片恋
人力車を降りると、よしのは足早に家へ駆け込んだ。
婦人慈善会から引き揚げるのが遅れた。昔馴染みの人に確かめなければならないことがあり、話し込んでいるうちにこんな時間になってしまった。時計は四時を回っている。
長旅で疲れているだろうにと夫を思い、急いで吾妻コートを脱いだ。しかし家の中に夫と娘の姿がない。女中に尋ねると、紅葉お嬢様が洋館の方へ新九郎様を引っ張っていきましたという。それだけ聞いて、若奥様はぴんときた。
柾樹が、バイオリンを弾いたに違いない。
母屋は遠いので、よしのも夫も誰も聞こえないのだが、紅葉はあの甘やかな楽器の音が聞こえるらしかった。口調から脱走癖まで、叔父の真似をしたがる一人娘は花に吸い寄せられる蝶みたいで、母親のよしのが監視していないと毎度こうなる。
蘇芳色のお召しに繻珍の丸帯を替えもせず、離れ屋から急いで母屋へ向かおうとした。ダイヤモンドの指輪が輝く手で、すらりと襖を開ける。と、折り良く戻ってきた新九郎と紅葉が廊下の向こうから現れた。
「あ、おっ母さまお帰りなさい!」
嬉しくて嬉しくて、といった顔で紅葉が駆け寄ってくる。出陣するつもりだったよしのは、「あら」と拍子抜けた。思いきり飛びついてきた娘を抱きとめる。
「ただいま。新九郎さん、お帰りなさいましな」
「うん、おかえり。よしのさん」
夫の元気そうな姿を見て、よしのが口元を綻ばせると紅葉が尋ねた。
「ねぇ、おっ母さま。おっ母さまのお兄さまって、ごらくいんだったの?」
「……え?」
瞬間、よしのは脳髄が凍りついたような感覚に陥る。
「あ、はは……さっき柾樹君に会ったんだ。それで太郎兄さんの話しを、少しばかりしたものだから」
新九郎は弱り気に笑っている。円らな目は、少し心配そうに妻の様子を伺っていた。若奥様は気を持ち直し、赤いリボンの乗った細くて柔らかな黒髪を撫でる。「良いこと、紅葉?」と話し始めた。
「ご落胤とは違うわね。でも、そんなのじゃなくたって偉かったわ。おっ母さまの大事な兄さんよ」
笑うのは無理でも、よしのは出来る限り冷静を保ち母として答えた。話しながら、紅葉の丸い頬をくすぐる。幼い娘がくすぐったそうに笑う様を見るうち、皮膚へ貼りついた寒気は静かに離れていった。
「じゃあね! じゃあね! お父っつぁまと、どっちがたくさんお勉強していたの?」
母を見上げた紅葉は、また首を傾げる。
「へ? お勉強?」
「お父っつぁまもケッコンしたとき、おっ母さまが恥ずかしがるから、紳士になるお稽古したって!」
何の話しか考えた。一時の間があって、よしのの顔色が一気に変わる。赤い方へ。
「あなた!?」
「えー、いや、その」
「え、ちょっと、まさか柾樹にまでそんな話ししなすったんじゃ……!?」
「あー、まぁ、うん。それじゃ紅葉。宿題をしてこようか?」
「はあーい!」
妻に叱られた新九郎は、そそくさと娘を伴いその場を離れて行く。
よしのは大体予想がついて、項垂れた。母屋へ行って柾樹に会って、夫婦の『新婚時代』について夫が口を滑らせたのだ。最悪の相手に弱みを握られた気分で、多少の落胆と共に自室へ向かおうとした。そこへ、忍び笑いが聞こえてくる。
「お帰りなさい、よしのちゃん。雨の中大変だったでしょう?」
よしのの片割れ、双子の姉のやすのだった。お納戸色の着物に、よしのと瓜二つの白い顔。とろんとした目が微笑んで話しかけてきた。双子とはいえ、これだけ似ているのは珍しいのではと驚かれるが、当人たちはあまり似ていると思っていない。
「姉さん、起きて大丈夫なの?」
姉の出迎えに、よしのは慌てた。心配する妹へ、やすのが苦笑する。
「少し頭が痛かっただけよ。よしのちゃんこそ顔色が悪いわ。それで、どうだったの?」
尋ね返すやすのの黒髪は結い方も少しゆるんで、うなじには後れ毛が垂れている。よしのは自分でもわからないほどのホンの一瞬、答えに窮した。
「ええ、あちらにも『出た』そうよ」
やや掠れた声でよしのが言うと、やすのも唇から僅かに吐息を洩らす。
「そう、困ったものね」
「それと、外務省の高階の奥様のお話しだと、アレは英吉利へ逃げたそうよ」
「英吉利? まぁずいぶんと遠くまで逃げたものねぇ」
