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兄と弟

 屋敷に繋がれて三日。柾樹は洋館で、バイオリンを弾いていた。音の無い秋雨の雫が、窓硝子を濡らしている。自室で弾いても良いのだが、洋館の大広間で弾く方が響きが良く感じる。そのためバイオリンを弾くのは、いつも決まってここだった。


「うまくいかねぇもんだな」

 ピアノの上で楽譜を捲り、独り言を洩らす。

 水中のように静かな部屋でバイオリンを弾く傍ら、『探し物』について考えていた。


 古井戸の神刀『霧降』を、元に戻そうとしている。そのためには、『魂ふり』をしなければならないと狐は言った。これには『依代』とやらが必要で、しかも条件は古くて丈夫で神憑りの依代と成り得る、刀に近い形の物だというのである。そんな棒切れは、道にごろごろ転がっていなかった。それで頭を悩ませている。


「数鹿流堂に行きゃ、あったりするかな……?」

 両国にある、ガラクタ屋敷を思い浮かべた。

 手当たり次第に物が集められている古道具。あの古道具の山を漁れば、相応しい品が見つかるかもしれない。でも手ぶらで古道具屋へ帰るのも悔しい。小鬼の坊ちゃんは一息吐くと、またバイオリンを奏で始めた。


 弾いているのは、先の嵐の晩に弾いた『クワジ・プレスト』。

 バイオリンの弓と弦も直したので、再現を試みている。だが、どうしても上手く弾けなかった。あのときだけ何故あんなに弾けたのだと、柾樹は自分が薄気味悪い。技の巧緻や、弾く速度、曲の規則や理解といった説明で収まらない。まず音が、別の楽器かというほど違う。あの夜のバイオリンの音色は、禍々しくも美しい光芒を放っていた。目も眩む鮮麗な極彩色に輝いていた。だが今の状態だと、また古道具屋の女中に「光るものがない」と言われてしまう。


 雪輪が言ったとおり、柾樹を市ヶ谷まで走らせたり、浅草十二階の天辺まで飛ばしたりした何かが、あの晩にバイオリンを弾かせたのかと疑った。そうだとしたら、柾樹は何かに操られている。鬼のような顔になっていたとも、雪輪は言っていた。


 そこでバイオリンの弦が二本、立て続けにぷつんぷつんと切れる。

「だああッ! くそ!」

 持ち主の言うことをきかない楽器に、舌打ちした。何ともいえぬ嫌な感じがして、バイオリンをピアノの上へ置く。

「やっぱり、早いとこ『依代』を探さないと駄目か……」

 一人ごちた時、広間の外から手毬の転がるのに似た足音と、男性の声が聞こえた。


「柾樹兄さま!」

 子どもの高い声が、がらんとした部屋に響く。扉を開けて駆け込んできたのは、大きな赤いリボンを頭にのせた少女だった。姪っ子に続いて広間へ入ってきた大柄な男性は、柾樹と目が合うや、扉付近で急停止する。


「あ、ああ……柾樹君」

 ぎこちない笑顔で話しかけてくるのは、姉の夫で義兄の新九郎だった。

「ひ、久しぶりだね。げ、元気そうで……よ、良かった」

 お近付きになりたいとも願っていない柾樹だけれど、そこまで遠慮してくれなくて良いと思う。久しぶりに顔を合わせた人は、紅葉の父親でもあった。


 フランネルの長襦袢に、鉄鼠色の紬と紺の兵児帯というくつろいだ普段着。高身長で骨格もがっしりしているのに加え、最近太めになってきた新九郎は存在感があった。使用人たちの間で、『関取』と渾名がついている。その割に目は円らで、温雅な印象を与えた。新九郎は当主の重郎の代理で、一週間ほど遠出していると柾樹も小耳に挟んでいた。帰宅するなり、離れ屋から母屋まで娘に引っ張られてきたのだろう。


「……どうも」

 金茶頭の義弟は、短い挨拶で返した。

「兄さま見て! お父っつぁまが、長崎のお土産で買ってきてくれたんだよ!」

 紅葉が抱えていた品を差し出す。義兄は長崎へ行っていたのだと、柾樹はここで初めて知った。

「ミュージカルボックスか」

 後にオルゴールと呼ばれるようになる、自動演奏の装置。蓋の部分には繊細な筆使いで、小さな花や小鳥たちが描かれている。可憐な小箱は何曲も楽しむ品ではなく、子供の土産に相応の玩具だった。


