大鬼のんでんぼう
十三年前、やすのは屋敷の裏庭で恐ろしいものを見た。
昼を過ぎた頃だった。やすのは母屋にいる大旦那様の部屋へ呼ばれた。母を見張っていろという。北の『人喰いの井戸』へ行くから、それを見届けるようにと大旦那様は言った。
――――目を離すな。
幸兵衛はそれ以上を語らない。
自分の母親を監視するという、異常な役目を命じられたやすのには、反抗も質問する余地も与えられなかった。
母の琴は離れ屋の他に母屋にも一室を与えられており、場所は書生部屋の近くである。やすのはその隣の小部屋に潜んで、一時間近くも気味の悪い時間を耐え忍んだ。いつも何でも相談できる妹のよしのは、蔵に幽閉された兄さんを救う方法を探すのだと言って家を飛び出して、戻ってこない。
待つうちに白く輝く入道雲が消え、空が夕立の巨大な黒雲に覆われ始めた。
するとその雲の到来を待っていたように、母は何か細長い包みを抱えひそかに部屋を出て行く。やすのも部屋を抜け出し、後をついて行った。裏の古井戸へ行くはずだった。
しかし母がまず向かったのは、兄が入れられている西の古い蔵。曇天は暗紫色に染まり、使用人達の姿も消えて誰もいない。不思議に思いながら、やすのは様子を伺っていた。
潰れかけていた蔵は錠前も朽ちかけていたのか、母が針金か何かでがちゃがちゃやると開いてしまう。微かに話す声が聞こえた。
「いいかい? お前は――代わりに、これさえやっておくれ――そうしたら、あたしが大旦那様に口添えをね――ええ、簡単だから――」
母の話しは途切れ途切れにしか聞こえなかったが、しばらくしてやつれた姿の兄が出てくる。
(おっ母さん、兄さんを逃がすつもりなの!?)
やすのはそう思い、木陰に隠れて迷った。
異変があれば報せるよう、大旦那様に指図されている。もし母が太郎を逃がしたと知れれば、二人がまた厳しいお叱りを受けるのは明らかだった。罰も受けるだろう。このまま母と兄を見逃した方が良いのではないか。妹の自分の不注意として、隠し通した方が良いのではないかと思った。
だが、母は兄の太郎に細長い包みを託すと、二人揃ってやすのが思ってもいなかった方角へ歩き出したのである。
朽ちた蔵から、北の裏庭へ向かって進み始めた。
鬱蒼とした裏庭。
兄に渡した、妙な荷物。
先ほどの会話。
大旦那様に言われた、『人喰いの井戸』へ行く母を見張れ、の言葉。
違和感を覚えつつも、少女のやすのは二人の後を追った。やがて二人の後ろ姿が、蒼い木立ちの闇へと消えていく。風に乗って、遠雷が聞こえた。
そしてそこまで見届けたやすのは身を翻し、無我夢中で母屋へ走ったのである。理屈ではない悪い予感に、駆り立てられていた。
母は昔から、困ると太郎に頼る。お屋敷暮らしになり、やすの達がそれを直接目にする機会は減った。でも少し前まで、煙草を吸い愚痴を言う母と聞き役になる兄の姿は日常的に見かけた。母は太郎に身の回りの世話をさせ、金を借りる相手の相談までしていた。そして太郎が名案を出さなければ
――――情けないね。これくらい出来ないと、お前の親父みたいになっちまうよ?
