相内重郎
書斎の壁には、写真が掲げられている。
映っている老人は丸顔に禿頭。猫背で胸は薄く、痩せていた。先代当主、相内幸兵衛の鋭い目は、モノクロの写真の中から今も全てを睥睨している。
「座りなさい」
窓を背にして椅子に腰掛けた父から、椅子に座れと命じられた。だが柾樹は座らず、壁の祖父を見上げている。
夕食後、柾樹は父に呼び出されてこうして書斎で立っていた。書斎の壁は天井近くまで届く本棚と、書類で埋まっている。そして大人の背丈ほどもある、巨大な金庫が置かれていた。
黒い洋装に身を包む重郎は、机の前へ置かれた椅子へ座らない柾樹に、それ以上を要求しない。両手の長い指を、顔の前で組んでいた。痩せぎすな長身の現当主は厳しい髭を生やし、目は切れ長で鼻が高い。ランプの灯りの影響で頬はこけて、荒削りの彫刻のようだった。
「今日も屋敷を抜け出していたそうだな。どこへ行っていたのか言いなさい」
書斎机の向こうから、父は無表情で“囚人”へ尋問を始める。大きな机の上には、先日柾樹が母から受け取った例の『手紙』が置いてあった。
「裏庭を散歩して、途中でおふくろ様らしい女と、壁越しに話しをしただけです」
柾樹も感情の無い声で答える。
「琴か。琴とは……おっ母さんとは何を話した?」
重郎の口から、『おっ母さん』という生温かい単語が出てきた。そんな言葉を知っていたのかと、柾樹は内心驚く。
「話すってほどは……顔が見たいとか、言っていました」
退屈な顔で答えた。
「それと太郎兄さんは、裏の古井戸で死んでいないと言っていました。この家から逃げて、女と英吉利へ行ったと」
明後日の方角を見ていた柾樹の目が、正面に座る父へ降りてくる。柾樹の言を聞いた父の鉛色の瞳は、金茶頭の息子を黙って見ていた。
「そうか。やはり、琴には背負いきれなかったか」
重郎から、独り言が洩れて出る。
「太郎が英吉利へ行ったというのは、事実ではない。お前のおっ母さんの、願望のようなものだ。太郎は裏庭の古井戸で死んだ」
大きな手を組み直し、微かな溜息を交えて重郎は言った。
「でも兄さんが死んですぐ、古井戸が砂で埋まっていたと大山に聞きました」
「そんな不思議もあったな」
「あれは御神刀の残骸ですよね? 御室の里の」
柾樹の言葉で、重郎の眉が片方微妙に上がる。
「……何?」
父親の目付きと表情が俄かに変わったのを確かめ、屋敷の小鬼は一先ず満足して喋り出した。
「何であんなもの盗んで、『人喰いの井戸』に放り込んだんです? 兄貴が死んだのと、関係あるんですか?」
青褪めていく重郎を見下し、琥珀色の前髪の下で薄ら笑いした柾樹は尋ねる。息子の言葉を聞く重郎は長らく沈黙した後、一度目を閉じた。
「……その前に。お前は屋敷の中で、何やら探し回っているそうだな? 何を探しているのか言いなさい」
揺るがない冷徹さで、柾樹の行動へと質問内容が移る。
「御神刀です」
素知らぬ顔で答えた柾樹を、父の鉛色の瞳が冷たく見返した。
「誰ぞに頼まれたか?」
「誰だろうが、どうして探そうが俺の勝手です」
金茶頭の囚人は仏頂面で言い返す。窪んだ眼窩の底にある重郎の目が、少し下方を見た。
「……『あの里』の生き残りか」
吐息に乗せて言う。今度は柾樹が無言のまま、目を瞠った。
「御神刀を、取り戻しに来たのか? 『烏返』を」
重郎は浅黒い顔の表情を動かさず、重い声で答えた。
「『烏返』?」
「御神刀の名だ」
告げられた御神刀の名前を耳にし、柾樹は怪訝な顔になる。
「『霧降』や、『雲居』じゃないんですか?」
思わず口から出てしまった。
