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前田桜

 柾樹は朝飯後に一寝入りしてから目を覚ました。こういう気だるい時間というのは、何とも言えず気分が良い。


 寝ていた場所は古道具が山積みのの十二畳で、千尋も書物を顔に乗せて転がっていた。起き上がって伸びをしながら眺めた庭では遅咲きの梅の花が白く光り、洗濯物がはためいている。地面にはスミレやカタバミ、タンポポ、レンゲにキンポウゲなど小さな花々が色を撒き散らし、ナズナやらハナダイコンやら、奥の方にはハハコグサやらも好き勝手に咲き乱れていた。


 庭へ面した日当たりの良い廊下では、長二郎が文机にかじりついている。コイツだけは書生らしいなと思いつつ立ち上がった柾樹が土間につながる一室を眺めると、火鉢の上で鉄瓶がゆるやかに湯気を噴いていた。


 そこへ、洗ったばかりの鍋を抱えた雪輪が小走りで駆け込んでくる。土間をすり抜けるなり、脱いだ下駄を手に取って部屋へ上がりこんできた。鍋を無言で柾樹に渡すと、相手が「え? え?」と言ってる間に奥へ引っ込んでしまう。雪輪の行動理由は直後に判明した。


「ごめんくださいまし」

 高い女の声がしたのだ。


 『この古道具屋は期待していたより、人の出入りが激しい(しかも女が多い)』と思いながら客を出迎えた柾樹は

「あれ……桜?」

現れた人物に、思わず確認した。


 ふんわりした薄茶色の髪をマーガレット結びにし、意志の強そうな大きな瞳がきらきらしている。桜色の唇に薔薇色の頬。しなやかな立ち姿も艶やかに、人形みたいな娘が立っていた。


「御無沙汰を致しておりました。相内さんも御機嫌よろしゅう、結構でございます……なぁーんてね。お久しぶり、マサさん! お鍋持ってどうしたの?」

 明るい微笑を浮かべて問いかけてくる。娘は千尋の幼馴染で、『前田桜』といった。


「あ、桜ちゃんだ」

「あら、チョーさん! ちょうど良かった。ハイこれ、面白そうだから買ってきたの」

「おおー、うれしいなぁ。いただきます。何だいコレ? ビスケット?」

「ええとね、ビスケットにみたらし団子のタレを挟んだものなんですって。文明開化の味だそうだけど」

「……うーん……文明開化というよりは、試行錯誤の味がするな」

 長二郎は桜とやり取りしながら、さっそく箱を開けつまみ食いしている。鍋を竈へ置いて戻ってきた柾樹が、小声で尋ねた。


「何だ『チョーさん』て?」

「僕のあだ名だ。君は使うなよ『マサさん』」

 貼りついたような笑顔で、やや今更の感がある『文明開化』の入った箱を手に長二郎が言う。桜は親しい人間にあだ名をつける癖があった。そこに男女の別は無く、一種の親しみの表現らしい。


「何かアレだな。『マサさん』て、その辺の舟人足にいそうだよな」

「悪かったな。テメェに言われたかねぇよ、チョーさん」

 ちなみに柾樹も、桜が極めて平然と呼ぶため、『マサさん』を拒否し損ねている。


 桜は父親が町医者で、本人も看護婦養成所へ通い修行中だった。

 平民の出ながら成績優秀。友人や教師からも一目置かれているとは、柾樹も聞いた。この肩書きだけを聞いた当初は、一体どんな鼻っ柱の強いオカチメンコが出てくるのかと思っていた。でも実物の桜は、近所でも有名な小町娘である。柾樹と長二郎がみたらしビスケットを頬張り、くだらない話をしている横で桜の声が飛んだ。


