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Criminal

 敷地の北に位置する離れ屋の縁側は、いつも通り開け放たれていた。

 簡素で美しい直線の組み合わさった縁側へ、昨夜までの風と雨が秋を運び、飾り気の無い庭は鮮やかな朱色に染まりつつあった。


「やすの」

 軒先に立った柾樹は、奥から姿を現した長姉へ呼びかける。

「まぁ、柾樹さん……!」

 艶やかな黒髪を西洋下巻に結った姉は、足音も密やかに駆け寄ってきた。


「良かった。昨日も柾樹坊ちゃんのお姿が見えないって、女中たちが話していたから心配していたのよ。上がってちょうだいな」

「いや、ここでいい」

 色白の瓜実顔で微笑み、やすのが言う。鼻筋の通った姉の顔を見てから、柾樹は縁側へ腰掛けた。

「あ、今お茶を淹れましょうね。ちょうどお菓子があるの。新九郎さんのお土産なのよ。私にまで気を使ってくだすってね。でもおかしいの、紅葉ちゃんとお揃いのビスケットなのよ?」

 やすのは嬉しそうに喋りながら戸棚を開け、瓶詰めのビスケットを出して見せた。


「チョコレートは、まだあるか?」

 姉の手が持つお菓子の瓶を見て柾樹が訊くと、やすのは笑う。

「チョコレート? ええ、ここにあるわ。ビスケットより、こちらが食べたかった?」

「そうじゃない。でも、それが欲しい」

「あら、そう?」

 小首を傾げつつも、やすのは同じ戸棚の中からチョコレートの入った黄色い缶を取り出した。茶菓子の支度を整え、縁側まで運んでくる。


「やすの。誰か、知り合いが死んだんだってな?」

 柾樹は小皿に乗って出てきた西洋菓子を頬張って尋ねた。

「え?」

「紅葉がな。『田代が死んだ』って聞いたとか言ってたぞ」

 柾樹が目を合わせると、やすのは悩ましげな笑みを覗かせる。


「いやだわ、紅葉ちゃんたら……何か聞き間違えたのね。亡くなったのは『御手洗みたらい』さんという方よ。この新聞にも、名前が載っているわ」

「誰なんだ?」

 銀縁眼鏡の奥から姉を伺い、柾樹は眉を寄せる。ツネキヨが新橋で聞いた、古井戸について女と話していたという男と同じ名前だった。


「軍の請負の仕事でね、最近になって新九郎さんと少し馴染みがあったそうなの。それが急病で亡くなったから、その話しをよしのちゃんとしていたのよ」

「仕事の? 何でよしのが知ってんだ?」

「こう言っちゃ失礼だけど、新九郎さんはノンキ者でしょう。相手がどんな人か、隣でチャンと見張っていないと大変なんですって。よしのちゃんは、お目付け役ってとこかしらね。柾樹さん、それを聞きにここまで?」

 微笑む長姉は金茶色の髪をした弟へ、子ども相手の表情で訊きかえす。


「聞きに来たってほどでもねぇんだけどな」

 お茶を一口飲み、雑木林に近い庭の景色を眺めて柾樹は言った。

「大山に聞いたんだよ。兄貴が裏の井戸に、自分で飛び込んじまったってな」

 首だけ振り向き姉の瞳の奥を見て、すぐに視線は離れる。


「何で今まで、言わなかった?」

 残りのビスケットを平らげて尋ねた柾樹の額に、別段の不機嫌はなかった。やすのは頷き、眉を下げる。


「ごめんなさい。私もよしのちゃんも、お爺様やお父っつぁまに、他言無用と口止めされていたの。それに、きっと源さんから聞いていると思っていたのだけど……」

 総領息子に、黒髪も美しい長姉は申し訳無さそうに詫びた。

 太郎の死は外向きに、『事故』と発表されている。幼い子どもの耳に真相が入れば、どこで漏れるかわからない。そのため伏せられていたと考えれば、柾樹も理解出来なくはなかった。


