妖刀霧降
無音に耳を塞がれていた。
白光の焼き付いた瞼をこじ開ける。上空だけぽっかりと開けた夕暮れの空は、微妙に水色がかった黄緑色に輝いていた。周囲も紅紫色の薄い色硝子を、一枚一枚重ねたような色に染まり、足元に咲く彼岸花も一層朱色を深くしている。全てが奇妙に美しく、死人が見るならきっとこんな夢だった。
空気は粘つき、身体へ纏わりついてくる。
紅紫色に染まる地獄の入口。数歩も歩けば手が届く位置に、罅割れた古井戸がある。その上に、白い物体が浮かんでいた。
「……これが?」
柾樹は呟き目を瞠った。
切先は尖り刀の形状をしているが、想像していたものと違う。御神刀は、『白い石の刀』と聞いていた。しかしこの『刀』はまるで、おがくずを固めて作ったみたいに不細工なのだ。皹と皺と隙間だらけの、白っぽく脆そうな、おがくずの塊だった。黒い隙間では小さな目玉が、ちかちかと無数に光っている。
グギ、ギリギリ……と軋む音が、緋色の森に染み渡っていく。
《……『霧降』が、歯軋りしておるわ》
法螺貝に似た声で、銀縁眼鏡に宿る幽鬼が鬱げに言った。
「じゃあ、これが『魂ふり』で蘇った『霧降』で……」
と柾樹が手を伸ばしかけた、一瞬間。おがくずの隙間から八方へ黒い光が放たれた。
「!?」
音の無い衝撃で、柾樹は吹き飛ばされる。
黒い光に見えたそれは、鋭利な棘を思わせる細い蛇だった。小さな目玉のついた無数の黒い蛇が、鎌首を伸ばす。醜い『霧降』は鎖鎌のように猛烈な速さでビョウビョウと駆け回り、手当たり次第食らいつき刈り取りはじめた。
《退くぞ!》
銀縁眼鏡に宿る黒い牛頭の化物が半透明の姿を現し、蒼い炎を吐いて言う。衝撃は受けても傷はなかった。道理で、蒼い鬼火で守られている柾樹の周囲は黒蛇の牙が弾かれている。
「待て、退くな!」
《何だと?》
咄嗟に叫んだ。古井戸の付近にいたのは、柾樹だけではない。
「きゃああああ!」
粘つく灰色の空気と、吹き荒ぶ黒い竜巻の隙間に見えたのは、頭を抱え地面へうつ伏せに倒れている姉達の姿。井戸端から同じく吹き飛ばされていた女達が、悲鳴を上げていた。
「やすの! よしの!? おい、普通の人間まで襲うのか!? ふざけんな、これじゃ御神刀を手に入れるどころじゃねぇだろツネキヨ!」
『霧降』は、気に入らなければ持ち主の首まで刎ねるとは聞いていたが、あまりにも話しが違う。柾樹は足元で蹲っている、薄茶色の毛玉へ怒鳴った。
「ほ、本来の『霧降』なれば、かような狼藉はしないのじゃ! あの『霧降』は、もはや神刀ではない! 呪いの言霊で形をなした妖刀じゃー……!」
丸く縮こまった小狐は、ぎゃんぎゃん喚く。
そうか、と脱力に近い感覚で腑に落ちた。柾樹は母に御神刀の『霧降』、別の名で『雲居』と呼ばれていたそれを持って来いと言った。琴は真に受けて、御神刀を手に入れる方法を『必中の賽』で占った。幸兵衛の真似をした。しかし。
「のんでんぼうが滅びておる以上、『必中の賽』を振ろうと、完璧な託宣が得られるはずもないぞよ……。そもそも、『託宣』も『魂ふり』も、知らぬのではないかぞよ?」
ツネキヨと同じく、柾樹の足元へ避難していた二重も忌々しげに言う。
壊れた賽の断片の情報で、琴は依代となる『杖』を見つけ出してきた。古井戸まで杖を運び、封印の蓋を開け『魂ふり』をした。これで目的の物が手に入ると思ったのだろう。あまりに稚拙で不用意な行動だった。
そして不用意な『魂ふり』の影響は、思ってもいなかった場所にも現れた。
「腕……!?」
ぷにゃと何かが足に触れたものを確かめて、ぞっとする。
