必中の賽
使用人頭の大山は本日、屋敷内での仕事を任されていた。そこへ、女中頭のお糸が助けを求めに来た。柾樹が裏庭の方へ行くのを見たという。でも「坊ちゃんどちらへ」と声をかけられなかった女中頭。どうしたもんでしょうと頼られた使用人頭。こうなっては仕方ない。大山が後を引き受けることになってしまった。
大旦那様の代から仕えている家令は、最近膝が痛いのであまり歩きたくない。それに暇を満喫しておいでのあちら様と違って、奉公人のこちらは暇ではない。しかし『裏庭』と聞いたとき、虫の報せに近い不安が大山の胸を過ぎった。やむなしと紺色半被の家令さんは、裏庭へ向かったのである。
昼でも薄暗く、誰も近付きたがらない広大な裏庭。年々可動域の狭くなってきた手足を動かし、えっちらおっちら草を踏んで、蜘蛛の巣を潜り辿り着いた先だった。広大な裏庭の、ちょうど中ほどになる。
探していた人を見つけた大山は、仰天した。柾樹が『人喰いの井戸』を覗こうとしている。また悪戯かと、大慌てで止めに走った。大山の中で柾樹は今でも五歳、六歳だった頃の感覚が抜けきっていない。
秋の光が微かに射し込む木立ちの中央には、ぽっかりと緑の空間が広がっていた。琥珀色の髪の先を金属色に光らせた、その青年が振り向いて。
「あの、柾樹坊ちゃん……。手前はまだ、旦那様に言いつけられた仕事が山ほど」
使用人頭は、暇人の坊ちゃんに襟首を掴まれ動けなくなってしまった。坊ちゃんは古井戸を開けるのはやめてくれたのだけれど、そこで終わってくれなかったのである。
「そんなの後だ。いいから話せ。今話せ。祖父さんのサイコロってのは、丁半に使うアレか?」
裏庭で、大山は柾樹に締め上げられていた。口も目つきも手癖も足癖も、聞き分けまで悪い天邪鬼を相手に初手を間違えたとしか言いようがない。坊ちゃんの気がすむまで逃がしてもらえなくなった。
「はあ……手前も一度見せて頂いたきりでございますが。奇妙な形で、丸くてジャラジャラと、数は六つ。独特の賽で……大旦那様は、お家の大事をこれで決めていらっしたんです」
大山が答えると、柾樹は襟首を掴んでいた手をやっと離す。
「そんなもんで決めて良いのかよ?」
呆れ顔で、眼鏡の上の眉を寄せ首を傾げていた。大山は苦笑と共に、節くれ立った手を振る。
「良いも悪いも、必ず当たるのですから! 大旦那様にお任せすれば間違いなし。これに勝る理由などございませんよ。たしかに大旦那様は、癇の高いお方でございました。それでも見極めの眼力は本物。運は抜群にお強い。鉄砲から造船、製糸、炭鉱開発。投資する銀行まで、読みはどれもぴたりと嵌るんです。大勢を巻き込む情熱と、言葉の力もお持ちでした。使うときには財も一気にバッと使う。働いて汗をかけば、米や金も惜しまず報いてくださる。火事や流行り病があれば、一家まとめて住処や医薬の世話まで……。決め手が賽でも籤引でも、人は集まりましょうよ。大事も成せるというもの」
己の自慢話より自慢げに、大山は語って聞かせていた。
「百発百中の易。軍も閥も問わず、『相内殿にお頼みしたい』と、色々な方が尋ねて来られたものですよ。その大事な賽を、太郎様が盗もうとしなすったんです。大旦那様の命綱と見込みましてね……」
振れば当たる、『必中の賽』。
賽は大旦那様が人脈や情報網を広げるのにも一役買っていた。人は自分で何でも決めたいと願うが、次々と決断や判断を下す立場になれば、自由意思以外の何かに根拠や理由を求めたくもなるのだろう。何より幸兵衛は、血縁関係で人脈を広げるのが難しかった。妾は随分と囲って、他所の誰かがちょっとでも目をつけた美女や芸者がいると聞けば横取りし、八人九人と囲った。しかし息子は重郎一人しかいない。
「ふん……兄貴は、どうしてそんなもん盗んだんだ?」
腕を組んだ柾樹が、興味深そうな眼差しで尋ねてきた。
軽い話しではない。けれど改めて目の前にいる坊ちゃんを眺めてみれば、膝の痛い年寄りより長身の立派な若者だった。相内屋敷におけるお節介の役も、律儀な大山は自らに仕事として課している。亡き大旦那様にも、「お前の良いところは律義という、そこ一つだけだ」と言われてきた。世間には『律義は阿呆の唐名』という言葉もあるのだが、誉れとしている大山は気に留めていない。