「それにしても身内のことくらい、言ったっていいじゃねぇか。何で大山からこんな話し聞かなきゃならねぇんだ」

 銀縁眼鏡の青年は、お茶を一気に飲み干して言った。

「大山さんは男で、そんな話しもして良い人よ。大旦那様に信頼されていた家令だもの。私や、よしのちゃんとは別よ」

 やすのは言って、またおっとりと微笑んだ。

うちの娘だろ?」

 養女であろうと、この家の娘には違いない。柾樹の疑問に、姉は首を振った。


「とんでもないわ。勝手な判断は厳禁よ。大旦那様にこうせよと仰せ付けられたら、そうしなければね。何はなくとも、『大旦那様のお指図は間違えるな』、『必ず守れ』と言われてきたのよ。私とよしのちゃんはお嫁に行くとき傷があるといけないから、滅多にお仕置きはなかったけれど……」

 手酷い罰を受けた者もいた。極自然にそう言い、物静かな長姉は膝の上に重ねた指の先を見つめる。


「それにお爺様は、お難しい方だったの。お屋敷へ上がった最初の日も、おっ母さんと兄さんとよしのちゃんと、召し出されて言われたわ。『お前たちは小僧じゃ。そう心得よ』って」

「小僧?」

 尋ねる柾樹の前、やすのはやや憂いに沈む眼差しで笑った。


「ええ。何の労苦も無しに奥様、若様、お嬢様扱いされて、御機嫌を取ってもらえると考えているなら自惚れも甚だしい。この屋敷の中で最も下と思え。働いている下男や女中の方が、偉いくらいだ。お前たちこそ、まず使用人たちに仕える心でいなければ間違いの始まり。家の者たちには平等に接し、姿正しく笑顔であれ。使用人相手でさえそれが出来ないなら、商いの家で暮らすなど不可能。笑い顔一つ作れない者は、墓守の子にでもなれ……ってね」


御大尽に拾われた、人も羨む玉の輿。だが拾った大旦那様は、『小僧』たちを容易く玉の輿に乗せてやる気などさらさら無かった。

 そこまで語り、やすのは白い歯を見せて笑みをこぼす。


「誤解しないでね、柾樹さん。大旦那様の仰ること、一理も二理もあったと思うわ。どぶ板の裏屋から、急にお屋敷暮らしですもの。使用人達の手前もあったでしょうし。あれくらい厳しく釘を刺されなくちゃ、箍が外れて、私も身を持ち崩していたかもしれないわ。おかげさまで、今もこうして七光りも八光りもちょうだいして、ありがたいことよ」

 長姉は身の程を弁え、あっさりと押さえるべきところを押さえて言った。


「それがわかっていても、兄貴は辛抱しきれなかったんだよな?」

 考えてから柾樹は囁く。

「祖父さんのサイコロを盗んで、逃げようとしたんだろ?」

 それを聞いた途端、やすのの瞳が無言のまま黒々と開いた。

「俺が言うのも何だが、いくら雷親父と言ったって、祖父さんも歳が歳で死んだだろ? 後一息辛抱すりゃ良かったんだ。それがわからねぇ兄貴でもなかったと思うんだが、何で早まったんだろうな?」

