風の伝
与八郎は相内屋敷の門番なので、主に屋敷の門やその周辺にいる。
この時はたまたま用事を言いつけられ、母屋へ来ていた。そして台所の近くを通りかかったところで、女中頭のお糸に声をかけられたのである。
「与八郎もお食べ」
初老の女中頭はそう言って、菓子を勧めてくれた。
瀬戸物の青い大皿には、好きなだけ取れと盛られた豆や紅梅焼、饅頭などが積んである。午後の広い台所にはお糸の他に、お吉、お美濃、お勢と女中達が集まっていた。
「うん」
ちょうど腹も減っている。与八郎は四角い顔で頷き、小ぶりな饅頭を幾つか鷲掴みした。敷居に腰掛け、いただきますと言って食べ始める。休憩中の女中達は、菓子とお茶とを口へ入れる作業と平行して、世間の噂から流行の小説まで賑やかに、姦しく語らっていた。与八郎は参加するでもなく、音として聞いている。
「それにしても、柾樹坊ちゃんは、何をしていらっしゃるんだろうね?」
出してもらったお茶を与八郎が飲んでいるとき、そう言い出したのはお吉だった。太腹の陽気な女で、芝居や落とし話まで上手に聞かせるので、大体いつも女達の中心にいる。
「お蔵を三つとも開けさせて、覗いていらしたそうだよ。倉庫も見て回っていたって」
「何のために?」
「理由なんか仰らない。わからないから、三太夫が参ってるんじゃないの」
「それからね、何度も裏庭をぐるぐるお散歩しているんだよ」
お美濃も、お勢も話しに乗り始めた。女中達の話題は、駿河台の屋敷へ戻ってきて以来、総領様が一人で謎の行動をしている件へと移っていく。
「やすの様と、お会いになっているんじゃないの?」
豆を頬張り、女中頭のお糸が言った。
「それと知れて、よしの様のご機嫌が悪くならなきゃいいね」
「柾樹坊ちゃんが離れ屋へ行くと、姉さま方が叱られるっていう?」
「ああ、アレかい? 旦那様に叱られるなんて、嘘の皮だよ。大旦那様がいらした頃なら別だけど」
菓子を食う女たちが気にしているのは、長姉と弟の接触や、旦那様である重郎にそれが知られるといったことではない。次姉のよしのが不機嫌になり、自分達が八つ当たりされるという実害の点だった。
「新九郎様がお帰りになっているもの、心配ないさ。若奥様はでれでれの恵比須顔だよ」
「ほんに大事大事の、見とも無いほど睦まじくてねぇ」
「それにしても西洋風てのは、どうしてお召し物からお食事から、夫婦のやり方までバタ臭いんだろうね?」
「まぁ重郎様と『後の奥様』が、喧嘩もなさらないほど冷たかったのよりは良いだろうさ」
「『前の奥様』に、張り合おうなんてなすったのが間違いだったんだよ。出来るわけがないのに」
女中達の会話の応酬は早過ぎて、門番青年は追いつけないでいた。
「よしの様もほどほどになさらないと、新九郎様のお愛想も尽きてしまうんじゃないのかねぇ」
「紅葉お嬢ちゃまが、柾樹坊ちゃんに懐いているのも気に食わないって、小娘じゃあるまいし」
「あれで正義だ権利だ開明だと言われたってね」
「やすの様を引っ張って、東洋風を開明させようとしていた時期もあったじゃないの」
「お子様が生まれて、お侠も少しは落ち着くかと思ったけど」
「お里が知れるとは、よく言ったもんだ」
元は芸者の連れ子で父親も不明の若奥様の鼻ッ張りに、女中達は笑いを含んで言う。よしのの西洋風がきついのは、家中でも鼻を摘まれていた。与八郎は興味もないため、聞いていないふりをしている。ただ、幼い紅葉が大好きな母親と自慢の叔父の間で、板挟みになっているのは少し気になっていた。柾樹が脱走するたびに、「兄さまがいなくなっちゃう」と、小さいお嬢様は心配している。
そこだけは可哀想だな、とは門番青年も思っていた。
「与八郎は柾樹坊ちゃんのこと、何か聞いているかい?」
「いや、何も」
お吉に言われても、実際に何も知らない与八郎は寡黙に答え、二個目の饅頭を食べ始める。
「幾つになられてもわからないよ、あの坊ちゃんも……」
「仕方ないさ、癇癪持ちの小鬼様だ」
「何でも言うなりに通る我侭でお育ちになると、終いにはああなるんだねぇ」
「相変わらず、口もきいて下さらないもの」
「ああ、とか、うん、とか、それだけで」
「懲りずにお諌めしてるのなんて、大山さんくらいでしょうよ」
ぺちゃくちゃと『小鬼の坊ちゃん』の話に戻り、更に女中達の口車が回る。