「では、順を追ってお話し致しましょうか。柾樹坊ちゃんが五つの頃となると、もう十年以上も前になるんでございますねぇ」
律儀な家令は、目を細めて話し始めた。
「あの事件は、太郎様お一人の仕業ではございませんでした。当時の一番番頭でした『田代』という男と、書生の『関山』というのがいたのですが。この二人と企んだのでございます。番頭の田代は綺麗好きで、気も利いた男。しかし投資で借金を拵え、店の金を横領していましてな。書生の関山も、田舎者の元気な男だったのですが、他所の書生と玉突き賭博でこちらも借金を抱えておりました。そういう田代と関山に、太郎様が話しを持ちかけたのでございますよ」
――必中の賽を取り上げてしまえば、大旦那様は何も出来ないご老人だ。
――アレを質にとって脅かし、金庫の金を出させて後白波となろうじゃないか。
――怪我をさせるわけじゃなし、大事無いさ。
太郎は二人を招き寄せ、そう持ちかけた。
「全く無謀な話しですが、金で首が回らなくなっていた者どもは頭も回らなかったのでしょう。苦し紛れで、誘いに乗ったのでございますよ」
幸兵衛から金を脅し取るなど、途方もない話しだった。それでも田舎書生と当時の一番番頭は、若造とはいえ機敏な太郎の腕にかかれば、無理も道理が引っ込んでくれると思ったようである。だが、泥を飲むようにして世を成り上がってきた相内家の当主こそ、道理を引っ込ませる上得意だった。
「大旦那様は、みんなご承知でした。あれとこれとそれの様子がおかしいと、最初から睨んでおられたんですな。人の心の、何をどこまで見抜いてご存知だったのか、恐ろしいほどの眼力と申しますか……要するに太郎様も他の二人も、大旦那様の手のひらの上で踊らされていたんでございますよ」
暗い感情が向いていない大山は、張られていた網に引っかかった側へ情を寄せてしまっている。弱り気に、頭を振った。
「御用商人ともなれば、いつ何時、暗殺となるか知れませんで。大旦那様も腕っ節の強い書生を四、五人身辺に置き、用心棒などさせておりました。その日の夜番が、書生の関山だったんでございます。関山は大旦那様がお部屋を空けたのを、他の二人へ報せます。番頭の田代と太郎様が、大旦那様のお部屋へ忍び込みまして。関山は夜番の顔をしながら見張り役。やがて調べた通り床の間にあった隠し戸を見つけ、首尾よく賽の入った『玉手箱』を取り出した……とそこへ、潜んでいた他の使用人どもが飛び出したのでございます」
使用人たちが押入や物陰、長持の中に隠れていた。大山は居合わせなかったため、参加者から聞いた話しになる。
「盗人たちこそ泡を食う。しかも玉手箱は、大旦那様が支度させておいた偽物だったんでございます。三人とも捕縛され、西の外れにあった古いお蔵へ詰め込まれてしまいました」
肩を落として、番頭は言った。
現在の相内家には、家内用に白壁の蔵が三棟ある。この他に当時は敷地の西の外れにも、崩れかけた蔵がもう一棟あった。捕まった三人は、そこへ閉じ込められたのである。
「大旦那様からは『この度のこと、全て白状し悔い改めれば出してやるが、そうでないなら窃盗として警察へつき出す』とお沙汰がありました。飯は粥のような飯と、香のものだけの兵糧攻め。そのとき蔵の三人は相談をしていたそうでして。太郎様は降参しないと仰った。田代と関山へ、別の謀を持ちかけていたんでございます」
――疑り深い大旦那様が、許すなど嘘に決まっている。
――先手を打って、明日の飯を運んでくる者を人質にとろう。
――人質を盾に突撃して檻を破り、今度こそ振り切って逃げてしまえば良い……。
太郎は降参を望まず、徹底抗戦の構えだった。
「しかし田代と関山は、太郎様ほどの元気はございませんでした。口では良いお考えと言いながら、後でこれをキレイさっぱり裏切ってしまいました」
言って、大山の丸顔は俯いてしまう。三人が蔵で脱出の相談をしたのが、閉じ込められて四日目の夜だった。朽ちた古い土蔵より、警察の牢屋の方がまだマシだったろう。気力体力も、相当きつかったに違いないと大山は想像している。