裏庭に咲き乱れていた彼岸花が、人間の右腕に変化していた。地面から生えたのは半透明で朱色のか細い腕。それらが黄緑色の天へ向かって、するする伸び始めた。
「風に葬られてきた者達が、『魂ふり』で黄泉返ってしもうたぞよ」
老い狸が嘆く。陰府の風に吹かれた無数の亡者の右腕は、恍惚とした動きで揺れていた。ゆらゆらと伸びてくる亡者の腕を、蒼い鬼火が薄布を燃やすように焼き消していく。
《手当たり次第とはいえ……妖刀の『霧降』は我らと、この亡者どもを狙っておるな》
赤目御前が、『霧降』の動向を見て言った。
剣は己の存在理由を、完全に見失っているわけではないのだろう。妖刀となっても、『霧降』の主たる攻撃対象は、たゆたう亡者の彼岸花たちだった。朱色の右腕たちは眠りから覚めたばかりで動きもうっとりとして、何か掴もうと伸びた傍から無残に刈り取られていく。
その時、ゴソッと足元が揺れた。動かないと思っていたものが動くと、理解が追いつかない。
「『人喰いの井戸』が沈み始むのじゃ!」
ツネキヨが悲鳴を上げた。
瞬く間に古井戸を中心に四方へ地割れが走り、亡者の右腕たちも石の蓋も人間も、地上に配されていたものが平等に、割れた地面へ引きずり込まれていく。
「逃げろ!」
柾樹が怒鳴ると、姉達が起き上がり走り出した。井戸端でうずくまっていた母も、朱色の腕の花畑をかき分け外へ向かって逃げていく。
「よしのちゃん掴まって!」
「姉さん……!」
楢の木まで逃れて掴まったやすのが、よしのを引っ張り上げている。紅葉を抱えたよしのは身動き取れないが、地面に深く根を張った巨樹にどうにか二人避難していた。琴も別の木にしがみついている。その間にも『人喰いの井戸』は地面に沈み続け、地割れと蟻地獄は情け容赦も無く拡大していた。
《『霧降』の封印が解けて、栓が抜けたようなものだな。このままでは神田山の底が抜けるぞ》
「底が抜けるだ!?」
黒蛇の鎖鎌の下を潜り、蟻地獄の端にあった大岩まで逃れた柾樹に、赤目御前が告げる。
「止められねぇのか!?」
《止めようにも、あの暴れようでは『人喰いの井戸』へ近づけぬ》
粘つき漂う霧は白く濁り、妖刀と化した『霧降』から伸びる黒蛇の竜巻が吹き荒ぶ。
妖刀は刈り取った彼岸花を粉々に砕き、空まで巻き上げていた。黄泉返った亡者の右腕が、刈り取られれば鎮まるかもしれない。だが虚空を掴む朱色の腕は、刈られたそばから新たに生えてきた。その間にも、井戸は沈下を続け蟻地獄は範囲を広げている。今立っている岩も、いつまで安定しているかわからない。
一、二秒考えた柾樹は、口を開いた。
「おい、あれを……『霧降』を、“コヨーテ”で撃ったらどうなる? 少なくとも『霧降』は止まるか?」
言いながら“コヨーテの拳銃”を取り出した。ツネキヨが尻尾の毛を膨らませる。
「何じゃと!? 『霧降』を破壊すると申すか!?」
青緑色の目をした狐が、甲高い声で喚いた。
「やむを得ぬぞよ、常清殿……あれを元に戻せるとは思えませぬぞよ?」
狸は黄緑色の硝子の目玉を更に光らせ、柾樹の案に賛意を示す。
「もう妖刀になっちまったんだろ?」
探していた御神刀の『霧降』だった。おがくずの塊になってしまったとはいえ、破壊するなど柾樹も本意ではない。本意でないどころか本末転倒だった。腹が立っても、迷っていられる時間は無い。
「まずは地割れを止めねぇことには、どうにもならねぇだろうが」
古い拳銃のシリンダーを開き、確認して言った。
「おい、お前ら。俺が古井戸まで届くように道を作れ。後は何とかする」
濃霧と鎖鎌が妨害している状況では、至近距離で撃つしかない。柾樹がシリンダーを戻すと、銃身に埋め込まれている赤や緑の小さな丸い石が目を覚まし、パリパリと紫銀の稲妻を放ち始めた。