「ちょうど辞令が出ていたらしいわ。一週間前に発ったそうよ。帝都に居ても、生きた心地がしなかったんでしょうよ」
「いよいよ『御手洗』さんは、鬼に見つかったようなものだったわね。お気の毒だこと。それじゃ、もし柾樹さんに聞かれたら、私が話しておく?」
「ええ、お願い」
「よしのちゃんが話してみたら?」
「冗談じゃないわ」
悪戯に笑って言うやすのへ、よしのは大真面目の苦い顔で返した。
「でも、心配だったんでしょう?」
雨の中を誰に頼まれるでもなく走り回ってきた妹へ、姉は囁く。
「柾樹に厄介へ首を突っ込まれたくないのよ。迷惑を被るのは、いつだってこっちだもの」
よしのは、目つきを険しくして答えた。
「言っておきますけどね、姉さん。私は小さい頃にあいつにお茶碗割られたり、お清書を滅茶苦茶にされたこと、今も許してないんだから。どうせあちらは忘れてるでしょうけど!」
男勝りに腕を組み、よしのは胸を張って言う。
あれは大事な『おばさん』に貰った可愛い茶碗だった。しかしその茶碗を割られたとき、物を粗末にしたと叱られたのは、よしのだった。風呂場の水が一滴ずつ落ちてくる場所で、一晩中座らされた。理不尽な折檻を命じたのは、柾樹ではない。大旦那様である。だから大旦那様に殴りかかるべきだったが、それは出来なかった。
「だけど柾樹さんも不憫よ。よしのちゃんも、そう思わなかった?」
「……まぁね。少しはね」
やすのに言われ、よしのも渋々頷く。微妙な心境の変化は今までの姉の支えと、よしのが結婚し子供を持ったことも影響していた。そして、今日あったある人との邂逅も。
「姉さん」
部屋の方へ立ち去りかけたやすのへ、よしのはまた呼びかけた。目は振り返った姉ではなく、暗い廊下の先を見つめている。屋根を打つ雨音が屋内に響いていた。
「あの日も雨だったわね」
湿った薄暗い廊下で、よしのは呟く。
「そうね」
姉から静かに肯定が返ってきた。この姉妹の間では、これだけで意味がわかる。
「もっとひどい夕立だったけど……。あのとき私は明石町の教会へ出かけていて。爺様には耶蘇の尼寺に入るのかと、嫌味も言われたもんだったわね」
当時を思い返しながら、よしのは言った。
兄の太郎が死んだ日。よしのは外出していた。
母屋へ勝手に入ってはならない代わり、外へ出る自由は比較的与えられていたのである。『奥様』とは家の奥を取り仕切り、優雅に清らかに暮らすのが東洋の範とされた。だがよしのは西洋の貴婦人を目指すと公言し、口実を作っては外界へ逃れていたのである。たとえ幸兵衛の指図で飯を捨てられても、負けるものかと外へ出ていた。
「胸騒ぎがしたのよ。雨の中を帰ってきたら、太郎兄さんが事故だと大騒ぎになっていて、事情を尋ねても人によって話しが違うし……」
よしのが帰ったとき、屋敷の中は大混乱になっていた。情報が錯綜し、誰が何を言っているのかわからない。黄昏の空は一面黒雲に覆われ雷が轟き、地面が白く煙るほど強い雨が降っていた。
「そうしたら、お爺様とお父っつぁまに呼ばれたのよ。その時には兄さんが井戸へ落ちたらしいっていうところまでは、私もわかっていた。てっきり病院へ行くと思っていたら、爺様が『太郎が死んだ』って……。『おっ母さんは自分を責めて、奥で喪に服してる』って。お前も部屋に篭もっていろって」
「そうだったわね」
妹が連ねる言葉に、姉もまた同意を示して頷く。
「死んだの一言でおしまい……何よそれ? 目の前が真っ暗になったわ。それでも、私は怖くて何も言えなかった。頭を空っぽにして、引き下がって言いなりになっているしかなかったわ」
思い出すだけで、よしのの肌に粟粒が立った。
あの日までは、よしのなりに抵抗し、大旦那様と渡り合っているつもりだった。しかし本気で激怒している絶対者に、憤怒の形相で睨みつけられた少女は沈黙するしかない。所詮は大旦那様のお情けで養われている存在。圧倒的な力の差を前に、よしのは己が如何に無力で小さいかを叩きつけられた。
「どうして兄さんが、あんなことになったのかしら。何でもっと早く、気付いてやれなかったのかしらね」
妹娘は、秋の雨で冷たくなった指先を握り締めて言う。
十三歳の少女だったよしのに、兄は大人に見えた。