「千尋! アンタまさかまだ寝ているんじゃないでしょうね? おかるおばさんに言いつけるわよ!?」

 桜はここの書生達より一つ年上だが、それにしても本当に姉のようである。ぼりぼり身体を掻きながら出てきた千尋は、上がり込んできた娘を認めると柾樹同様、目を見張った。

「どこのお嬢さんかと思ったぞ」

 千尋の様子に桜は笑い、おどけてポーズをとってみせた。


「そうよ。馬子にも衣装ってね。似合う?」

 可愛らしく小首を傾げる桜は、自分の笑顔が魅力的であることをよく知っている娘だった。そしてその自意識は、全く正当なものだった。臙脂色のショールを肩にかけ、上質な桜色の小紋に身を包む姿は良家のお嬢様といった風である。東洋人離れしたゆるく波打つ薄茶の髪も手伝って、白い花の髪飾りが一層可憐に映えていた。しかし折角の彼女の魅力にもまるで無反応で、千尋は小さく苦笑する。


「どうした急に?」

「どうしたってことないでしょ。お暇を頂いて帰って来たら、ここで下宿してるって言うじゃない。お手伝いの一つもしてあげようかと思って来たのに」

 桜は肩掛けを外し、薄暗い室内をきょろきょろ見回して言う。


「案外片付いてるのねぇ。道具の山はどうにもならないみたいだけど……」

 言いながら古道具だらけの暗い座敷の方へ行きそうになった桜を、千尋があわてて引きとめた。これ以上進むと、見てはいけないモノが座っている。方向転換させ、明るい縁側へ向かわせた。


「? 何? 何よ?」

「ああ、まぁいいから。こっちの方が日当たりも良いし、暖かくていいだろ」

「ええ~? ……アンタたち何か隠してるんじゃないの?」

「隠してない隠してない。あっちは蜘蛛だの何だのいるから行かない方がいいっていう、それだけ!」

 長二郎や柾樹まで一緒になって縁側へ追いやるので、桜はますます疑惑の視線を向けてくる。半ば無理やり縁側に座らされながら、「なに? 何なの?」と尚も食い下がる桜に


「そ、そういえばお前、どこかの屋敷で看護婦勤めをしてるんだってな?」

疑いを逸らすべく千尋が水を向けると、幼馴染は素直に頷いた。


「あら、知ってたの? ええ、牛込にある貴瀬川様のお屋敷なの」

「桜ちゃん、まだ看護婦じゃないだろう?」

「そうよ。少しワケありでね」

 客人にお茶を淹れてきた長二郎に言われ、微笑んだ桜の前髪がふわんと揺れる。横で自分の湯飲みを手に、胡坐を掻いて柾樹が言った。


「貴瀬川って、貴瀬川伯爵か」

「そうそう! マサさん知ってるの?」

「名前くらいはな」

 お茶を一口飲んで答えた銀縁眼鏡の青年に


「じゃ、じゃあもしかして、ご息女の真名様は知っている? お会いした事は?」

娘は身を乗り出して尋ねてきた。大きな瞳に真っ直ぐ見つめられ、柾樹は若干困った顔になる。


「夜会でちらっと見かけたことはあったと思うけどな……知ってるってほど知らねぇよ。大した器量良しで、通事役無しで外国人と話す女なんだろ」

 知っている事実を手短に答えた。柾樹は社交界や上流世界の住人にほぼ無関心なため、手持ちの情報もこの程度なのである。


「もしかして、そこのお姫様が病気か何かなのか?」

 みたらしビスケットを手に、今度は千尋が尋ねる。桜は「ええ」と頷いた。


「そうなの。でもねぇ……ご病気はご病気でも、悪いお風邪だとか伝染病だとか、そういうのじゃないのよ。真名様はもうすぐ安倍侯爵家のご嫡男、慎之介様とのご結婚が決まっているの。知ってる?」