「お蔵入りとなって、五日後でございました。下男が、お蔵の方から、わあわあ声がと報せに参りました。田代と関山が、太郎様を組み伏せまして……『ご覧のとおりでございます、もうお助けを』と、大旦那様に命乞いをしたんでございますよ。脱走の策を練っていた頭目を捕まえたとして、僅かなり罪を軽くしていただこうという魂胆で。田代と関山は横領や賭博の件もありますから、警察のお縄を頂戴するより、大旦那様にお頼みする方が利があるとみたのでしょう。見下げ果てたものですが田代と関山は蔵を出され、夕方には二人ともお屋敷から消えました。後日、大旦那様が仰ったところでは奴らから事情は聞きだしたのでもう用はない。出て行けと放り出したそうにございます。そのあと田代達がどうなったかは存じません」
永代橋より、川汽船に乗り込む二人を女中が目撃している。帝都にいても知り合いに会うおそれがあるため、地方へ逃げたと思われた。
「太郎様はお一人で蔵の中に取り残され、気落ちしたご様子でした。お屋敷や学校で人々に囲まれ、夜会では光る君の如きと言われたお方が、警察へ引き出されるのは今日か明日か。屋敷の者達が囁き合っていたとき、あの不幸が起きたのでございます」
薄暗い風が草間をそよぐ裏庭で、古井戸を見つめる使用人頭は一際大きく息を吐く。
「琴様が、太郎様を蔵から出してしまわれたのですよ」
言うのも苦く渋い過去を大山は明かした。
「ひどい夕立の日でございました。雷でキャッキャと騒いでいる女達を落ち着かせていたとき、大旦那様にお部屋へ呼ばれたんでございます。そこでも、大旦那様の雷が落ちておりましてね。『この大馬鹿者!』ですとか、『何ということを仕出かした!』とか……それはもう大変なお怒りようで。おそるおそるお部屋へ入りますと、重郎様と、ずぶ濡れで真っ青になっている奥様がお揃いでした」
部屋にいたのは大旦那様の幸兵衛のほかに、息子の重郎と、その妻の琴。琴が雨の中から帰ってきたばかりというのは、大山にもわかった。
「『御用で?』と申しましたら突然に奥様が畳へ手をつき、いきなり『私のせいなんです』と仰ったんです。『裏の古井戸へ、太郎が身を投げてしまいました』と。手前は『え!』と言ったきり息も忘れ、後は目眩がするやら腰が抜けそうというか、気が遠くなったものでございます」
視線を一身に浴び、琴は震えながら己の大過失を打ち明けた。
「琴様は、太郎様が不憫で仕方なかったと涙ながら仰いまして。倅の悪事は悪事とわかっていても辛かった。それで『愚かな親心で、太郎を蔵から出してしまいました』と。すると蔵から出た太郎様が何を思われたか、裏庭の古井戸へ駆けていき身を投げてしまわれたと言うんです。琴様は頭を床へ叩きつけて泣き叫び、お止めするのも大変でした」
母の情け心が、惨事へ繋がってしまったというのである。泣き叫ぶ奥様を、大山は懸命に宥めた。
「大旦那様からは、屋敷の者達には『太郎は間違えて古井戸へ落ちた』と言うよう、お指図がありました。そうして何はなくとも井戸浚いをとここへ参りましたら、そのときには『人喰いの井戸』が白い砂で埋まっていたんでございますよ。不思議を過ぎて、ああ本当に亡くなられたのだと、そう感じたもので……」
突然埋まった古井戸。それを見た時の呆然とした、圧倒された気分を思い返して大山は言う。
「大よそ、こういった次第でして……。太郎様の一件以来、『賽』は禁句となりました」
長い話を終えた家令は、最後に深く息を吸って大きく吐く。
蔵を抜け出した太郎様が夕立で道を見失い、間違えて古井戸へ落ちたとの説明は説得力を持った。「お気の毒に」「魔がさしたか」と誰もが同情し、女中は気を失う。そして琴は、息子の葬儀の前に姿を消した。古井戸が『白い砂』で埋まった不思議も昔からの伝説の力と、大旦那様の雷を恐れるうちに暗黙となり誰の口にも上らなくなった。
「……大山。兄貴の『身投げ』を知っているのは、お前と、親父と……他には?」
聞いていた柾樹が、苔むした古井戸を眼鏡の硝子に映して尋ねる。
「はい。やすの様と、よしの様が。後は……奥様だけかと存じます」
「そうか」
柾樹は小さく答えて、再び黙った。
「兄貴は、何で金持って逃げようなんて考えたんだろうな?」
一時の静けさの後、下駄の先で地面の小石を弄ぶ青年から、素直な質問が出てきた。