と、大きな溜息をつく。兄は孝行息子なだけではなかった。優しい夫、頼りになる旦那、気の利く下男まで、あらゆる『役目』をこなす。息子の太郎は、母親の琴が思い通りにならない人生で手に入れた、思い通りになる男だった。兄もまた、母が自分を必要としているのを知っていた。互いに助け合い、甘やかし合い、よく出来た歯車のようにぴったり噛み合っていた母子。そこに軋みが生じ始めたのは、『跡取り』の弟が生まれてからだったろう。
しかし物心ついた頃から、母と息子のあの関係は当たり前で、やすのはおかしいとも思っていなかった。この日、不穏な空色と不気味な風に突き動かされたやすのは初めて、自らの意思で母が向かうのと反対の方向へ走ったのである。
縁側から大旦那様の部屋へ駆け込んだ。
「おっ母さんが、兄さんを蔵から出しました!」
大声で報せた。部屋には父の重郎がいて、大旦那様と何か言い争っていたようだったが、やすのの報せを聞いた二人の顔色が変わった。
他人の顔色を伺う癖が付いていた、十三歳の少女。やすのは大変なことが起きたのだと、何より先にそこだけ理解した。事情はわからないけれど、娘の自分がどうにかしなければいけないと思った。
「わ、わたし、おっ母さんたちを連れてまいります!」
言うなり、再び裏庭へと駆け出した。まだ今なら、心を尽くして謝れば許していただけるのではないかと夢中だった。
「やすの戻りなさい!!」
背後から追いかけてきた重郎の声にも、足は止められなかった。
滅多に来ない裏庭の森は、大体の方角しかわからない。
ごろごろと低く雷鳴が聞こえ、湿った冷たい風が雨の襲来を告げている。何度も転び着物も足も泥だらけにしながら息を切らせて草を掻き分け、獣道を走ったやすのは目指していた場所へ辿り着いた。
『人喰いの井戸』の傍に、兄と母がいる。
気道も詰まりそうな土の匂いと、黄昏迫る闇の中。古井戸も草木も空まで震動させて、世にも恐ろしい雷鳴が耳を劈いた。
《苦太郎、謀ったべぁなあああああああぁーーーー!!!!》
地の底から物凄まじい声がする。
そして蓋を吹き飛ばし、古井戸から天へ向かって一直線に伸び上がったそれは最初、大蛇に見えた。
鎌首を擡げる黄金の蛇と見えたものは、骨と皮ばかりに痩せさらばえた巨大な右腕。四方八方、自在に動く肘が十はあり、八本の指の先には鎌のように尖った黒い爪があった。井戸から出た部分だけで十丈はあったろうか。のたうつ腕に生えた黄金の毛は稲光を反射し、よく研いだ剣の如く煌いていた。
琴は井戸端で座り込み、太郎は立ち竦んでいる。手に握っているのは白い刀だった。誰もが恐怖というより見惚れたように、黒雲の下へ現れた輝く巨大な黄金色の腕を見上げていた。
《神食みの剣だどおぉ!! 何の、わりゃ汝ぁ鬼子ば貰ねやねじゃああぁーーーー!!!!》
古井戸より飛び出した巨大な八本指の鬼の手は喚き散らし、遥か上空から墜落してくる。
それに一瞬先んじて、兄が動いた。兄ではなく、白い『刀』が空を切ったのである。やすのには全てがとても、ゆっくり見えた。悲鳴を上げることもなく、兄の首が有り得ない角度に傾く。灰色の宙空で迸ったあれはきっと、血飛沫だった。
瞬きの間で確かめることは叶わず、巨大な鬼の右腕は白い『刀』ごと太郎を鷲掴む。その衝撃で、木陰のやすのまで吹き飛ばされて転んだ。地面から太郎を毟り取った鬼の手は、黒雲に覆われた天へ伸び上がり再び古井戸へ戻っていく。
《ぎいいやゃあああああアアアァアァァァァァーーーーーーーッ!!!!》
最期に井戸から聞こえた絶叫は百雷の轟音と入り混じり、どこまでが何の声だったか聞き分けられなかった。
おぞましい絶叫の余韻が消えると、ぱらぱらと雨が降りはじめる。天空を切り裂く雷光に照らされて琴が立ち上がり、古井戸へ震える手を伸ばした。
転んだやすのも立ち上がると、木陰から飛び出した。
頭は混乱し、何が何だかわからない。咄嗟に動けなかった自分に絶望した。それでも兄を助け出さねばと、古井戸へ走った。すると母が振り向き、娘に気付いて叫んだのである。
「やすの! 居たならボヤボヤしてないで手伝っておくれ! 急いで蓋をするんだよ! せっかく太郎が助けてくれたんだからね!」
「え……?」
愕然として足の止まったやすのの前で、琴は吹き飛ばされていた木の蓋を引き摺り、古井戸を封じ始めた。蓋の裏側には奇妙な、赤い文字みたいな模様がびっしり掘り込まれている。