「ああ、この前新聞に載ってたアレか」

「そうそう。それでそのお支度とご心労で、この頃急に臥せりがちになってしまわれたのよ」


 安倍侯爵家といえば華族の中でも名門である。相内家のような俄か華族とはわけが違った。このたび桜が招かれた貴瀬川伯爵家も、生糸の商売がうまくいった今では豪邸暮らしとはいえ、少し前までは自慢できるモノといえば御先祖から引き継いだ大名の血筋だけという零細華族だった。そこの娘が、数段家格の違う家へ嫁ぐ。心理的緊張により、真名は家に引きこもって外出も出来なくなっているという。


「それでお屋敷では、お世話をする看護婦をお呼びになろうとしたんだけど、真名様がご自分と歳の近い看護婦じゃなければ嫌と仰ったそうなのよ。要はお話し相手が欲しいっていう事だったみたい。よっぽどお嫁入りがお心細かったのねぇ。それで一月くらい前に、貴瀬川家のお使いが御内密で看護婦養成所へご相談にいらしたの。伯爵様たってのご要望だし、真名様も大怪我や大病を患っていらっしゃるわけでもないから、まずはお気持ちを解すためのお話し相手くらいなら、見習いの者でも良いでしょうと先生も仰って」


 言われるまま、桜は牛込にある貴瀬川伯爵邸で住み込みで働くことになったのである。事情を聞き、千尋が不思議そうに尋ねた。


「何でまたお前なんだ?」

「別品で成績優秀だから」

「……」

「悪かったわよ冗談よ! でもお使いの方のお申し出で、私がお召しになったのは本当よ? 先生方は他にも何人かお薦めしたそうだけどね。何だか私をお気に召されたんですって」

 常に明るい娘はそう言って笑い、身振り手振りを交えて説明する。


「ま、光栄で結構なことかもしれないな。それにしても、変わった仕事を仰せつかったもんだなぁ。どうだ、奥勤めは?」

 興味深そうに千尋が質問を重ねると、桜は小娘みたいな声で答えた。


「そりゃもう、竜宮城に行ったみたいよ! 勿体ないくらい良くして頂いてるわ。お食事は思っていたより質素だけどね、まぁあんなものよね。でも宛がって頂いたお部屋がもう素晴らしいったら! まるで本で見た西洋のお屋敷みたいなの! 立派なベッドや見たことも無いような綺麗な机や椅子まで全部用意されていてね、眺めも良いの。二階にあるから、広いお庭や壁の向こうの表通りまでよく見えるのよ。あんまり立派で、初めて通された時はびっくりしちゃったわ。それにね、この着物や肩掛けも、何もかもお屋敷で頂戴しているの。毎日違う着物が出されるのよ! どれもこれもとびきりの上等品なんだから。侍女の方のお知り合いの娘さんが着ていた古手だそうだけど、やっぱりお華族さんは大したもんねぇ。毎朝私の髪も時間をかけて整えて下さるのよ。それは私が不器用だからなんだけど」


 賑やかな幼馴染のおしゃべりに、千尋が目を細めて頷いた。

「うん、その髪もよく似合ってるじゃないか」

「え……、そ、そう?」

 珍しい事を言われ、髪の先をいじる娘の頬の薔薇色が少し濃くなる。


「お前、自分で髪結うと鳥の巣みたいになるからなぁ」

「悪かったわねッ! どうせ不器用よ! 癖っ毛よ! 子供の頃から頭が鳥の巣ですよッ!!」

 悪気の無い千尋の台詞に、真っ赤になって怒りだした。怒る桜を、長二郎がまぁまぁと宥める。


「それで、お姫様の加減はどうなんだい?」

 長二郎がにこにこと訊くと、桜は急に大人しくなり少し俯いて首を振った。

「……わからないわ」

「わからない?」

 聞き返す声に、娘はちょっと躊躇ってから口を開いた。


「実はね……私、真名様に会わせて頂けないの」


 桜も当初ははりきっていた。嫁入りが気がかりで寝込んでしまうような、繊細なお姫様のお相手など想像もつかないが、真心をこめて誠心誠意の看病をして差し上げよう。きっとご婚儀の日までにお元気になられるよう、お手伝いをするのだと意気込んでいた。