「さ、さあ、紅葉。土産も見てもらったし、もう帰らないと……」

 新九郎が、娘へ声をかけた。

 祖父がいなくなった後、異父姉達が母屋に近付かないという例の『決まり』も綻んでいる。紅葉は理解さえしていないし、よしのもどんどん乗り込んできていた。柾樹とて別に気にもしていないが、義兄の態度には遠慮が見える。


 よしのは七年前、四国地方で製糸業を営んでいた西山家に嫁いだ。しかしこうして敷地内に家族三人住んでいる状況と同じで、西山家の方こそ相内家に吸収された。新九郎は何をするにも一歩引き、従順に振る舞っている。最低限の教養と平衡感覚と、欲の薄さで敵を作らず、相内家の者として真面目に働いているため評判は良かった。


「やだ! やっと柾樹兄さまが帰ってきたのに……あ、そうだ! 紅葉もピアノ弾く!」

 柾樹の周辺をウロチョロしていたいだけの紅葉は、椅子によじ登りピアノを開く。女房カカア天下と有名な新九郎が娘にも威厳を発揮できない様を、傍らで柾樹は見ていた。

「兄さま、聴いて! お稽古したんだよ」

 そう言って少女が弾き始めたのは、モーツァルトの変奏曲で『きらきら星』として広まる曲だった。煌く音符に追いつけていない、たどたどしいピアノの音。最初の三小節だけ聞いた柾樹は、視線をピアノから扉の方へ向けた。


「新九郎兄さん」

『はい?』

 という声の聞こえそうな顔で、呼ばれた人が面を上げる。『僕ノ事デスカ……?』という表情をしていた。他にいない。でも驚かれても仕方がなく、柾樹は今まで義兄に用事がついぞ無かった。『兄』に呼びかけたのはこれが初顔合わせの挨拶以来、二度目。ともすれば初めてだった。


「よしの姉さんは?」

 少しは『弟』らしい顔を作り、柾樹は尋ねる。新九郎が、おもちゃの人形みたいにカクカク頷いた。

「へ……? あ、う、うん。今日は、婦人慈善会があるそうでね。出掛けているよ」

 バザーとも呼ばれる慈善活動の一つだった。仕切り屋で開明派急先鋒のよしのだから、勇んで参加しているのだろうと弟は推測する。


「違うよ、お葬式だよ」

 ぴろんころんと鳴っていたピアノの音が止まり、紅葉が口を挟んだ。

「葬式?」

 柾樹が斜め下を見ると、赤いリボンの姪っ子は頷いた。

「うん。おっ母さま、昨日やすのおばさまと話してたよ。『タシロが死んだそうです』って。だから紅葉は、お葬式じゃないかなって」

「……田代?」

 太郎とサイコロ盗みを企てた、かつての番頭の名と同じだった。もっとも、帝都に『田代』は何百人といる。


「おや、そうだったのか? やすの姉さんも知っているなら、明石町の教会で不幸でもあったかな?」

 扉の横で立っている新九郎は、太い首を傾げていた。

「そ、それで、柾樹君。よしのが、どうかしたのかい?」

 義兄の円らな目が、再び柾樹の方を見る。


「ああ、太郎兄さんのこと、何か聞いていませんか?」

「え? な……何かというのは、何ダロウか?」

 脈絡も文脈もすっ飛ばし、総領息子は自分に必要な質問から始めた。問われた新九郎は、表情が若干怯えている。


「何でも。俺は殆ど兄貴を覚えていない……というか、知らねぇから。少しは知っておいた方が良いかと思ったんです。何か聞いていませんか?」

 ピンピンポンポン、鳴り始めたピアノの音を片耳に、柾樹は何食わぬ顔で尋ねる。

 十年以上前に死んだ太郎と、新九郎は面識がない。それは承知した上で尋ねていた。腫れ物に触るような、或いはしがらみの真ん中にいる柾樹より、新参者の新九郎こそ聞こえたり見つけるものもありそうである。何せよしのの夫だった。


「そうか、お義兄さんが亡くなったとき、柾樹君はまだ小さかったか。たしか事故で亡くなったのだったね? 僕も殆ど知らないけれど……子供の頃の話しなら少し聞いているよ。とても優しかったとね」

 真面目に新九郎は答えて、傍らにあった椅子へ腰掛ける。


「どんな風に?」

 ピアノに凭れた柾樹は質問を続けた。

 語り継がれている太郎の伝説は、どれもおとぎ話みたいだった。生の人間としての姿が見えてこない。やがて「うん」と答えた新九郎の口から語られたのは、柾樹の知らない、そしてまだしも人間らしい肌触りのある逸話だった。