「あたしもね、この前柾樹坊ちゃんが酔ってお帰りになったときだよ。お座敷で寝ていらしたから、お風邪を召しますよと、小抱巻と枕を出して申し上げたんだ。そうしたら『うるせえ!』と反対にどやされて。せっかく心配して差し上げたのに」
不満げに、年若いお美濃が鼻ぺちゃの顔で口を尖らせた。女中達は額を寄せ合う。
「何がお気に召さなかったのかね?」
「お人嫌いなんだよ」
「まずあたしらなんぞ、芋か南瓜が並んでいるとしか思っていらっしゃらないさ」
お吉がおどけるから、他の三人も笑う。
柾樹がべらぼうな面食いだとは、屋敷内の常識だった。坊ちゃんの姉達は、古風ながらも美しい瓜実顔である。瓜実に芋に南瓜と、八百屋のようだと考える傍ら、門番は三個目の饅頭を齧った。
「だけど、お前さんたちも気をつけるんだよ。柾樹坊ちゃんは、こちらの顔と名前と仕事はきっちり覚えていらっしゃるんだから。やっぱりそこは、あの大旦那様のお孫様なだけあるよ」
女中頭が、これまでよりも声を落として釘を刺す。
「柾樹坊ちゃんが食堂の椅子にお掛けになっているのを見ると、大旦那様がお帰りになったような気がするのは、そのせいかね」
「背が高くて、全体のお姿は似ていらっしゃらないけど」
「ちらっとこっちを見られたら、何か粗相を叱られやしないかと、恐ろしいったら」
女中三人はお互いの顔を見て、囁いていた。
与八郎は爵家の食堂に入った経験が無いため、想像はつかない。食事は屋敷の台所でも調理されるが、有名な料理屋から御膳籠を運ばせることもあると聞いて知っている程度の知識だった。でも食べる側も給仕する側も、楽しい時間ではなさそうだというのは察しがつく。
「太郎様がいらした頃は良かったねぇ……」
お勢が切なげな溜息をつき、目を伏せた。
「お優しくて、お話しは楽しいし。仲働きにまで、何かとお声をかけてくだすってさ」
「ねえ、お糸さん? 太郎様は大層ご器量が良かったと聞いたけど、そうだったの?」
話題の故人と直接会っていないお美濃が尋ねれば、女中頭が大きく頷く。
「そうとも、光る君とはあの方のことだったね」
「いいなぁ、一度お目にかかってみたかった……」
「太郎様がさ、あたしが新年着が無いと零したのを、覚えていてくださったのは今も忘れられないよ。奥様お召し下ろしの本結城を、そっと遣わしてくださって」
「アンタは自分が目をかけて頂いたと、得意になっていたものね」
お糸に軽くからかわれたお勢は、何ともいえない表情になる。
「あの頃は、あたしだってまだ年頃の娘だったんだ」
「あいよ、恋に身分の上下無しだ」
言い返したお勢の背中を、お吉が優しくぽんと叩いた。太郎様に着物を貰った思い出は、お勢にとって甘酸っぱい記憶でもあるのだろう。
「下女のお勝どんまで、太郎様の亡くなられたのが辛さに病になって、里へ下がったくらいだもの」
「この世に神も仏もありゃしないってね。あのご不幸から、もう十年以上か。嘘みたいだよ」
「そもそもの切欠は太郎さまの盗みだったというけど、本当なのかねぇ? あたしは未だに信じられなくてさ」
「そうだったとしても、きっと悪い魔が差しただけだったろうよ。誰しも人生に一度や二度、しくじる時はあるじゃないの。それを大旦那様が、あんな厳しいお仕置きをなすったから……」
「柾樹坊ちゃんがどんな悪戯も咎められないのと比べたら、かえってお気の毒なくらいだよ」
「何度思い返しても、ほんに惜しい、お可哀想な方だったねぇ」
太郎の事故について語る女中達の声が沈み、重くなった。与八郎は、その方と会ったことが無い。古井戸へ間違えて転落し、亡くなられたと知っているだけだった。
「呼ばれたんだよ、『人食いの井戸』にさ」
「美しいお方ほど、天魔に魅入られて攫われてしまうんだね」
「古井戸が砂で埋まったりもしたもんねぇ……あんな不思議が、新しくなった世の中でも起こるなんて、思ってもいなかったよ」
「何もかも、儚いお伽噺みたいなお方だったさ」
まるで昨日の事の如く、昔話が続く。お糸達にとっては、昨日に等しいのかもしれなかった。与八郎一人が、同じ話の繰り返しにちょっとうんざりしている。
相内家の屋敷内で働く使用人は、太郎がいた頃と殆ど入れ替わっていなかった。外の事業や仕事は別として、大旦那様が屋敷の奉公人を替えるのを嫌ったという。空気は親しさゆえに濃密で、必然として風通しも悪かった。門番という、外と近い位置にいる与八郎さえそう感じる。