 幸兵衛もすでに地下の人である。逃げ切れば良かっただけと、柾樹には思われた。


「そうね……太郎兄さんは、辛抱しきれなかったのね。でも、あれは」

 言いかけたやすのは一旦、唾を飲む。

「ごめんなさいね。盗みは事実で、それはわかっているの。でも私は、兄さんを責められなくて」

 普段は優しい声を冷たくし、長姉が強く目を瞑った。

「太郎兄さんの早死にはね……あれは、お父っつぁまが招いたようなものなのよ」

「親父が?」

 俯いていた顔を上げた姉は、キッと鋭い眼差しに変わっている。やすのにしては珍しい表情と、強い語調だった。


「お父っつぁまが、もう少し情け深くしてくださっていたら違っていたでしょうに。いくらさきの奥様が、お大切だったと言っても」

 白魚のような指を握り締め、長姉は唇を引き結んでいた。吐息と共に、日差しの中の弟を見る。

「ごめんなさいね。柾樹さんにとっては実のお父様を、こんな風に言って。でも今だけ許してくださいな。この際ですもの。私の知っていることも、お話ししますわ」

 緊張しているのか、やすのの表情は幾分固くなっていた。


「親父の前の……は、病死だったか? たしか……『千早ちはや』?」

 頭の中の情報を引き出して、柾樹は庇を見上げる。

「ええ、千早様。大層お綺麗な方だったそうよ。大藩の城下町でお育ちの、由緒正しい名家のお嬢様でね。お嫁入りの時には、まだ十六歳。許婚までいらしたそうだけど、お爺様が連れてきたんですって」

 声を抑えたやすのは周囲に人がないか探るように見回して、話し始めた。

 (さき)の奥様。重郎の前妻、千早の実家のかつての身分は、藩の要職をつとめられるほど高かった。まず大旦那様が必要としたものは、その『権威』と『血筋』だった。千早は千両箱で殴るようにして、生まれ故郷や許婚から引き離され重郎と結婚したのである。


「でもね、ご結婚されたお二人は、仲睦まじかったそうよ。お糸の話しだと、千早様が縫った羽織をお父っつぁまがお召しになって、揃ってお出掛けになったり。お食事はいつもご一緒で。お子様は授からなかったわ。千早様がそのことでお爺様に責められていれば、お父っつぁまが庇っていたって」

「あの親父がねぇ?」

 身売り同然で嫁がされた若妻を、重郎は大切にしていたという。それはやがて旧来の権威が失墜し、むしろ足枷となり、千早が『用済み』になって以降も関係なかった。


「その千早様が、悪疫はやりかぜで儚くなられたでしょう。お辛かったのでしょうね。元より無口だったお父っつぁまは、ますますだんまりになってしまって。そこへ持ち込まれてきた後添いが、私達のおっ母さん」

 悲しげに瞼を閉じ、やすのは言う。

 後継者が欲しい幸兵衛にとって、千早は用済みの役立たずだった。しかし倅の重郎は離縁を拒否する。そんな時期に千早は病気で消えた。勿怪の幸いと後釜に据えられたのが、大旦那様がこれもまた独断で拾ってきた芸者上りの琴だった。


「お爺様の目に狂いがなかったとは言ってもね……こんな事情があったから。お爺様とお父っつぁまは、常にピリピリしていたわ。おっ母さんは板挟みで縮こまってる」

 未練たらしいとなじる幸兵衛と、無抵抗と無反応の塊と化し、事務的に後妻とその子どもらを迎えた重郎。後ろ盾も何もない母子達は、極寒の嵐が吹き荒ぶような屋敷の中で暮らしていた。


「生意気を言うようだけれど、人としてのお父っつぁまのお気持ちはわかるのよ。前の奥様の四十九日も明けないうちに、頼んでもいない後妻が運び込まれてくるなんてね。でも、おっ母さんも辛かったでしょうよ。芸者上りで、元より不器用の無作法でしょう。他の上流の方々のお話し相手なんて、とても勤められないわ。人の上に立って号令する奥様勤めや、出入の者の行き渡りも知らない。旦那様にも相手にされない……お屋敷の中で、居心地の悪さを抱えていたのよ」

 明るい縁側で、湿り気を帯びたやすのの声が物憂げに語る。


「それでよく俺が生まれたな?」

 平然と柾樹が言うと、その語で姉は緊張が解けたように小さく苦笑した。

「そうね。でも柾樹さんが生まれてからも、おっ母さんとお父っつぁまは相変わらずだったのよ。おっ母さんは小間物や着物や、芝居だ役者だとお金を注ぎ込んでね。草津や京阪へ旅行も度々……。でも、それもこれも惨めの裏返しよ。着物や振る舞いだけでも、千早様に負けないくらい豪勢になろうとしていたの」

 贅沢をほしいままにし、放蕩に明け暮れたという母に、やすのは理解を示す。


「それでも結局お父っつぁまは、女房にお小言も何も仰らなかった。そしてその分、太郎兄さんには厳しくしなすったの。『お前がしっかりせよ』、『早く一人前になって母に孝行しろ』って。お前のおっ母さんの面倒をみてやる気はないと、そういうことね」