「おっ母さん、正気? 兄さんが、『助けた』って?」
やすのは、母が狂気したのかと思った。
「娘のくせに、ナマをお言いじゃないよ。あたしにこれ以上、どうしろって言うんだい?」
手足も泥まみれになっている娘を、髪を振り乱した琴は叱りつける。
「でも、だって……だって、これは、おっ母さんがやるはずだったんじゃないの?」
膝が震えるやすのへ、蓋を持ち上げる手を止めた母が言った。
「なんだい? そんなに兄さんばかりが恋しいのかい? それなら、やすのが代われば良かったんだ。同じ穴の狢が、偉そうな口をきくんじゃないよ」
言葉で打ち据えられたやすのは、指一本動かせなくなる。無言で佇む娘の前で、琴はひそひそ呟いていた。
「片付いたんだから良かったと思わなくっちゃ。無駄死にだなんて、太郎が可哀想じゃないの。柾樹だって、まだ死ぬと決まったわけじゃない。もし死んだって、また次を産めばいいじゃないの。跡取りがいれば、それでみんな納得するんだ、何とでもなる。大丈夫、だいじょうぶ」
降り出した雨でずぶ濡れになった母の顔は、それこそ鬼のようだった。
――――あの時の光景。見たもの。聞いたこと。
それらは今も、やすのの脳裏に焼きついている。
だから、その腐乱した『腕』が飛び出してきたとき、一目でわかった。それは先ほどまで、古井戸の周囲で無数に蠢いていた、か弱く胡乱な朱色の腕とは違う腕だった。
青黒い彼岸花。肘から先しかない右腕が地中から飛び出し、一散に飛んで琴の首に食らいついたのである。
「兄さん……!?」
楢の木に両手でしがみついたまま、やすのは叫んだ。
「ヒッ!」
琴の細い喉が、息を飲み込む音が聞こえた。背中から倒れた琴は、目玉が落ちそうなほど目を見開き、死人の腕を両手で引っ掻く。引き離そうとするが、腐乱した爪は女の喉へ食い込み離れない。
「え? 兄さん……? あれが太郎兄さんですって!? 嘘でしょう!?」
違うとの返事を求める妹の叫びにも、やすのは唇を結び強く首を横に振る。
「右腕だけ残ってるのか!」
姉達の声が聞こえたのだろう。蟻地獄の反対側で、柾樹が怒鳴った。
古井戸の鬼に食われた兄は、右腕だけ残ったのだ。死人の腕に引きずり倒された琴は、すり鉢状になった地面を下へと滑り落ちていく。
「いやああ! おっ母さん!?」
紅葉を胸に抱き締めたよしのが、涙まじりの声で叫んだ。
さっき現れた白い狐が、浄化するように消してくれた朱色の彼岸花に似た亡者たちの腕。あの狐は、彷徨っていた魂たちを救ってくれた。つまり青黒い彼岸花と化した太郎だけは、救いを拒絶したことになる。
「た、た、助けテェ……!」
琴は口の端から泡を吹き、喉を絞り上げられて悲鳴を洩らした。
死人の青黒い手は掴んだ人間を振り回し、地面へ何度も叩きつける。琴の身体は奇妙な柔らかさでよじれ、持ち上げられては落下した。蟻地獄の底で捻じ伏せられた琴は裾を乱し、白い太腿を露にして地面でもがき転げまわっている。
「くそったれ!」
柾樹が罅割れた斜面駆け下り、亡兄の腕に締め上げられている母へ駆け寄った。手には奇妙な古い拳銃を持っている。
十三年前のあの日、白い『刀』を包んでいた紙。井戸の蓋の裏に刻まれていた文字。あの朱色の文字と、よく似た模様で埋め尽くされた古い拳銃。初めて弟が離れ屋へあれを持ち込んできたとき、やすのは寒気がしたものだった。
そんなことを知らない弟は、倒れた母の喉を締め上げている死者の腕を、足で踏みつけ動きを封じる。地面へ銀の銃口を向けた。銃口の先には母と、青黒い彼岸花と化した兄の腕がある。位置は数十センチと違わない。やすのは手を握り締め、柾樹がどちらを撃つのか固唾を呑んで見守っていた。
十数年の時を経て復讐している化物と、復讐されている人間は、どちらが守られるべきなのか。弟はどう判断するのか、息を止め注視していた。
柾樹はホンの一瞬迷っていたようである。だが
「ちくしょうが」
金茶色の髪をした弟は目元を歪めて呻くように言い、狙いを定めて引き金を引いた。
死人の腕が、青白い稲妻で射抜かれる。ぶしゃと嫌な音がして、へどろに似た黒い飛沫が辺り一面に広がった。死人の右腕は女の喉から離れ、地面へ腐り落ちる。
それきり柾樹は何もしない。うつろな目は、醜く潰れた兄の残骸を見つめていた。よしのは腑抜けたみたいに眺めているし、やすのも動けない。虚脱感のような、期待外れの感じがどこかにあった。
