古井戸
早咲きの彼岸花が、蒼い草叢でぽつりぽつりと咲いている。
父に「家から出るな」と命じられ、柾樹は屋敷に繋がれてしまった。でも学校や会食などにも、出掛けずにすむ。その点だけは好都合だった。
そこで翌日の朝食後、屋敷の中が落ち着いてきたのと人目が離れた隙を見計らい拳銃と財布を懐に柾樹は外へ出た。庭下駄を引っかけ、暇を持て余している顔で裏庭へと歩いている。
向かう先は十三年前、兄の太郎が落ちて死んだ『人喰いの井戸』。
兄の太郎の葬儀には、柾樹も参列している。
だが子供は数分で退屈してしまい、挙動が不審になった。悪戯をするといけないと早々退席したため、断片の光景しか思い出せない。少女のよしのが泣きじゃくっていて、茫然自失のやすのが崩れ落ちそうな妹の肩を支えていた。父と祖父はいたが、母の姿は無かった。そしてたくさんの知らない人間がいた。兄は多くの人に好かれていたようなので、参列者も多かったのだろう。
十歳以上も年上で、父親も違った兄の太郎。一緒に遊んだ記憶は無かった。しかしながら、思い出が完全に無いわけではない。
柾樹が四、五歳のときだった。
春の庭先で南京鼠に紐を結びつけ、引っ張って遊んでいたのである。それを大人たちに邪魔された。止められただけなのだが、坊ちゃんは癇癪を起こして喚き散らしていた。
そこへ兄がやって来たのである。黒髪で肌の色は白く、手足のすらりと伸びた青年。桜の花びらが胡蝶のように舞う中へ現れた姿は、貴公子そのものだった。
――――柾樹は……。
太郎は何か言って微笑み、弟の頭を撫でたのだ。何を言ったのかは、忘れた。
「……何だったかな?」
今や亡兄と同じ年齢となった小鬼は首を傾げ、足元で生い茂る草を蹴って囁いた。
裏庭は広過ぎて手入れが行き届かず、木々も巨大になっている。表の大名庭園と違い、楢、椎、楠、樫などが雑多に幅を利かせていた。間違えたように石榴の木なども入り混じり、所々に生えた楓の葉が、赤や黄色へ染まり始めている。
「むう……やはりここは、“あだしの”のようじゃ」
昼でも青い薄闇と、白い霧がひそむ木々の間を進んでいくと、柾樹の袂の中でツネキヨが言った。
「鬼に喰われた数知れぬ者が、風に葬られるままになっておるぞよ……」
同じく袂に入れられて、化け狸の二重も呟いている。
「幽霊でもいるのか?」
袂に放り込んである小豆の粒たちへ、柾樹は尋ねた。自分で尋ねておいて、何だか全てが間抜けな夢か何かのようにも思えてくる。
《“他なる世”というほどの意味だ。人間にはわからぬだろう。もしもわかれば、陰府の如きと思うであろうな……》
赤目御前の重い声が、眼鏡の縁から聞こえた。柾樹には木々の生い茂った静かな森に見える。けれど陰府というからには、地獄に近いのだろう。
「その地獄の入口の……『人喰いの井戸』の蓋を開けて、鬼が飛び出てきたりしねぇだろうな?」
名前の通り、人を食い続けてきたという古井戸。柾樹が懸念を伝えると甲高い声で返事があった。
「心配は無用じゃ! 三百年ほど前に掘り当てられはしたが、鬼は鎮撫され土々呂より軽くなったのじゃ。のんでんぼうは、もはや映し世に無いのも同じ!」
ツネキヨがぺちゃくちゃと喋っている。山や川を作っていたほど巨大な鬼も、長い時間と鎮撫によって塵となってしまった。
「どうしてそんな所に御神刀が入れてあるんだかな……」
「何の、のんでんぼうの潜んだ穴ならば『霧降』を隠すのに打ってつけ。よくぞ思いついたものなのじゃ! しかし、それだけでは足りぬのじゃ……他にも仕掛けを施し、封じてあるに違いない!」
考え込む柾樹をよそに、ツネキヨは狐の論理で感心していた。
「はあ……どうしても行くとはの。小鬼、『霧降』は執念深いぞよ。心するが良いぞよ?」
狸の二重が、大仰な溜息まじりで忠告してくる。
「執念深い?」
柾樹は忠告の意味がわからず復唱した。注意すべきは古井戸より、その中にある刀であるという。
「ほ……知らぬぞよ? 『神食み』の刀は、“誓約”を塗りつぶす。神の災厄逃れに重宝されたもの。しかし己の思い通りに動かぬとわかれば、あれは持ち主の首さえ刎ねるぞよ。どれどれ……では『霧降』の昔話でもして進ぜようかぞよ?」
『霧降』は単なる刀剣ではなく、有機物のようだった。持ち主の首まで刎ね飛ばすとは猛々しい。柾樹の左の袂で狸の二重が語り始めたのは、『神食み刀』の縁起だった。
「今は昔、あるところに“男”がおったぞよ。男は用事で出掛けたぞよ。それが日が暮れて戻ると、故郷が消えて無くなっていたぞよ。焼き払われ、人々は連れ去られていたぞよ。その数、四百九十六人。後を追ってもどうにもならぬ。親も兄弟姉妹も、気にくわなんだ者も、好いた者も。何がどうやらわからぬうちに……」
遥か昔。どこかの土地で起きたそれは、人狩りとでもいうものだろうか。