またしても名前が違う。板塀の向こうにいた母は、白い石の刀の名を『雲居』と告げていた。だが柾樹の問いにも父は僅かに動いて、椅子へ座り直しただけだった。
「私は『烏返』と聞いている」
重郎の顔には鬱とした灰色の影が差し、他の問いを全く受け付けない口調で言う。
「今になって、こうなるのか……こんな綻びとなって現れるのか」
相内家の現当主は厳しい口髭の奥で、聞き取りにくいことをぶつぶつと呟いていた。
「何のために遠路遥々行って、御神刀を持って来たんです?」
生気の無い父親の姿に半ば辟易として、柾樹は尋ねる。しかし
「お前は知らなくて良い。知る必要はない」
重郎からはね返ってきたのは、黙秘と同じ回答だった。
「何故ですか」
机上の橙色のランプの光の方へにじり寄り、屋敷の小鬼は食い下がる。
「大旦那様が決めたことだからだ。理由を知る必要はない。我々は鉄砲玉のようなものだ。何のために、何処へ向かうかわからずとも、飛んで行くだけだ」
鉛色の瞳をした父の吐く返事は、内容を伴っていなかった。あくまで理由は明かさない気であるらしい。柾樹は怒りというより、薄気味悪さで眉をひそめる。浮かんだ息子の表情の中に、自分への嫌悪と軽蔑を見つけたのだろう。机の上で両手を組んだまま、宙の一点を見つめて当主は言った。
「柾樹。お前には想像もつかないだろうが、ここでは他に道は無かったのだよ。考えてはならない。尋ねてはいけない。疑ってはならなかったのだ」
重郎の表情は無駄が無いのを過ぎて、必要だったものまで削り落としてしまったみたいに色彩が無かった。
「その調子で御室の里の、山崩れの事件も……新聞に出るのを揉み消したんですか?」
父親を睨み、柾樹は尋ねる。
幸兵衛に命じられた任務を、忠実に遂行し続けてきたのだろう重郎。無反応に徹する人を目の前に、その倅はやっと怒りの情動がわいてくる。けれど重郎の不動は、もうよほど丹念に練り上げられているようだった。視線すら動かない。
「そういう名の山郷だったな。そうだ、当家の名が表に出ると厄介だ。あちらはもはや身動きとれぬはずだが、もし何かあらば全て消せと、生前に大旦那様からお指図があった」
「ちったぁテメェで頭使おうとか、考えなかったんですか?」
声を押し殺し、総領息子は被せるように言う。
祖父が存命中ならばまだしも、山崩れが起きた時、すでに幸兵衛は他界していた。逆らおうとすれば出来たにも拘らず、父は善悪よりも自分の内に残る大旦那様を優先し、従い続けたのである。
すると重郎が、目が覚めたみたいに息子へ顔を向けた。
「お前は、親の罪悪を映さないな」
「は?」
慣れないことを言われた柾樹は、間抜けな声が出てしまう。今の父の言葉は、よろこびや賞賛ではないにせよ、僅かながら安堵のようでもあった。
「私も一度でも、そのような子でいられたら、父との間柄も違っていたかもしれない」
何を指しているのか、柾樹は意味がわからない。けれど倅に歯向かわれた父の心象は、必ずしも悪くない様子に見えた。だが柾樹が戸惑っている間に、また当主は手指を組み直し、表情は硬直して動かなくなってしまう。
「そこまで知りたいのならば、経緯だけは話しておこう」
ランプの油の匂いと薄煙越しに、遠くを見つめ重郎は御室の里へ向かった日を語りだした。
「十三年も前になるか。私は大旦那様に、『あの里』へ行けと命じられた。『白い石の刀』を見つけてくるよう、言い渡された。刀の名は『烏返』。手掛かりは、それだけだった。少しは時間がかかると、大旦那様はお考えだったようだ。しかし私が山郷へ行くと、探すまでもなく御神刀が……『烏返』が現れたのだ。呆気なかったな」
昔話の途中、重郎は椅子へ背を預けた。