 やすのの目には、淡い影が宿っていた。


「太郎兄さんは、何だってやったのよ。家の作法や、社交の振る舞いを覚えるなんて当たり前。読み書きも殆ど出来なかったところから、和漢の教養も身につけて。でもそれだけじゃ足りないわ。『西洋じゃ馬術が出来なきゃいけない』と言って馬術をさせたり。『外国語を覚えて大旦那様の役に立て』と、何ヶ国語も覚えさせて。年齢を偽って大学へ入って……」

 縁側の麗かな秋の陽射しの下、やすのは訥々と話し続ける。柾樹が兄の偉才として聞いてきた逸話の数々は親の要求であり、それは際限なく増え続けた。太郎は要求されるまま、答え続けたのである。


「それでも、お父っつぁまの望みは天井知らずとでも言うのかしら。一つ出来れば、ハイまた次と出てきて終わらない……あの人にとっては、何もかも『出来て当然』だったのよ」

 ふ、と姉はそこで息を吐いた。

「兄貴も、何でそんな無茶に従ってたんだ?」

「兄さんは、逆らい方なんて知らなかったんだと思うわ……哀れな子だったのよ」

「何だそれ?」

 理解が出来ない弟が金茶色の髪を掻いていると、やすのは僅かに首を振る。

「耐え切れなくなった太郎兄さんは、逃げたい一心で盗みを働いたのよ。おじいさまの賽があったら、追跡されると思ったのではないかしら。おしまいに、逃げる途中であの古井戸へ飛び込んで」

 口中の空気を飲むのと一緒に途切れた、その言葉の先。


「やすの……お前、それ本気で信じてるのか?」

「え?」

 柾樹の発した言葉で、やすのが目を瞬かせる。言った柾樹は、一度口を閉じた。

「兄貴がおふくろと口裏合わせて、女とでも逃げたんじゃねぇのか?」

 違う話しへ摩り替える。それを聞くと、やすのがほろりと笑った。


「そうだったら良かったわね。兄さんにのぼせている娘なら、いくらもいたもの。良家のご令嬢から、下女までね。そこらじゅうで、恋の鞘当ての派手だったこと。どれだけ太郎様の近くに、いたかいないか。恥をかいたの、かかされたの。掴み合いの喧嘩になったり」

「つまらねぇ話しだな」

 兄の色男ぶりを、片方の耳の穴を穿って柾樹は聞き流す。

 有能で才気があり、姿は貴公子並みに美しい八面玲瓏。富商の養子に入りながらその実、不自由で不遇な陰のある身の上。これで妙齢の娘達の目や心を、奪うなという方が無理だろう。


「それにしても、よしのちゃんも変な手紙が来たと言っていたし、気味が悪いわ。変な人がお屋敷の周りをうろついているのは違いないみたいね。またいつかみたいに狼藉者が乗り込んできたら、どうしましょう」

 右手で己の左腕を撫で擦り、やすのが恐ろしげに呟いた。

「ね、柾樹さん。しばらくはお屋敷から出ないで。ここに居て。怖くて仕方ないの」

 そう言って、長姉は拝むように覗き込む。しかしすでに庭の彼方を見ていた柾樹は

「そうもいかねぇんだよ」

言うなり、チョコレートの缶詰を持って腰を上げた。やすのの手が、慌てた風に追いすがる。


「ま、柾樹さん待って! お願いですから、ちゃんとお屋敷うちに居てちょうだいな。大山さんも不思議がっていたわ。一体何を探しているの?」

 坊ちゃんが広大な敷地内を一人で回遊しているのは、屋敷の誰も彼もが知っている。しかし言えるはずもない。狐狸化物が探せと囁く『依代ソレ』を、本当に本音で探したいのかも柾樹にはわからなかった。

 白昼の妄想を追い払い、銀縁眼鏡の青年は振り返る。


「俺もわかんねぇよ」

 不機嫌な表情と口調で言い、立ち去った。

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