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壁を隔てて

 来たときとは、違う場所を歩いている。

 苔生した巨樹の並ぶ裏庭では、雑多な木々が暗い木陰を地面に落としていた。獣道のようなものが出来ている。外の開発に追われた狐狸や鼬、鶉などが逃げ込んで通っているのだった。


 昼下がりのその細い道を、柾樹は懐手にぶらぶらと歩いている。

 陽射しが少ないので、足元の草はそれほど多くない。上を見たり下を見たり、ついでに時々、伸びた草を蹴飛ばして歩いていた。離れ屋から母屋へと向かい、見つかる気配の無い『探し物』について考えている。


《ここは一度……古道具屋へ引き揚げてはどうだ?》

「そうだな……チョコレートも手に入ったことだし」

 銀縁眼鏡に宿る赤目御前の提案へ、柾樹は大欠伸と一緒に答えた。


 屋敷を抜け出そうかと思って尚、二の足を踏んでいる。父に直接、「屋敷から出るな」と命じられた。出てはいけない理由を、知らされていなかった。尋ねたとして、あの父親が答えるのか。まずどうやって質問すれば良いのか。考えたくない柾樹は作業を投げ出してしまう。


 父の重郎と柾樹の間には、会話が無かった。

 今回の外出禁止に限った話しではない。家での食事も、夜会へ行くときの馬車の中も、お互い喋らない。柾樹の悪戯や放蕩にも、父の対応は嗜めたり嘆いたりではなく命令と無反応だった。男子の教育は父親が率先して行うのが前時代より通例とされたが、源右衛門が担当していたようなものである。


 重郎の他者への態度には、親しみや温かさが流れていなかった。一貫して距離があり、深々と線が引かれている。前妻の千早が例外だったのだ。それに重郎は、ずっと外出続きだった。「重郎様は、せめて妾を囲った方が良い」、「その方が気分転換になる」と周囲に勧められるほど、何はなくとも日々仕事に没頭している。次に顔を合わせるのがいつになるか、わからなかった。つまらない考え事と、お茶とお菓子で中途半端に腹が膨れたせいか、柾樹は頭もぼうっとしていた。


 そのとき。

 眠たくなっていた耳が異音を察知した。薄暗い裏庭を行く、下駄の足が止まる。


「……うん?」

 微かに音のしてくる方向には、敷地を取り囲む板塀があった。


 小さくゴトゴト振動している。屋敷を囲む板塀や壁は高くつくられているため、向こう側は見えなかった。外にいる何者かは、板塀をこじ開けようとしている。柾樹が脱走に使ってきた抜け穴も含め、板を外して開けられる箇所は幾つかあった。けれど、そこは開かないと経験者は知っている。


 こんな所から屋敷へ侵入を試みているので、まずは泥棒を疑う。

 柾樹は黙って高い板塀へ近付き、様子を伺った。泥棒は塀を登る気は無いらしく、ミシミシごとごと、古い板塀を相手に働いている。十秒以上経過しても決着しないため、銀縁眼鏡は更に近付き、ガンッと下駄で蹴飛ばしてやった。


「きゃっ」

 壁の向こうから、小さな悲鳴が聞こえる。女の声だった。逃げていくと思いきや、驚き過ぎたのか動く気配がなかった。


「誰だ?」

 ぶっきらぼうに柾樹は声をかける。すると板塀の向こうにいる女が呼びかけてきた。

「柾樹さん……? 柾樹さんだね?」

 やすのの声かと思った。非常に似ている。だが違う。声に覚えがあった。琥珀色の髪の青年は、無意識に身構える。


「誰だ?」

 半分以上わかっている上で、再び尋ねた。

「『琴』ですよ。おっ母さんよ……! この前、そこで会ったでしょう? 覚えているかい?」

 よしのや、やすのよりも僅かに低い声で女は言う。先日帰ってきたとき、屋敷の近くで会った女。母親の『琴』だった。喜怒哀楽の前に、柾樹は臭いものを避けたいのに似た気分へ陥る。