「辛抱し切れなかったんでございましょう……。まず重郎様が、随分と厳しく太郎様をお仕立てなさいました。大旦那様の迅雷鉄拳も、家中全員分け隔てなし。手前も拳骨なら、一生分頂いております」
今となっては思い出である。言いながら、大山は髪の薄い頭を撫でていた。
「逃げ出した者もおりました。でも太郎様はうまく立ち回っていらっしゃると、感心していたのですが……利発とはいえ、まだまだお若かった。優れたご器量と評判のこれが、逆に血気に逸らせたと申しましょうか。おそらくは、鶴は鶏の群れにはおられぬとそんな火種で、あのような」
答えて使用人頭はまた頭を撫でる。あの頃の相内屋敷に居て、幸兵衛に拳骨を食らわされ足蹴にされていない者はいなかった。毎日のべつまくなし小言が飛び、仰せの通りにしなければ雷と鉄拳が落ちる。
『堅気一方』、『正直律儀』、『奉公人の心得を守る』などは、言わずもがなの当然だった。店の格子戸に埃があると叱られ、隠れ食いをしたと叱られ、履物が並んでいないと叱られ、花見に行ったと叱られ、お辞儀が足りないと叱られ、飯の椀に汁が残っていると叱られ、同じことを二度言わせるなと叱られ、といった具合だった。抽象表現は用いられず、全てに拳骨か足蹴りがついてくる。駄馬を躾けるようだった。幸兵衛は話せば他人と通じ合えるなどと生ぬるいことは微塵も信じていない男で、潤沢な俸給と厳しい鉄拳は飴と鞭となり、雇い人だけでなく身内にも徹底されていた。
ただし、その原則から外れていた者も僅かにいる。
「殴られてたのか? 俺は知らねぇぞ?」
不思議そうな柾樹に、大山は情けない笑顔を湛えて言った。
「柾樹坊ちゃんは特別ですよ……。それに坊ちゃんが物心つかれた頃には、大旦那様もお年を召されて、だいぶ丸くなっていらっしゃいましたからね」
大山のそれを聞いても柾樹は納得いかない目をして、明るい枝葉を見上げていた。
「じゃあ、源右衛門も殴られていたのか?」
「ああ、いや、堀田様も別でしょう」
坊ちゃんから出てきた人の名に、家令はまた右手を振る。相内屋敷において、幸兵衛から特別扱いされる人は二人いた。嫡男の柾樹と、門番をしていた堀田源右衛門である。
「堀田様と大旦那様とは、昔からのお知り合いだったんです。よく将棋も指していらっしゃいましたよ」
「え……親しかったのか」
大山の話しに、柾樹が銀縁眼鏡の向こうで軽く目を見開く。
「親しかったと申しますか、腐れ縁か……話し相手として不足はないとでも申しましょうかね? お二人とも鬼籍に入られた今だから申し上げますが。大旦那様は、堀田様にだけは頭が上がらなかったんでございますよ。何せ初めて出会われた時代には、お立場が反対。堀田様は御家人。大旦那様は無一文に等しく、まだ海のものとも山のものとも知れぬ一介の商人。後に堀田様を門番でお雇いになったのも、昔頂いたご恩があったゆえでしょう」
古株の大山も、幸兵衛が商人として走り始めた最初期は知らない。だが源右衛門は知っていた。その頃から繋がりがあり、それゆえ成り上がった後も、幸兵衛が疎かに扱えない相手だった。
「それに、お武家時代の堀田様を少しでも覚えていたら、とても……」
「何だ、あいつも昔は、おっかねぇ侍だったのか?」
尻すぼみになっていく大山の声を聞く柾樹は、意外そうだった。知らないとは良いことだと、家令は坊ちゃんを羨ましく眺める。
「お武家様にしては、町人や職人との付き合いも多い方でした。四角いばかりでなく、よく冗談も仰っていましたが……怒れば怖いなんてもんじゃ……」
本人がいなくなった今も、大山は言葉を濁してしまう。
明るく人好きで、世話焼きだった源右衛門。寄って来るものを拒まず、相手の懐にも入り込む気質で交友関係は広かった。しかし人懐こい笑顔の下から時折覗く眼光には、武士道などと今頃になって思い出している人々には無い、凄味と陰翳があった。
「柾樹坊ちゃんの爺やになって、堀田様は楽しそうでしたよ。お孫が出来たようで、嬉しかったのでしょう」
大山は頬をゆるめて笑う。
坊ちゃんと転げまわって遊ぶ、歯抜けで皺だらけの門番になる前。刀を手挟んでいた時代の堀田源右衛門は往時の益荒男といった風貌で、睨めば幸兵衛さえ冷や汗を垂らす。
そんな男だった。