「だが、これもよくある事だった。『玉手箱』も……『幸運者の小箱』のときも、似たようなものだった。お指図で神戸へ行くやいなや、阿蘭陀の商人が持ち込んできた。いつもこうだ」
俯き頭痛を堪えるように、眉間の皺を深くして小声で重郎は喋り続けている。
約二百年前、悪魔と契約したと噂され最終的に爆死した伝説的な錬金術師を、柾樹は知らない。ただ、不思議な箱が海の外からやって来て、祖父がそれを賽の導きで手に入れたのはわかった。
「そしてあの日、山で道を探していた私のところへ、貧しい身形の少年が、どこからともなくやって来た。帝都から来た人間と、一目でわかったのだろう。『この石の太刀が欲しいか』と差し出してくる。それを、私は買い取った。それだけだ。見つかった後、どう動くかも既に指図があった。刀は支度されていた特別な紙に包んで運んだ。文字のような模様が、朱書きで描き込まれた分厚い紙だ。更に油紙と風呂敷で包み、中身について誰にも語ってはならなかった。見つけ次第、ただちに帝都へ戻れと……」
山に眠る『無名の君』の封印が、一つ解けた日。
御神刀を山から盗み出した里人は直接、重郎へ売り渡していた。柾樹の耳の奥で、赤目御前の声がした。
《それだ……その紙だ! 名を変え、隠す呪を施し、わしや常世の者たちの目を欺きながら、ここまで『霧降』を運び込んだのだろう……》
銀縁眼鏡に隠れている化物は、法螺貝の声に幾分の興奮を滲ませて言う。名前を変えるのが、大事らしかった。
「包んだ紙ってのは……どうやって手に入れたんです? それもわからない?」
柾樹は期待をせず、祖父の手先指先そのものだった父へと尋ねる。
「絵師を呼び作らせた。材料から道具まで全て託宣で占い、指図をしてな。何度かそういうことはやった。大体は名人と呼ばれる者だったが、どこの何者に作らせるかも賽を振り決めていた。乞食や、癩の者が呼ばれたりもしたな」
重郎から、ここは明確な返答があった。
「サイコロ……」
「『必中の賽』だ。白い、骨のようなもので出来た正十二面体。読み解き方や使い方は、私も知らない」
組んだ手を机の上に乗せ、当主は呟く。
「その後、鉱山開発の話しはどうなったんです?」
「先方が、日を改めてほしいと頼んできたので引き揚げた」
「あの里へ近付くためだけに、鉱山開発の話しを持ちかけたんじゃないんですか?」
重郎の言葉の最後へ、息子は疑惑を交えて問いを重ねた。柾樹でさえ、鉱山開発とやらは建前で、『御神刀』を釣る餌だったとしか思えない。実際、まんまとお殿様が釣れている。
「私にはわからない。大旦那様が決めたことだ」
昏い目で、重郎は淡々と答えた。わからないどころではないと、柾樹は一目でわかってしまった。父は大旦那様に全てを委ね、選ばれた決断の先に何があるかなど、知りたくもなかったに違いないのだ。
「決めるったって、所詮はサイコロだろ?」
じりじりして柾樹が尋ねると、感情の無い重郎の目が暗く沈黙した。
「あれは、ただの賽ではない。鬼の賽だ」
重郎は、ハッキリとした口調でそう告げる。ゆらりと視線を上げ、鉛色の瞳に息子を映して言った。
「お前はどう思う? この父の気が触れたと思うか?それとも信じるか?」
「……信じます」
父の問いへ躊躇いもせず、金茶色の髪の青年は答える。聞いた方こそ、意外そうだった。
「信じるか……そうか。私は父が乱心したと思った。行方知れずだった父が帰ってきた途端、妙なサイコロを取り出して、『鬼にもらった』と自慢し始めたときにはな」
重郎の目が、また虚しい光に揺れる。
語られた記憶は、柾樹の知らない時代。まだ祖父と父と、幕府が瓦解する前に死んだ祖母とが、片田舎の草むらの中で暮らしていた頃の、記憶の断片だった。