 だが伯爵邸に入った桜は、いつまでたっても仕事をさせてもらえない。それどころか真名に会ったのは最初の一日のみ。レースの天蓋越しに挨拶を交わしただけだった。そしてそれからというもの、お世話どころか真名の部屋に入ることも許されない。桜の語る貴瀬川家の話に、千尋が眉を寄せた。


「じゃあ……屋敷で毎日何してるんだ?」

 問われた桜はまた迷った末、ぽそと呟く。


「……お稽古」

「おけいこ?」

「お花活けたり、ピアノ弾いたり、刺繍したり……一日中お座敷で座り続けるお稽古とか」

「お花って……活けた花を見たご隠居に『むごい』とまで言わせたお前が?」

「放っといてよ! そもそも私がお稽古させて下さいってお願いしたわけじゃないってばッ!」

 桜はムキになって喚いた。それから大きく一つ息を吐くと


「私は平民だから品が無いんですって! 話し方や所作振る舞いに!」

開き直ったみたいに言う。でも自分で言ってから、すぐに萎れた。


「侍女の千代様がね、お興入れの近い真名様に下々の悪い品が、万に一つもうつってはいけないから、『まず当家に相応しい行儀作法を身につけなさい』って……真名様のお世話役はそれからだそうよ」

 言われたときの事を思い出したのか、肩を落として桜は言う。書生達は顔を見合わせた。


「だったら初めからそういう看護婦を探してくれば良さそうなもんだろうに、随分勝手だなぁ」

「病人は後回しかよ。治す気あるのか?」

 長二郎と柾樹の同情や疑問の言葉で、桜の眉が弱りげに下がる。


「言葉から何から違うし、西洋のお召し物や銀器の扱いなんてわからないもの。仕方ないとは思うのよ。それに看護婦の仕事も、まだよく知らない人は多いから。行った先で耶蘇の回し者とか言われたり、居ないように扱われたなんて話も聞いたわ。だからこんな事も、きっと驚くにはあたらないのね。でもまさか、お顔も見せていただけないとは思わなかったわ。それにあんまり平民だからとか、育ちがどうこうなんて言われ続けると、くたびれちゃう」


 笑顔に混ぜて、娘はささやかなため息を漏らす。身分の違いは理解していおり、物質的には粗雑に扱われていなくとも。時代の先端を行く自負も自信もそれなりにあった桜にとって、問答無用の下々扱いは肩身も狭ければ息苦しくもあり、少々堪えたに違いない。


 と、幼馴染を見ていた千尋が顔をあげる。桜の頭にぽんと手を置き、穏やかな口調で言った。


「見込みがあるから厳しい事も言うんだろう。そうじゃないなら、とっとと里へ帰すだろうからな。心配いらん。桜は昔から出来が良くて、何でも呑み込みが早いじゃないか。行儀作法もすぐ身につくよ」


 優しく笑って語りかける姿は、年下のはずなのにまるで幼い妹をあやす兄のようだった。一瞬ぽかんとした桜は、見る間に赤くなって飛び上がる。


「あ、あったり前じゃない! 私を誰だと思ってるの!」

 育ちの良い胸を張り、勝気に啖呵を切った。けれど次の瞬間には、花が綻ぶような笑顔を開いて言う。


「ごめんね。私が看護婦養成所へ行けるように、千尋がお父っつぁんたちを説き伏せてくれたのにね。その恩人に弱音吐いているようじゃね。これから看護婦になったとしても、先が思いやられるわ。よし、わかった! 何でもやってやるわ! きっと英吉利の貴婦人と見紛うばかりのレディになってみせる!」

「そ、そこまでしなくても良いと思うが……」


 拳を固め誓いを立てる負けん気の強い幼馴染に、ボンクラ青年が弱り顔で言った。

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