「おっ母さんが忙しかったろう。兄さんが、よしのとやすの姉さんの世話をしていたそうだよ。負ぶって歩いて、食べさせたり寝かしつけたり。熱でも出せば、梅干の白湯を飲ませて看病をしてくれたそうでね」

 新九郎は、妻の語った亡兄の思い出を語り出す。

 幼い少年が、双子の赤ん坊の世話をしていた。帝都の片隅で身を寄せ合い、子ども達は日々を暮らしていたのである。だがある日を境に、太郎もやすのもよしのも、生活が激変した。芸妓の母が、御大尽の家の後添えとなったのである。


「それが養子に入ってからは学問から何から、あっという間に身につけたんだろう? すごい人がいたものだなぁ。僕には想像も追っつかない。その上に、爽やかな貴公子とくれば文句無しだ」

 まるきり、英雄伝説を語る顔で言った。

「貴公子といえば、こんな話も聞いたよ。『奥様が芸者だった昔、お忍びでいらした、とある宮様のお傍にいた』とか」

「なに? 宮さま?」

 思わず柾樹は復唱した。新九郎は濁しているが、要するに、母が貴い方の『お手つき』だというのだ。


「うん。太郎兄さんは、実は名血を継いでいるというんだよ」

「御落胤てやつか……?」

 柾樹は、ぽろっと呟いてしまった。聞きとめた紅葉が、またピアノを中断して割り込んでくる。

「紅葉知ってる! ごらくいんてね、エライんだよ! そうでしょ、お父っつぁま!?」

「あ、はははは……? どうだったんだろうなぁ?」

 無邪気な娘に、新九郎は苦笑いしていた。世の中には天才や英雄には、血筋や出自といった『資格』が備わっていなければおかしいという、思い込みがどこかにある。これが新九郎の耳にまで、『御落胤』の噂を届けたのだった。


「まぁ、しかしね……そんな噂も出る俊英ともなると、大変なこともあったようだよ」

「大変? 何が?」

 首を傾げた柾樹に、義兄はまた小さく笑う。

「詳しく聞いてはいないがね。何でも出来ると、頑張り過ぎて何でも背負い込んでしまうのかなぁ。養子に入ったとき、太郎兄さんは十歳を過ぎていただろう。大人というには早いけれど……。一から人生を書き直すのも、同然だったろう。新たに身につけなければならないことも、山とあっただろうね」


 そう丁寧に解説されれば、想像力に乏しい柾樹も何となく思い描けた。

 太郎は世の仕組みやからくり、大人の都合がわかる賢い子だったのだろう。必要とされる事象に合わせ、組み立ててきたものを捨て去り大転換した。周囲の人々が、太郎様は貴い御方のお血筋に違いないと説明を付けたくなるほど変わってみせた。

 そんな家族想いで才知に溢れた兄が、変わり過ぎた環境に順応し、努力を重ねていた傍らで


――――猿回しの猿より能無しの弟が、ただで餌を貰っていれば腹も立つか。


 生まれただけで特別扱いされる、弟の柾樹。

 兄を慕うよしのにすれば、『小鬼』の我侭勝手は、憎らしく見えていたのだろう。鬱陶しいとしか思っていなかった姉の態度にも、今更だが柾樹は少し腑に落ちた気がした。


「わ、悪いね柾樹君。僕が知っているのは、これがせいぜいで……」

 申し訳無さそうに新九郎が言う。腰掛けている椅子は、関取が乗っているせいで小さく見えた。

「いや、充分です」

 柾樹は木で鼻をくくったような返事をする。相内家に入る前の兄姉の景色について、多少なり判明しただけ収穫だと思っていた。


「詳しいことは、やすの姉さんか、よしのに直接尋ねた方が良いと思うな?」

 無愛想な義弟の態度を不満足と見たか、新九郎は遠慮がちに勧めてきた。やすのはまだしも

「よしのは無理だろ」

 わだかまりの権化みたいになっている次姉に対し、弟は投げやりに言った。

 すると途端に

「そんなことはないよ柾樹君」

背筋が伸びて、新九郎が断言した。今までの引っ込み具合が、嘘みたいに消える。


「よしのは柾樹君が大事なだけなんだよ」

「んあ?」

 柾樹は口から変な音が出ていた。先日、屋敷へ帰ってきたときも迎撃態勢だった次姉。しかし変な顔をしている銀縁眼鏡の義弟が見えないのか、新九郎は喋り続ける。


「あべこべになってしまうんだ。僕と結婚するときもそうだった。顔を合わせて、いの一番に言われたよ。『私あなたと結婚はしますけど! 結婚しませんから!』とね。どういうことです? と訊いても答えない。視線を感じて『何だ?』と振り向くと、赤い顔して離れる。近付くと物が飛んでくる。それが一ヶ月以上」