離れ屋暮らしとなった妹達と違い、太郎は母屋で暮らしていたため、生活の距離が遠くなったのもあるだろう。仕立て下ろしの燕尾服に身を包み、馬車で出かけていく太郎の姿を眺め、何と立派な兄様かと惚れぼれしたものだった。太郎は評判も上々。誰もが「お家を継ぐのは太郎様だ」と噂も高い。だからいつか、賢い兄さんが意地悪な爺様をやっつけて、自分たちをも助けてくれると思っていた。
しかし今になってみれば、兄は現在の弟と同年齢である。無理をしていたのだろうと、よしのの胸は考えるだに塞がった。兄は『賽盗み』の暴挙に出るほど追い詰められ、大人になりきる前に、古井戸へ消えてしまった。
残された妹が過ぎた日の記憶に沈んでいると、「よしのちゃん」とやすのが声をかけた。
「立ち話は、これくらいにしましょう。お茶の支度をさせておいたわ。私も休むから、よしのちゃんも一休みしてちょうだい」
遮断というよりは、気遣い促す柔らかさで言う。自分で喋り出しておいて、話しているうちによしのは気が滅入ってきていた。物静かな姉は、妹の精神状態に先に気付いてくれたのだろう。
「ええ……そうね。そうするわ」
頷き合ってから、やすのが去って行った廊下とは反対の方角へ歩き始めた。
――――しっかりしなきゃ。
そうして自室で服を替えた後、居間へ行ったよしのは気がゆるんだのである。
「あなた、どうしてあんな話しをなすったんです?」
そこにいた夫へ、小難しい顔で詰問してしまった。でも新婚時代の秘密を娘と弟へ暴露してしまった夫は、小卓の上へ新聞を置いて笑っている。
「いや、すまんすまん。実は、今日は柾樹君の方から話しかけてくれたんだ。珍しいだろう?」
新九郎は葉巻を手に、にこにこしていた。
「今までは僕と会っても、知らん顔だったじゃないか。声をかけても素っ気無かったのが、今日は色々と尋ねてくれるものだから、『これは頼られているぞ!』と……」
得意満面といった笑顔を小卓の向こうに見て、よしのは再び溜息をついた。
一人っ子の新九郎は結婚当初、『弟』を喜んでいた。でも弟は豪勢な屋敷より狭い長屋門が好きな上、殆ど邸内にいない。新九郎も仕事で忙しく、よしのが行動を共にしているのもあり弟とは没交渉に近かった。それで喜んで、いらぬことまで話してしまったのだろう。
夫の穏やかな声を心地よく聞きながら、よしのは女中が淹れてきた紅茶を一口飲んだ。身体の芯が温まり、生き返った心地がする。
「それに……」
葉巻の火を灰に揉み消す新九郎が、呟いた。
「どうなすったの?」
「柾樹君は、恋でもしているのかと思ってね」
発せられた言で、よしのは飲みかけていた紅茶を吹いた。
「はい!? あれが!? アイツが!?」
「よしのさん落ち着いて。君のそんな顔も愛しいが」
音も騒々しく茶器を小卓へ置いた妻を楽しそうに見て、関取の夫は手で抑える仕草をする。
「粋な遊びが出来るわけじゃなし! 狂歌も、詩のひとつも出ない野暮書生ですのよ!?」
「厳しいなぁ。それでも吉原の格子先にいるだけで、廓の中から花の手が伸びてくるそうじゃないか」
笑う新九郎を前に、置屋で暮らした経験もあるよしのは首を振る。
いつぞや総領息子を探しに行った大山の話しを、よしのも聞いて知っていた。赤い格子から伸びた艶かしく白い花々の手が、柾樹の手や首筋に何本も絡みついていたそうである。
「向こうに顔を知られているんですよ……源さんが悪いのよ。箱入り息子を、外へ出してくれたのは良いとして」
百戦錬磨の廓の女たちが欲しいのは、御大尽の息子というより、その財布だった。
「へえ? 柾樹君は箱入り息子だったのかい?」
今や家出してばかりの義弟が『箱入り』だったと聞くと、新九郎は面白そうに笑う。
「ええ。大事な跡取りですもの。大旦那様が囲い込んで、外へ出さなかったの。それで柾樹が世間知らずの、デタラメになったと思っていましたけど。今となっては、お爺様の慧眼だったかしら?」
よしのは溜息も出なくなった。
箱入りだった坊ちゃんを、芝居小屋や『物言う花』の花園へ連れて行き、外界を教えたのは門番の源右衛門だった。しかし大旦那様から特別扱いされていた人は、そちら方面も存分に教えた。結局自分が楽しみたかっただけなのではと、よしのは多少疑っている。
「うーん、しかしそういう白粉くさい方じゃないような」
「それならもっとありゃしませんよ!」