倅の足元で仰向けに倒れていた琴も、腐敗した黒い飛沫を浴びて呆けている。
「あ、アア……わあ、あああ、うああぁぁあーー……!」
そのうち琴は、涙と悲鳴を垂れ流しながら起き上がった。
地割れだらけのすり鉢状になった地面を、亀に似た動きで這っていく。立ち上がり、森の奥へ向かって走りだした。琴の泣き声は不規則に乱高下し、糸を引くように伸びていく。嘆くにしては芝居染みて、謡うようだった。昔から謡の下手な人だったと、やすのは空虚さと共に思い出していた。
「おっ母さん、何処へ行くの……!?」
よしのが大声で呼びかけても、答えは返ってこない。謡うように啼きながら、母は真っ暗な森の奥へ吸い込まれて行った。柾樹が姉たちを振り仰ぐ。
「よしの放っておけ、あんなの……」
そう言いかけたところで柾樹は膝が折れ、地面へ倒れこんでしまう。
「え……柾樹!? ちょっと柾樹! やめてよアンタまで……ッ!」
「柾樹さん!?」
現実の心と判断力を取り戻した双子達は、自分たちを守ってくれていた楢の木の幹から地面へ降りる。地割れの底で倒れた弟に駆け寄った。柾樹は目立つ怪我はしていないものの、土と埃だらけで、着ている物もあちこち破けている。
「人を呼んでくるわ! 姉さん、後お願い!」
眠る幼い娘を負ぶってよしのが言い、やすのは「ええ」と引き受けた。取り出したハンカチで弟の顔を拭ってやると、仰向けで寝転がった柾樹が呻く。
「……こんな形で、兄貴と会いたくなかったな……」
それを聞き、やすのは喉が苦しく詰まる。詰まったものを意識的に飲み込んで、小さな声で話しかけた。
「柾樹さん、ごめんなさいね。でも、ありがとう。私たちもだけど……おっ母さんまで助けてくれてね。おかげで兄さんも……親殺しにならずにすんだわ」
そう言って長姉は近くの地面に残る、黒い染みとなった兄の痕跡を見つめた。これで正しかったのだと、納得しようとしていた。
「……殺す?」
壊れた銀縁眼鏡を握りしめ、暗い紺青の空を眺めていた柾樹が囁いた。
「殺すつもりだったのかな?」
素朴な疑問に、相内屋敷の長女は「え?」と弟の顔を見る。
「おふくろ様に、しがみ付こうとしたんじゃねぇのか? まぁ、あれじゃ殺されただろうけどよ」
気だるげな声で呟いていた。柾樹は人の気持ちや情緒に関して、どうにも音痴なところがある。しかしその言葉で、やすのはハッとした。
母の身代わりとなり、鬼に食われ見捨てられた子どもは、ずっと暗い古井戸の中にいた。そこへ十数年ぶりに母がやって来た。蓋を開け、解き放ってくれた。
――――たすけにきてくれた!
井戸の中で太郎は、そう思ったかもしれない。否定出来るだけの材料は、残されていなかった。
涙を流す目も叫ぶ口も、すでに無い。守る体裁も何も無い。
右腕だけになった太郎が涙に代わり、痛々しいほどの嘆きと興奮を表した動作が、母の喉笛を締め上げるという形になっただけではないのか。先入観の無い柾樹には、亡者の右腕が振るった暴虐もそういう有様に映った。
やすのはかえって、自分が自分にさえ隠していた本心を見せられた気がした。
地面に座り込んだやすのの身体の中を、古い記憶が吹き抜ける。
まだ置屋で暮らしていた頃だった。やすのたちは四、五歳で、そうなると兄は十歳くらいだったろう。夜中になり、ぐずり始めた双子たち。周囲の大人に「うるさいよ」と言われ、気を使って外へ出た少年は妹の一人を負ぶい、一人の手を引いて歩き回っていた。
浮かれた虚飾の裏側にある、猥雑で異臭の漂う暗い小路。居場所の無い暗がりで、幼い子ども達はどれくらい待っていただろう。
――――ほら、やすの、よしの。おっ母さん帰ってきたぞ!
妹達に呼びかけた、嬉しそうな幼い声。
時間に晒され霞んでも、残った僅かな脆い記憶が、やすのの耳の底に蘇る。もう一度あの少年に会えたら、やすのは駆け寄って力いっぱい抱き締めてやるのに。
「ごめんね……」
でももうそれしか言えない。やすのは涙が頬を流れて伝っていた。
「チックショー……『鬼になるな』だの、余計なこと言いやがってアイツ……」
兄の記憶が無い柾樹は、姉の様子を見ていたのか、見ないようにしていたのか。手足を伸ばして地面で大の字になり、文句を呟いていた。
森の奥へと走り去った、元奥様の琴。
坊ちゃん達の母親はこれ以降一体どこへ行ったか、二度と行方は知れなくなった。