「むむむ……『霧降』が無いとなれば、また某が姫様に叱られ……」
「先に滅びてぇのかツネキヨ?」
瞳孔の縮んだ目で柾樹は狐の尻尾を踏みつけ、銀色の銃口を向ける。
「わ、わわわ、わかったわい! やるだけやるのじゃ三介!」
「小なる因果は、大なる因果の渦中にあるもの……。映し世の人間に任せましょうぞよ」
縮み上がり前足で忙しく岩を引っ掻いている狐のツネキヨへ、狸の二重が小声で言い返していた。
「無駄撃ち出来ねぇってのが辛いな」
残る銀の弾丸は五発だった。
「助けて! 助けてエ……!」
そこへ、掠れた悲鳴が聞こえる。石榴の木に一人しがみついていた琴に、亡者の朱色の腕が幾重にも折り重なり群がっていた。丸髷に絡まった彼岸花たちに引っ張られ、琴は身体も弓なりに仰け反っている。朱色の右腕たちは女の袖も裾も構わずしがみ付き、白足袋は片方脱げて襦袢も半分はだけていた。
「『必中の賽』など持っておれば、狙い撃ちにもされるぞよ」
「今からでも良いのじゃ! 『必中の賽』を、『人喰いの井戸』へ返すのじゃ!」
柾樹の左右両隣で背中の毛を逆立て、狐と狸が口々に言う。
「おいアンタ! さっきのサイコロ、井戸へ投げろ!」
不気味な地鳴りと共に、徐々に傾き始めた岩の上で柾樹は怒鳴った。霧の向こうで母は息も絶え絶えに、それでもややあって息子の方へ顔を向ける。
「ひ、あ……? え、ええ……? だ、だって……だって、これが無くなったら」
琴は枝に掴まり、何か言おうとした。着崩れた懐中から、『必中の賽』が光りながら零れ落ちる。
「あ、ああッ! あたしの! あたしの! やめて! 返しとくれ! それはあたしの命綱なのよお!!」
必死の形相で叫んだ母は、右手だけ木の枝に掴まり、落としたサイコロへ左の手を伸ばす。だが人間ごと、紙くずみたいに飛ばされた。妖刀『霧降』から伸びた何百という牙をむく黒蛇の頭と、地面から生えた無数の朱色の右腕が、渇いた者が水を求める如く『必中の賽』へ襲い掛かっていく。
それと同時に神の眷属たちが、一声高く鳴いた。飛び上がり、もう一枚化けの皮が裏返る。広がった威圧は風とは違い、体の内部に重く響いた。
柾樹が目を開くと、こちらが本性なのだろう。
ツネキヨは純白の狐となり、二重は牛ほどの巨大な黒銀色の狸となっていた。二匹が蟻地獄へ飛び込むと、無数の黒蛇と彼岸花は稲穂のように、一斉に吹き倒される。
「今じゃ!」
「行け!」
狐狸が叫ぶのを合図に、柾樹は岩から裸足で飛び降りた。
彼岸花の上を、蟻地獄の底へ向かって駆け出す。割れた地面の黒い隙間から伸びる朱色の亡者の右手が、侵入者へ群がりはじめる。蠢く彼岸花に遮られ、手足や着物の裾や袖を掴まれた。
「邪魔だどけ!!」
怒鳴りつけ朱色の腕を振り解く。目の色が変わり、形相が人から離れ始めた。赤目御前が焼き焦がす蒼い鬼火の上、沈み行く『人喰いの井戸』だけを見て突っ走る。
《そなた異形になっておるぞ》
赤目御前が耳の奥で囁いた。
柾樹も自覚はあった。熱した鉄球でも飲まされたかと思うほど、身体の芯が熱い。皮膚は内側から赤黒く色を変えていた。自分で気付いている。でも動きは軽かった。動けるならそれで良く、苦しいのと同時に頭は沸騰し止まる必要を感じない。身体は軋む音と共に膨張し、異常に伸びた黒い爪が死人花を薙ぎ払う。
残り数歩という所まで来て、妖刀『霧降』の標的が、食い尽くした『必中の賽』から柾樹へ変わった。
数えきれない黒蛇の牙が、頭上から黒い刃の雨と化して襲い掛かる。柾樹に覆いかぶさり守る牛頭の蜘蛛が、神食いの『霧降』に食われ穴だらけになっていく。御前もかつて誰かに、こうして守られたのかもしれない。
