見えなかったけどなぁ?」
柾樹と長二郎が交互に言うと
「いや、奥勤めは構わんようなんだが……屋敷の周りに変な奴がいて、困っているそうでな」
「変な奴?」
それは、帰りに人力車を拾える所まで見送った千尋へ、桜が道々語った些細な出来事だった。
「桜もはじめは通りすがりか、近所の人かと思っていたそうなんだ。書生風の若い男なんだと。遠くて顔はよくわからんらしい。桜が貴瀬川の屋敷に上がって以来、その男がちょうど桜の部屋から見える道に毎日立っていて、部屋を見ているそうだ」
「うわぁ、またか」
長二郎が飯を口一杯にかきこみ、眉を寄せて言った。
幼い頃から器量良しと評判だった桜は、実家で父親の医者仕事を手伝っていた頃にもこういう事が度々あった。美人見たさで、大した病気でもないのに医者へかかりに来る者までいたほどなのだ。
「かわいそうになぁ。これが娘義太夫なら、書生に尻を追われても商売と諦めもつくだろうが……」
気の毒そうに言う長二郎に続き、
「そんな野郎、次に見かけたらぶん殴れって桜に言ってやれ。桜なら出来るだろ。看護婦養成所に色キチガイの男が忍び込んだときも、投げ飛ばして警察に突き出したとか言ってたよな?」
無茶苦茶なことを言いだす柾樹へ、千尋は困惑と苦笑が入り混じった顔になって言う。
「あのなぁ、アイツは本当は怖がりなんだぞ? 投げ飛ばしたのも、窮鼠が猫に噛みついたようなもんだ」
「…と、いうかだな。花も恥じらう年頃の娘さんに何をさせる気だ君は?」
横から長二郎も口をはさむ。雪輪だけは何も言わないけれど、それも無言の非難に感じられた銀縁眼鏡は不貞腐れた顔をし、今度こそ黙って小鉢に入っていたものを自分の口へ突っ込んだ。
「その男のことは、屋敷の連中には?」
続けて長二郎が尋ねると、厳つい青年は太い首を横に振った。
「話してある。でも誰に話しても『考え過ぎだ』と相手にされなくて、放っておかれてるそうだ。たしかに悪さするじゃなし。道に立って屋敷の方を眺めているだけだからな」
桜自身も、『きっとあの人は私ではなく、屋敷の他の誰かに用があるのだろう』と思い、出来るだけ男の存在を気にしないよう努力しているという。
「それでまぁ、大したことないといえばそうなんだが、気味が悪いんでこの一日二日、貴瀬川の屋敷を離れる事にしたんだ。気分も変わるし、しばらく姿が見えなくなれば、向こうも纏わりつくのをやめるかもしれないからな」
落ち着いて語ってはいるものの、千尋の声には幼馴染の身の上を心配している気配が滲み出ていた。
「その書生が何処のどいつかは、わからないのか?」
肉を食いつつ、柾樹が問う。問われた側は飯を飲み込み、少し首を傾げた。
「桜も詳しく見ているわけじゃないからなぁ。知らない顔としか……」
「桜ちゃんにラブレターだとか、そういうのは? 来てないのか?」
冷やかすように長二郎が囁いた。途端に千尋の頬が引きつる。
昨今の書生と女学生の間では、意外と積極的に恋文の往復が行われていたりする。これまで『恋』などというものは基本的に、商売女との間で行われる娯楽であった。だが若者達は海外から輸入された新たな『恋』や『愛』の概念に触れ、これらと格闘を始めている。
「ら……!? い、いや、そ、そんなことはないと……」
勢いよく否定しかけた千尋の言葉が、変なタイミングで止まる。「あれ?」と唸って頭が斜めになった状態で停止している友人に
「何だ? あるのか?」
煮詰まってきた鍋の中のものを小鉢へ取りつつ、退屈そうに柾樹が言った。すると
「いや、違う。そうじゃないが……手紙と言えば、屋敷で変な手紙を見つけたとか言っていたな? 桜が使っている部屋の机から、歌のしたためられた手紙が出てきたんだと」
千尋の発言に、他二名は飯が喉に痞えそうになった。
「何だそれは?」