「乱心であろうと何であろうと……大旦那様の『託宣』は的中する。必ず正しい答えを導き出す。選択を誤らない。賛同者は生き残り、反対者は滅びていく。どんな指図も無理無体も、結果は正しかった」
重郎はそこに柾樹がいるのを忘れたように、独りで話し続けていた。
占いや祈祷、呪などを扱う人間はそれらを扱う以上、常識を捨て去る夢中の活力と、邁進出来るある種の無邪気さが必要だった。幸兵衛にはそれらが備わっていたのだろう。だがその人の子で、『賽』に引き摺り回されてきた重郎はといえば、徹底的に使い果たされた襤褸布と似ていた。賽や、それを振っていた人への尊崇も恍惚も見当たらない。未だに幸兵衛の魔術にかかっているにしても、家令の大山とは異なっていた。
それでいて、もう重郎は先代の託宣の守護者であることを、己の使命と定めているらしい。
「そのサイコロをくれた鬼は、『人喰いの井戸』の……“のんでんぼう”ですか? でも、そいつは大昔に滅びていたんじゃないのか?」
状況から判断し、柾樹は口に出した。
「お前はそこまで首を突っ込んでいたのか」
出された疑問へ、大旦那様の『正しさ』を最も近い位置で見続けてきた人は、表情の無いまま呟く。しかし嘆息だけで、柾樹の欲しい回答は出てこなかった。総領息子は、壁に掲げられたモノクロ写真の老人を見上げる。
大旦那様、幸兵衛は鬼にサイコロをもらった。
サイコロをくれた鬼の潜む『人喰いの井戸』を確保するため、この屋敷も手に入れたのだろう。膨大な支出と労力を投じ、何よりも成り上がるために使ってきた大切な『必中の賽』。
「もしかして兄貴は、古井戸の鬼と刺し違えて死んだのか? 兄貴の目的は……『必中の賽』を使い物にならなくして、この家へ復讐をするため?」
閃いた柾樹は問いかけたものの、机の向こうにいる人の反応は、尚も変わらぬ沈黙だった。
「兄貴は、祖父さんが何かの目的のために、『霧降』を持って来たのを知っていた。その後にサイコロ盗みを企んだが、返り討ちにされてとっ捕まった。ちょうどおふくろ様が蔵から出してくれた。自棄を起こして死なば諸共、『霧降』を奪って『人喰いの井戸』へ飛び込んだ。これで祖父さんは、二度とサイコロを使えない。せっかくの御神刀も壊れて、使い物にならねぇ。ざまぁみろ……違いますか?」
銀縁の眼鏡の奥から、探るように重郎を見る。
「その通りだ」
長い静寂の後、重い口が縺れがちに動き出した。
「私は、太郎に厳し過ぎたらしい。当家の養子となった太郎は、無理に耐えかねたのだ。大旦那様の賽を質に取ろうと謀ったが、失敗した。そして裁かれる直前に御神刀を持ち出し、古井戸の鬼と賽を殺した……そういうことだ。お前はこれだけ知っていれば良い」
重郎は、目の前にいる息子と目を合わせない。声には諦めの音があった。夜も更けた部屋で、壁の時計が鳴る。それからまたしばらく、書斎に静謐の余白が過ぎて
「疲れたな……少し、喋り過ぎた。部屋へ戻りなさい。それと母屋から出るな。わかったな」
命じて立ち上がった重郎が、夜を映す窓辺に向かった。窓の彼方に、昇り始めた月が見える。
話しはこれで終わりだった。
柾樹は挨拶もしないで背を向ける。扉を閉める寸前、後ろの部屋を見ると洋装の背中が佇んでいた。柾樹は父の情というものを、見た覚えが無い。先妻とは睦まじかったと姉は言っていたけれど、信じられなかった。
でももしかすると、柾樹が父への近付き方を知らないように。
父もまた、息子に背の向け方しか知らない人であるのかもしれないと、痩せた背中を見て微かに思った。