――――面倒なもんに出くわしちまった。


 まず浮かんだのはそれで、関わる気は起こらない。起こらないので、放置して去ろうとした。

 が、あることを閃いた柾樹は踵を返す。


「本当に?」

 板塀の前へ戻り問いを投げた。

「本当よ! ええ、おっ母さんよ! あなたが五つの頃、この家を出た馬鹿なおっ母さんですよ……ごめんなさい。ごめんなさいね! 今まで惨めな思いをさせて」

 気持ちが昂ぶったのか、声には先ほどにも増して悲哀が篭もっていた。

 名前や別れた年齢などを知っているから、顔は見えないとはいえ信憑性はありそうだと、壁の内側の人は判断する。幼い頃に別れて、それきりだった母。失踪して十年以上経過している。ここで相手を軽蔑する繊細さは無い柾樹だが、今になって言われてもなという感覚はあった。


「悪かったと思ってるのか?」

「もちろんですわ! 許しておくれね、母親らしいこと何もしてやれなくて……!」

 息子の質問に、切なげな答えが返ってくる。息切れしそうな懸命さは、どうしても柾樹に自分を信じてほしいようだった。


「アンタこの前から、うろうろしてるな。今まで何処にいたんだ?」

 息子のこちらはこちらで、向こう側の必死さには頓着せず、関心事から質問する。

「何処って……居場所なんかありませんよ。あてもなく……。ここ何年かは、東海道沿いの小さな尼寺で、ご厄介になっていましてね。縁があって、また帝都へ上ったものですから」

 住処を転々とし暮らしていたらしい琴は、ここへ到るまでの概要を語った。


「何の用で?」

 柾樹は、母が帝都へ戻ってきた理由を尋ねたつもりでいた。

「何というほどじゃないんです。帝都の空気を吸ったらね、ここで暮らした昔を思い出してしまって。そうしたら、おなかを痛めて産んだあなたの顔が見たくてたまらなくなって、ついふらふらと来てしまって」

 琴の中を通過した質問は、化学変化を起こして表れてくる。話しが噛み合っていない印象を受けた。だが、長らく会っていない相手でもある。仕方が無いと柾樹はまた尋ね返した。


「見てどうすんだ?」

 柾樹には物質を視覚として見る、という以外が浮かんでこない。押し黙った琴が、壁の外側で俯いた気配があった。

「わからなくても仕方ありませんわね……。でも、これが親というものなのですよ。顔を見たいに、理由なんぞ無いんです。あの時、道端でお会いできて嬉しかったですわ。すっかりご立派になられて」

 琴の声は震え、詰まり気味になっていく。


「……じゃあ、何でこの家を出て行ったんだ?」

 柾樹は本題を口にした。この点について訊きたいがために、会話に付き合ったようなものである。

「それは……その。た、太郎が。お前の兄さんが昔、井戸へ落ちてしまったでしょう?」

 躊躇いがちに話し始めた琴の声の隙間には、動揺が混じっていた。


「あれは、私のせいなのよ。おっ母さんの粗忽でね……太郎をあんな目に遭わせてしまったの。お爺様に、『こんな愚か者に柾樹は任せられない』と、そう言われてしまったんです。もう身の置き場がなくて、出て行くしかなかったのよ。お屋敷を出てからも、辛くて目が溶けるほど泣いて泣いて泣き暮らして」

 頭を下げている様子が目に浮かぶ口ぶりで、返事があった。そこまで聞いた柾樹は口を開く。


「あの井戸は、昔は木の蓋が載っていたんだよな?」

 急に話しが方向転換した息子に、驚いた母の「え?」という声が微かに重なった。

「ええ、はい。木の蓋が載っておりましたわ」

「開いている井戸なら、他にもあるだろ。自害したけりゃ、他の井戸の方が手っ取り早くねぇか?」

「え? え?」

 何と答えれば良いのかわからないらしく、おろおろした琴の声が返ってくる。


「死ぬ気で外へ飛び出たって良いだろ。蔵を出て、すぐ目の前に古井戸があるわけじゃなし。西の外れの蔵から、わざわざ北の裏庭まで行って、井戸の蓋外して飛び込むのは、おかしくねぇかって言ってんだよ。他の連中は何も思ってないらしいが」