「そうだったのお父っつぁま!?」

「ああ、そうさ。最初は大変だったんだ」

 姉夫婦の新婚時代という、どうでもいいこと極まりない話がここに開幕している。でも新九郎は疑問も無さそうだった。何の臆面も無く、笑顔で娘に話している。


「離縁したくならなかったのか……?」

「そんなのヤだあー!」

 勢いに乗せられた柾樹が訊き返すと、紅葉が泣きそうな悲鳴を上げた。家同士の都合で成り立った結婚である。そう簡単に離縁なぞ認められないにせよ、よしのは無茶を言っているし新九郎もノンキ過ぎた。


「あっはっは、大丈夫だよ紅葉。嫌われているのとは違うと、わかっていたからね。柾樹君に対しても、よしのは同じ感じがするんだよ」

 ノンキ者の婿は照れる気配もなく、朗らかに語ってみせる。

「ねぇ、お父っつぁま! お父っつぁまは、どうしておっ母さまに嫌われてないって、わかったの?」

 ピアノを離れ、父の膝へ駆け寄った紅葉が興味津々といった調子で問うた。新九郎は太い腕を組む。


「そうだなぁ……。仕草だとか、表情だとか、声だとかな? まぁ近くにいれば、何となくわかるものだよ。そういうのは、柾樹君もないかね? 匂いとでも言うんだろうか」

「におい……?」

 柾樹も呟き考える。

 屋敷の前で会った『あの女』に、姉達と似たニオイを感じた。あんな感じかと想像する。たぶん新九郎は、相手の好き嫌いや心理状態を把握出来る、嗅覚のようなものを持っているのだろう。犬が匂いで人間の変装を見破ってしまうのと同様に、新九郎によしのの『変装』は通用しなかったのだ。


「特にわかりやすいぞ、紅葉のおっ母さまは? 蜜月遊ハネムーンの間中も、嫌われてはいないらしいのに、逃げようとする」

「ふーん? 何で? おっ母さま恥ずかしかったのかなぁ? お父っつぁまは、どうしたの?」

 小山のような膝に登った紅葉が、父親の顎を見上げて尋ねていた。


「ふむ。何故なのかなぁと、考えてもみるだろう? あちらは評判の開明的な女人だ。僕が開明ひらけてないのがいけないんだな、もっと先進的な夫でなければ恥かしいんだなと思った。じゃあ合わせていけば良いんだろうと、お父っつぁまが西洋風に改めたんだ」

「……改める?」

 明るい笑顔の新九郎を前に、柾樹は表情が暗くなる。開けなくて良い幕が、目の前に垂れていた。悪寒に近い予感が逃げろと告げている。しかし怖いもの見たさで、柾樹は義兄に問い返してしまった。


「西洋の紳士を見習うことにしたんだ。レディファーストだとか、腕を組んで歩くとか。挨拶のときは抱擁してキスをするだとか、毎日『愛しています』と言うだとか!」

 人間ごとドブに投げ捨ててやりたくなる挿話が出てきた。

 義兄の出した解決策は、関取の外見に相応しい押し相撲だったのである。新聞に『接吻の奨励』と載ったりもしていた世相を勘定に入れれば、新九郎一人だけが、方向音痴の奇想天外だったとは言えないにしても。


「じゃあお父っつぁまは、西洋紳士のお勉強したの?」

「ああ、大勉強したさ」

「それでお父っつぁまとおっ母さまは、今も仲良しなんだ!」

「そうとも。さあ、紅葉も勉強しないと。今日は宿題があるんだろう? ピアノを片付けておいで」

 大きな父の手に髪を撫でられ、頬を林檎色に上気させた紅葉は「はあい!」と返事をして膝から滑り降りた。ピアノの蓋を閉めると可愛いオルゴールを胸に抱え、父のところへ駆け戻る。


「またね、柾樹兄さま!」

「ああ……」

 これでも一応、柾樹は虫唾が走っているのを顔に出さないよう、気を使っている。

 そして離れ屋へ帰っていく二人を見送り、別の考え事をしていた。

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