《死なば死ね! いざうれ見参せよ!!》
赤目御前が鬨の声のような吼え声を上げた。怒れる幽鬼が絶叫する。眩む蒼い炎に包まれ、足下の亡者達の手を蹴散らし蟻地獄の底まで辿り着いた。禍々しく不恰好な、おがくずの塊と化した妖刀『霧降』。
「こン畜生があ!!」
両手で拳銃のグリップを掴み、黒い隙間へ銃口を殴りつけるように突っ込んだ。腕や髪にしがみつく彼岸花の右手で、地面へ倒されそうになるのを耐え抜き引き金を引くと、遠吠えが聞こえた。
銀の稲妻が砕けて腕の表面を走り、宙で弾ける。奇妙に膨張した妖刀が、もろもろと崩壊しはじめた。崩れた白っぽいおがくずは蒸発し、消えていく。
次の瞬間。亡者の彼岸花が足元から大波となって押し寄せ、柾樹を飲み込んだ。
《……助ケテ、助ケテ、助ケテ、助ケテ、助ケテ、助ケテ、助ケテ、助ケテ、助ケテ、助ケテ、助ケテ、助ケテ、助ケテ、助ケテ、助ケテ、助ケテ、助ケテ、助ケテ、助ケテ、助ケテ、助ケテ、助ケテ……》
乾燥しきった呟きに、身体が押し潰される。
冷たくぶよぶよした数多の指が絡みつき、煮え滾るようだった身体の熱を奪っていた。彷徨う亡者達は柾樹の皮膚や髪を引っ張り、毟り取ろうとする。腐った寒天の中で喉を絞められ呼吸は止まり、溺れていく。
――――殺されるな。
後付けで覚悟した。すると突然、胴腹に何かと激突した衝撃を受ける。
「痛でッ!?」
激痛で目が覚め、咳き込みながら目を擦った。
柾樹は蟻地獄の底から弾き出され、腐った寒天の圧迫が消えている。滾るほどの熱も去り、身体は元に戻っていた。その代わり、急に重力を思い出した手足が、うまく動かない。痛む身体を持ち上げ、息切れと共に起き上がった。傍らには、滅茶苦茶にひしゃげた銀縁眼鏡が落ちている。
「赤目……?」
蟻地獄の底で、牛の頭に八本の蜘蛛の足を生やした巨大な黒い水の塊が凝っている。さっきの激突は、赤目御前の足に蹴り飛ばされたのだとわかった。
《……神田山の底は、わしが埋めて進ぜよう》
穴だらけになった牛頭の幽鬼が、赤い目玉を光らせて呟く。蒼い鬼火で、まだ周囲の彼岸花を燃やし続けていた。
《かくなれば、幽鬼の我が身でも埋められよう。いささか気に入らぬが……こやつが死出の山の供をするらしいのでな》
黒い水の化物は、次第に内部から凍っていく。
「恐れながら、この老い狸が御供仕りましょうぞよ、赤目御前」
古井戸の横には狸の二重が座り、長い尻尾でもって彼岸花を追い払っていた。
《世を恨み、身を嘆く心も尽き果てた。まぁ悪くもなかろう。これなれば……弓取りの子として、見苦しくもなかろう。民草の礎となるならば、あやつも……喜ぶだろう》
惨めなまでに妖刀『霧降』の牙で食われた幽鬼は、己へ言い聞かせているようでもあった。黒い水中の赤光が消える。凍りつき罅割れた黒い牛頭の蜘蛛が、下方から細かく砕けはじめた。赤目御前は己を括っていた神の輪郭と諸共、古井戸へ吸い込まれていく。
「小鬼。土産代わりに聞いておくが良いぞよ。そなたの爺は『人柱』の宿命から、そなたを救おうとしたのであろうぞよ」
斜めに崩れた古井戸の上で座り、巨大な化狸が言った。
「他の何を犠牲にしようと、そなたを『針の先』にさせたくなかったのであろうぞよ。しかし変えきれなかったぞよ。のんでんぼうの『針の先』となるはずであった幼子は、鬼の残影を映す『小鬼』となってしもうたぞよ」
狸の巨体もまた、黒銀の細かい粉となって穴へ吸い込まれている。