 イライラしながら柾樹は言った。


「井戸浚いもしてねぇ。死体も無い。兄貴が井戸へ落ちたってのは、アンタの証言一つだけだ」

 大山から『事故』の詳細を聞いた最初から、柾樹は引っ掛かっている。

 死亡診断書などは、きっと祖父の力でどうとでも出来た。家中を黙らせる説得力もあった。だが母の唯一の目撃証言が、家の『正史』として採用されているのが、奇妙に思えてならない。それもあの祖父が採用したというのが納得出来ないでいたのである。


「アンタ、何か隠してるだろ?」

 疑る声で続けると、睨んだ壁の向こう側の琴は二、三秒沈黙した。

「あ、あ…………あ、あの……実は……実は、頼まれまして、仕方なく」

「頼まれた? 何を? 誰に?」

 しばらくして震える声で漏れ出てきた言葉の尻尾を逃がさず、柾樹は強い語気で問い質す。


「太郎です」

 一呼吸あって、母はぎりぎり聞き取れる声で言った。

「兄貴に頼まれた? ……何のために?」

「あの子が……没落した士族の姫御世と恋仲になったと、申しましてね」


――――え?


 母のその言葉を聞いた瞬間、柾樹は固まってしまう。息が止まっているうちに、琴の口の方が回り始めた。


「あの子が……太郎がね。『僕は、この家を出て行きます』と言いましてね。私に打ち明けましたのが、破獄の日。会いに行ったら事情を白状しまして、驚きましたわ。大旦那様にお詫びこそすれ、何年もお世話になっておいて、勝手を言うものじゃないよと叱ったのですけれど、聞く耳を持たなかったんです。『心に決めた人がいる。その人と英吉利へ渡ります』と……だからお金が入用だったんですのよ。それで盗みを謀って」

 殆ど呼吸も忘れている柾樹に、板塀の向こうで琴は語る。


「いくら四民平等になったとは申せ、あちらの二親はお許しになりませんでしょうし。大旦那様はお武家嫌い。太郎もわかっていたと思います。それで『もうこの倅はダメだから諦めてください』と。そうは言っても、どうしてくれるのと縋って尋ねましたら、『僕は井戸で死んだことにします。ここで一芝居打ってください』と頼まれたんですの。私も覚悟を決めまして、蔵を開けて雨に紛れたあの子が出て行った後、太郎は裏の井戸へ落ちましたと、大旦那様へ申し上げました。でも大旦那様、たちまち見破ってしまわれて、『この大馬鹿者』と……」


 何かに引っ張られるように出てきた母の話しの大筋は、こうである。

 兄は、かけがえのない恋と引き換えに全てを捨てた。母は責任を負い、家を追われた。祖父と父は琴の大芝居に乗ってやり、太郎の『死』を認めて死んだものとした。家令はじめ他の者達は、十三年も騙され続けて、今に至る。


「こういう次第だったんですのよ。とてもこんな親兄弟の恥を、打ち明けられなかったんです。許してくださいな」

 涙声で懇願されるが、柾樹は否とも応とも声が出なかった。女達の憧れの的だった兄。そういう恋があったとして不思議は無いのだろうけれど、弟は頭がぐらぐらしてくる。


「赤目……外にいる奴は人間か?」

 小さな声で、自らの銀縁眼鏡へ問いかけた。

《何故、左様なことを疑う?》

 赤目御前が聞き返してくる。そこについて柾樹はこれ以上、言及したくない。


「何となくだよッ」

《この前の女だ。外へ出て、会うてみれば良いではないか?》

 小声で怒る金茶頭の青年へ、冷静な口調で赤目御前が答えた。壁の向こうにいるのは、母本人なのだろう。しかし柾樹は腕に鳥肌が立ち、動く気が失せていた。これは何だと考えて、雪輪に初めて会ったときに似ていると気付き、また混乱する。