「おお、与八郎。こんな所にいたのか?」
と、台所の裏口から、黒の半纏に手綱染めの帯を締めた男が顔を出す。馬丁の日野だった。三十年前は中間だったという男は、馬を扱える特技により馬丁となりここで飯を食っていた。
「いいじゃないの、日野さん。饅頭くらい食べさせておやりよ」
「そうだよ、与八郎はまだまだ食べ盛りなんだから」
「こいつはこれ以上、デカくならなくていいんだ。それに門番が、長々と門を離れてどうする。親父さんが大変だろう」
与八郎を庇う女中達に言われても、小柄な男は蝿を追い払うみたいに手を振り相手にしない。台所で饅頭を頬張っていた門番は、気付けばだいぶ長いこと持ち場を離れて油を売っていた。
「今日は特別なお客様も無いし、良いでしょうよ?」
「門番はそういうもんじゃないんだ。賊が襲ってきたら、次郎だけじゃ話しにならないぞ。全く、大旦那様がいらした頃は、こんなナマケは無かったのに」
お吉がまだ紅梅焼をぼりぼりやっているのを見て、日野は渋い顔をする。お美濃が笑った。
「もしまた賊が入ったって、柾樹坊ちゃんがおいでになるんだから大丈夫よ。そうでしょ、お糸さん?」
「やめておくれ。さぁ、あたしたちももう一働きだよ」
潮時と思っていたのだろう。女中頭は言って、手を叩いた。
今のお美濃の言には由来があって、与八郎も現場を目撃している。
去年の暮れ頃だった。
壮士崩れのゴロツキが五人、屋敷へ乗り込もうとしたのである。計画的な連中ではなく、酒の席で激論した勢いで、「不埒な富豪を成敗してやれ」と突撃してきた手合いだった。あわよくば酒代くらい巻き上げる気だったらしい。
警察へ報せが行ったが、門前で屋敷の者達と壮士連中が、押し合い圧し合いしていた。
そこへ、学校から帰ってきた柾樹が通りかかったのである。壮士達は横を通り過ぎる若者が、跡取り息子と思っていなかった。
屋敷へ入れろ、ここで一番偉い奴を出せと、騒ぎ立てていたのである。
――――何だ?
尋ねた坊ちゃんへ、遠巻きに様子を見ていた女中頭のお糸は青い顔で、賊でございます危のうございますと言った。振り向いた柾樹は男達を見ていたが、やがて
――――貸せ。
と言い、すぐ近くにいた下男から竹箒を奪った。
まさかそれで殴り合うのかと、誰もが思った。相手は刃物を持っている。拳銃もあるかもしれない。怪我でもさせてはと、止めようとした。
そうしたら柾樹は竹箒を、賊へ向かって投げつけたのである。矢となって飛んだ箒は一人の後頭部に命中し、他三人も巻き込まれて地面に転がった。一同、水を打ったように静かになる。大人しくなった五人のうち四人は御用となり、頭に箒が命中した一人はその前に病院へ行った。後に彼らがどうなったかは、伝え聞いていない。
騒ぎが決着する前に、柾樹は現場からいなくなってしまった。顛末に興味は無かったのだろう。屋敷の人々は、箒一本で賊がやっつけられたと喜ぶよりも戦慄した。幼い頃より、だいぶ大人しくなられたと思っていた小鬼の坊ちゃんが、もっと恐ろしい何かになっていたのを目の当たりにしたのである。
柾樹は何を凶器にし、どのくらいの力加減や角度で用いれば相手にとって手酷いことになるか、ほぼ直感でわかるようなのだ。しかもその通りに扱えた。与八郎は万が一、柾樹と喧嘩をしても自分は勝てないと見ている。外見は与八郎の方が大柄で筋骨逞しく、自身も己を強い男の方へ分類していた。柾樹はと言えば、特別な筋肉質でもない。眼鏡をかけ、あやとりをしている姿は、喧嘩などしそうに見えなかった。もう少し肌が白くて口調も正しければ、子爵家の令息らしくなる。
でもこの坊ちゃんは、実力行使という爆発へ至るまでの導火線が短かった。与八郎はもし厄介が起きても、出来れば相手も自分も被害は最小限におさめたいと考える。けれど柾樹の頭に、そういった思考があるかどうか。
自分が邪魔と感じれば排除する。それだけに見える。
何より喧嘩慣れしている以上に、動きが尋常ではなかった。よしのの憎まれ口のとおり、『ケダモノ』染みている。戦いに力はいらぬ、という侍の話しを思い出した。
「ご馳走様でした」
お茶を喉に流し込んだ後、門番青年は声低く挨拶する。
そう何度もゴロツキは来ないだろうけれど、自身の持ち場へ戻って行った。