言いかけた新九郎に、妻は勢い込んで言い返してしまった。
「お笑い種ですよ。恋なんて世界で一等遠い言葉ですわ! まず惚れた相手の一人もいたら、少しくらいのぼせたり浮かれたりするでしょう? もっと身形にだって気を配りそうなもんです。会いたくって気になって、家で暇を持て余してなんかいられないわ!」
雄弁滔々、捲くし立てる。が
「では今日の君が、大急ぎで帰って来たのも、僕に会うためだったと考えて良いだろうか?」
大きな身体を乗り出した新九郎が正面きって言うから、止まってしまった。よしのはこんな場合に「まぁ、あなたったら!」と笑える率直さが、頭のどの引き出しにも入っていない。
「え、ええ……あの、ハイ……エエ」
「僕は果報者だ。こんなことなら、もっと土産を買ってくれば良かった」
明るい新九郎を前に、耳が朱になるに任せて西山家の若奥様は下を向いた。ぬるい紅茶を飲む動作で、顔を隠す。開明を自任していた妻もたじろぐほど、この夫は新しい時代の夫婦観と相性の良い人だった。新九郎との縁を運んでくれた一点のみは、大旦那様に感謝しなければならないと、よしのも認めている。
結婚するまでは、西洋の恋物語を片手に姉へ大演説していた。
――姉さん私はね、私だけを見て、私の前に跪いて、私一人に何もかも捧げてくれる、そういう旦那じゃなくっちゃ結婚なんてしないわよ! だってここに書いてあるこれが本物なんだもの! 爺様の思惑通りになんか、なってやるもんですか。こちとら置屋育ちよ? こんな家そのうち出てやるわ! 苦労だって何だって、へっちゃらよ!――
誰かに必要とされるとは、強さとはそういうことだと思っていたのである。
恋は遊興で、結婚は市井の女の仕事だった。こういった従来の価値観へ、新時代に流れ込んできた異文化が変化をもたらした。運命の恋、愛し合う二人、健全な家庭。これらがゆくゆくは社会を幸福たらしめる。この新しく眩しい神話に、よしのは憧れた。
必死だったのかもしれないと、今では思う。
御大尽の後添えに入ると母に聞かされたとき。『父』が出来ると知り、幼いよしのは小さな胸を高鳴らせた。だが父親となった人には初めて会うなり、凍りついた目で「離れ屋へ入れ」と命じられた。後に、お屋敷には美しくて可哀想な『前の奥様』がいたと知った。
『不用品であるがゆえ、離れ屋という物置へ放り込まれた』
少女は惨めな信仰を抱えて生きていた。何につけても、総領様の弟が優先される。更に兄が死に、母は姿を消した。常によしのの耳の後ろあたりで寒々しい真実が蒼い顔をし、お前などいらないから物置にでも入っていろと呟いている。振り切るため、誰かの唯一無二になりたかった。
これが新九郎と出会い、覆ってしまったのである。自分にどれほど構ってくれるか、話しや言うことをきいてくれるかなど、どうでも良い。ただ傍にいたい、声を聞くと安らぐ人を初めて知った。
最初の頃のよしのは、どうしたら良いのかわからなかったのである。そして何年経っても、淑やかで可憐な妻女にはなれそうもない。夫が蔑ろにされたと思い感情が昂ぶると、弟は言わずもがな、父の重郎にまで食ってかかりに行ってしまう。それでも新九郎は人の好さと、持ち前の調停能力で間に入り事態を収め、懲りずに妻に付き合ってくれていた。
だから自分の片想いだと、よしのは感じている。大らかで温かな夫を間に挟み、たまに娘の紅葉とまで恋敵みたいになってしまう。全部がうまくいっているとは言わずとも、楽しくもあり悲しくもなる日々は、よしのを幸せにし、苦しめてもいた。
「でも、あなたもどうして急に、恋だなんて考えたんです?」
今や大家の若奥様となった芸者の連れ子は、夫へ尋ねる。
「バイオリンの音がね」
雨の降り止まない窓の外を見る新九郎の口が、微笑を帯びた。
「『うまくいかない、うまくいかない』……と、嘆いているように聞こえた」
柾樹のバイオリンを耳にした新九郎は、独特の感性の鋭さで感じ取ったものがあったのだろう。でも新九郎の言うとおりならば、柾樹の片恋だった。見た目は大きくなっても、身勝手で無神経な小鬼の弟。
「ええ……? バイオリンが下手なだけじゃないかしら?」
夫を否定するつもりはないけれど、よしのには到底、信じられなかった。