 琥珀色の髪を振り、無理やり思考を稼動させた。


「それじゃ……兄貴の事件の起こる、少し前だ。古い刀が……石の刀がこの屋敷にあったはずだが、そっちは何か知っているか?」

 気を持ち直し、壁の向こうへ更に別の質問を投げる。

「エ? 『石の刀』? ええ、知っています、知っていますよ。白い石で出来た刀ね。『雲居くもい』のことでしょう?」

 呆気なく、意外なほど明朗に母から返事があった。


「『雲居』? そういう名前だったのか? そいつはどんな刀だった?」

「大旦那様が、『雲居』と仰っていたんですよ。白い石の、重くて古そうな刀でしたわ」

 半歩踏み出して柾樹が重ねた質問に対し、琴の回答はここだけハッキリしていた。


「その刀を持ってきたのは誰だ? どうしてうちにあったんだ?」

 畳み掛けるように柾樹は尋ねる。

 これで御室の里や湾凪家の名称が出れば、『雲居』という刀は『霧降』とみて間違いないと思った。でも琴の声は、また弱々しい鼻声になってしまう。


「知らないんです。嘘じゃないの。そんな詳しいことは、知らされていないんですよ。幸兵衛様は……大旦那様は、いつもお命じになるだけで。私たちは何も教えていただけなかったんです」

 質問への答えは再び化学反応を起こし、言い訳めいた色彩を帯び始めた。柾樹の期待は、落胆へ変わっていく。疲労を感じ、高い塀を見た。


「わかった。もういい」

 外にいる人へ告げ、今度こそ踵を返す。

「あ……あの、待ってくださいましな、柾樹さん! もう一度だけ、この母に会って下さいませんか?」

 立ち去ろうとした柾樹の気配に、勘付いた琴の声が引きとめた。


「屋敷に入れろってのか?」

 止まった足はそのままに、金茶頭は首だけ後ろを見る。正門を避け、こんな裏側から邸内へ入り込もうと苦心していた。母は既に相内家にとって他人である。正面から入り込むのを躊躇われ、このような真似をしたのだろうと柾樹なりに考えて言ったのだった。


「いいえ、違うんです。怒っていますわよね。図々しいのはわかっているんです。情けない母とも、わかっております。名乗る値打ちも無いと承知していますわ。それでも、どうか後生ですから。もう一度だけ会って、『おっ母さん』と呼んでもらえませんか? それだけなのよ」

 琴は訴えかけてくる。世の中では離縁となれば、我が子であろうと二度と会わないのが当然だった。でも柾樹としては、そんな意味深長な意図をもって言ったのではない。


――――呼ばれて、だから何なんだ?


 相手が何を言いたいのか掴めず、訴えを聞いていた。柾樹がこういった叙情に関してほぼ音痴に等しいのも手伝って、戸惑いは深くなっている。


「……もしアンタが、その『雲居』を持ってきたら考えても良い」

 面倒になり、追っ払う口実として無理を吹っかけた。

「そんな、そんな……ごめんなさい、ごめんなさい柾樹さん! 許してちょうだいな!」

 聞こえた声にも振り向かず、裏庭を南へ戻っていく。

 柾樹に責めているつもりはなかったけれど、琴の声は涙で潤んでいた。鬱陶しく感じたが、母屋へ向かって歩きながら「立場上、言い難かったのかな」と考える。


 結局、よくわからない。屋敷へ入りたいのではないというなら、渡してきたあの手紙は何のために書いたのだと思った。そういえば手紙の内容も、誰に何を届けたいのか模糊としていた。喋っている間もそうだった。何を望んでいるのか。求めているのか。欲しいものは何なのか。


 琴の言葉は最初から最後まで、芯のところが抜け落ちていた。

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