祖父、幸兵衛は『人喰いの井戸』の大鬼から、振れば当たる『必中の賽』をもらった。代償として、孫の柾樹が『針の先』になるはずだった。だが幸兵衛は、途中で誓約を塗り潰そうとした。手を尽くし古井戸の鬼は消えたが、今も『祟り』という影が柾樹にこびりついている。
「静かに暮らしておれば良かったのであろうが……そなたは『針の先』と関わったぞよ。更に此度の『魂ふり』も重なったぞよ。努々、大鬼の影にのまれぬよう心するぞよ」
黒銀の巨大な狸は、これまでと変わらない口調で語った。二重の姿は薄れて、透明になっていく。
「ふむ? その目は何ぞよ?」
人間くさい動きで、狸が首を傾げた。問いかけられた柾樹は、返事に戸惑う。
狐狸化物たちは、人間の都合と違う世界の存在だった。『常世』の者である二重は、駿河台が更地になろうが、痛くも痒くもない。『霧降』を止めるために、加勢する必要もなかった。赤目御前に付き合う恩も義理も無いだろう。それなのにこの老い狸は、自ら粉になっていく。
「心得違いをされては困るぞよ。我らは誇り高き伊予の狸。人と違うて、人の不幸を願ったことなど、一度たりともありはせぬぞよ?」
狸の表情などわからないが、二重の黄緑色の目がちょっと笑ったみたいに見えた。そして赤目御前と二重が消え去ると、地鳴りが止む。
古井戸は白い砂の代わりに、黒い土で埋まった。
「止まった……」
柾樹が周囲を見回すと、再び女達の「きゃあ!」という悲鳴が聞こえる。
蟻地獄の拡大が止まっても、まだ亡者の右腕が咲き残っていた。『魂ふり』で黄泉返り彷徨う亡者は、人間達へまとわり付き始める。
まずいと思っても身体が動かなかった。その柾樹の目の前へ、朱色の手がふらりと伸びてきたとき。
「仕方がないのう」
背後から飛び出して、ツネキヨが言った。白い尻尾を翻らせた狐はそのまま、朱色の渦の只中へ飛び込んでいく。止める暇もなかった。
「さあさあ、泣くでないのじゃ!」
ツネキヨは甲高い金属質の声で言い触らし、走り回る。
「どうしたどうした? そうかそうか、寒かったであろう怖かったであろう! 安心せよ、これからその方らは美しゅうて温かなところへ行くのじゃぞ!」
鈴が鳴るのに似たその声で、彼岸花たちの手はそちらへ向かい、するする伸びて群がった。
「さあさあ、持って行け持って行け!」
白い狐の美しい毛が、朱色の亡者の手で毟り取られる。そのたびに毟った側の彼岸花たちは、光の粉となり消えていく。救いを求める朱色の右腕たちは、救ってくれるという神の眷属に押し寄せていた。純白の小さな身体に掴みかかり、耳や尻尾、爪まで貪り毟り取っていく。
「ツネキヨ何で」
毟り取られていく一方のツネキヨに、柾樹は何をしているのだと言いたかったのかもしれない。
「何かと? 何を言っておるのじゃ? こやつらは『タスケテ』と申しておるではないか。あわれではないか。助けを乞う人間があらば助けよとは、姫様の仰せ!」
朱色の手に耳を引きちぎられ、まだ神の眷属は躊躇無く答えた。
やがて残っていた亡者の彼岸花たちが、光の粉となって消え去った後。
ツネキヨは美しかった白い毛を、ことごとく毟られていた。耳は破れ髭も毟られ、円らで綺麗な青緑色の目も片方失っている。みすぼらしくなった白い狐は、あだし野の底でよたよた歩き、振り返った。
「ではな。某の務めはこれで終いじゃな……湾凪の姫に、詫びておいてくれ三介。喜ばせてやれなんだ。すまぬのう。二度と会うことなかろうが……たまには、ここへ天ぷらも供えるのじゃぞ」
行儀よく前足を揃えて座った白い狐は、赤ん坊が笑うように言って消える。
粘つく空気は澄んだ風を取り戻し、死人が見る夢の色をしていた空も無条件に広がる藍色へ戻った。