「オレはよく知らないが、サイドテーブルって言うのか? 部屋に小さい机があるらしくてな。その机の奥に手紙が一通、潰れて入っていたそうだ」
その手紙は舶来品と思しき白い便せんに入れられ、開いた封蝋のカスがこびり付いていたという。
「桜ちゃん、よく見つけたなぁ?」
「リボンが引っかかって、それを出そうと引き出しを丸ごと引っ張り出したら見つけたんだよ」
「で、その手紙に歌が書いてあったのか? 内容は?」
柾樹が尋ねると、千尋は今度は渋い顔になった。
「なんだったかなー……白玉が何とかで、つゆをかけたナマス? が、どうとかっていう」
「何だその味の薄そうな歌は」
「桜は『伊勢物語の“芥川”だ』って言ってたぞ」
「伊勢物語? あー、平安の雅は興味が無いんだよなぁ……雪輪ちゃん、わかるかい?」
訊いても明らかに答えの出なさそうな友人達を最初からアテにせず、長二郎が話しを振ると、それまで一言も喋らなかった雪輪が、箸と小鉢を置いてから答えた。
「『白玉か、なにぞと人の問ひしとき。露と答へて、消えなましものを』」
「あッ、そうだ! それだそれだ!」
「全然違うじゃねぇか」
喜ぶ千尋に柾樹が突っ込む。そこには頓着せず、大らかな若者は話を戻した。
「それで、机の中にあった手紙にはこの歌と、差出人らしい『紺野』という名前が書いてあったそうだ。でも貴瀬川屋敷の誰に尋ねても、そんな人は知らないと言われて、さっぱり埒が明かないそうでな。桜もどうしたもんかと困って、手紙は一先ず元の場所に戻してそれっきりらしい」
千尋はそこで話を終わらせる。話しを聞き、柾樹が箸を持った手の甲で自分の膝を打った。
「なんだ、要するにこういう事だろ。桜が使っているその部屋には、元は別の女が暮らしてたんだ。令嬢の側付き侍女か何かだったんじゃねぇか? それで、その女が男と逢引してやがったんだ。しかし、新入りの看護婦の行儀作法にまでうるせぇ連中だからな。侍女の逢引も放っておかなかったんだろ。桜の部屋を見ている書生風の男が、その女の逢引相手で……」
「おお、なるほど! そいつが『紺野』なんだな? それで侍女は免の字になっていなくなったが、書生の方はそうと知らずに今も屋敷に通い続けていると……」
明るい表情になって千尋が言った時だった。
「お待ち下さいませ」
鍋の湯気の似合わない声が響いた。雪輪だった。
「白岡さま」
娘に呼ばれただけで、千尋の「ハイッ?」という返事はひっくり返ってしまう。
「差し出がましゅうございますが、伊勢物語の『芥川』は、ご存知でございますか?」
娘は畳に指先をつき、斜め前の青年をねめ上げるようにして言った。
「は、話しの筋ですか? 曖昧だけどなぁ……たしか男がお姫さんを盗み出そうとして……。でも途中の小屋に隠したお姫さんが鬼に食われてしまったか何かで、失敗する話だろう?」
千尋は箸を無駄に力いっぱい握り締めている。顔を上げると雪輪はゆっくり瞬きした。
「今の桜さまは、芥川の姫君とよく似たお立場でございます」
「え?」
「攫われるやもしれません」
「え」
一言一言置くような雪輪の言葉に、千尋は息をのむ。
「お話をお伺い致します限り、桜さまは影武者にされていらっしゃるものとお見受け致します。桜さまに古手を着せ、髪を変え、お稽古と称し別の方とそっくりになるようなお振る舞いをさせ、眺めの良い……つまりは外から見えやすいお部屋に住まわせているのでございましょう。よくある策でございます。しかしながら、手紙の主の紺野とやらは、すっかり騙されているものと存じます」
この娘が誰に催促されるでもなく、こんなに長く言葉を発している姿を初めて見た三人は、目を丸くして雪輪の話を聞いている。鍋の焦げるにおいが強くなってきた座敷の中で
「影武者って……誰のだ?」
柾樹が尋ねると雪輪は黒い目だけを動かし、相手を瞳に映して言った。
「お一人しかおりません。貴瀬川真名様でございます」