偶然一人生き残った“男”は、攫われた家族や仲間を追い駆け救おうとした。だが刃を向けられ追い払われ、手も足も出せずに時間が過ぎた。
「その者たちは卜占により、常世の神の『針の先』に……人身御供に選ばれたぞよ」
狸の昔話によると、住み慣れた土地から連れ去られた人々の使用目的は『生贄』だった。
「自分と関係ない奴らの、祈願ためにか?」
繁る青草に爪先を湿らせて進み、柾樹は問い返す。
「すべては古の“誓約”であったぞよ。しかし男は、『これはけしからぬ』と思うたのであろうぞよ」
さびしげに、小豆に化けた老い狸は鼻を鳴らした。願を成就させたい側にも理屈や事情があったにせよ、選ばれた側には災厄であり不条理だったとは柾樹にもわかる。抗う手段も成す術も無い。力の無さを呪い、全てを諦めきることも出来ず。嘆き苦しみ悲嘆の底で“男”はある結論を導き出した。
「男は、己も言霊を使う身にならんと欲したぞよ。常世の“神”による歪な奇特は、もう止めねばならぬとな。そうして長い時間をかけ、九頭の大蛇神を映し出し“誓約”を結んだぞよ」
《結んだ誓約は、『映し世に在るすべての神と誓約を食い尽くす』……そして己が身を捧げ、形を成した古の約は、今も終わっていない》
回りくどい二重の話しの最後を、赤目御前が囁いた。眼鏡に宿る幽鬼の声が、神食いの刀へ共鳴するように脳裏で響く。大昔、身を捨てて九頭の大蛇神を呼び出した“男”の願いは、映し世から常世の神々とその影響を消し去ることだった。そして呪詛に等しい『終わらない約束』は、続きが始まるのを古井戸で待っている。
「『霧降』は狂っておるのじゃ! あの刀は何の害も無い細かき神や、かそけき誓約までもお構いなしに食らいつくと、我が姫様はお嘆きであるぞ。しかしナントカと刃物は使いよう。此度はそれを使おうと」
「やれやれ……木乃伊は、あわれよな」
「何じゃ二重!?」
「『霧降』は手始めに、九頭の大蛇を食いつぶしてしもうたぞよ。以来、永き時を嘆きと恨みに縛られ、ギイギイと歯軋りをしながら、湾凪家の元へ辿り着いたぞよ」
狐のツネキヨと狸の二重が、それぞれ勝手に言い合っていた。
「歯軋りするのか?」
「その通りじゃ! さて……そろそろ歯軋りの一つも聞こえてきてよい頃なのじゃが?」
人間に確認された小豆の小狐は、くんくんと匂いを嗅ぐようにして言う。
狐狸化物たちと喋るうちに柾樹は巨樹の間を通り、道とも呼べぬ草の間を抜けて、裏庭の中心部まで来ている。辿り着いたそこには、『人喰いの井戸』が静かに鎮座していた。
帝都という土地は、慢性的に水が不足している。都市の造成が始まった頃から今も続く問題だった。両国の川など半分は塩水のようなものである。天下普請で造った水道は自慢出来ても、水質は自慢出来なかった。玉川、千川、白堀、神田と上水を造ってまだ足りない。井戸が増えたのは、都市が切り開かれて百年ほど経ってからだった。それでも足りず、水溜りのような溜池でも何でも使って凌いできた。水に良いも悪いも言っていられない。住民は「水が不味い」とさえ気付かず飲んでいる場合も多い。そのため良水が湧く井戸は大切にされ、古く名所に数えられるほど貴重だった。大自慢の上水より、良い水が得られる井戸もあった。
そんな昔の大普請の前後に掘られた、古い井戸。
古来より武蔵野近郊の井戸は、垂直に穴を掘る『掘抜井戸』ではなく、螺旋状の階段を降りて柄杓で水を汲む『堀兼井戸』だった。掘抜井戸の方式は、後で上方から仕入れることになる。
相内屋敷の『人喰いの井戸』は、古井戸には違いないが掘抜井戸の形をしていた。
秋の光が枝葉を透け、細く零れている。苔生した大きな古井戸の周囲にも、朱色も鮮やかな彼岸花がぷかりぷかりと咲き始めていた。これまで柾樹は気に留めていなかったけれど、改めて見ると中々美しい。
「ほら、こいつだろ? それで、どうすんだ? 蓋を」
開けるのか? と、言おうとしたときだった。
「の……ッ! んのおおおおーーーーーーーーっ!!?」
ツネキヨが、けたたましい悲鳴を上げた。奇声を聞かされた人間は頭痛と共に、袂の小豆を引っ張り出した。
「何だ? ここじゃねぇのか!?」
「そっ、そうではないぞよ……。神刀は……『霧降』は、そこにある……しかし」
今まで『霧降』の入手に否定的だった化狸の二重まで、動揺している。化狐が新橋で掴んだ情報通り、古井戸に『御神刀』は、あるにはあった。だが化物たち(特にツネキヨ)の様子がおかしい。
「あ、あわわわ……! な、何たることじゃ……『霧降』が、バラバラに……」
怯えた声で言ったのは小豆粒のツネキヨだった。
「バラバラ……?」
《バラバラどころではない。砂と化して……『人喰いの井戸』を埋めておる……》
銀縁眼鏡から、化牛の呻くような呟きも聞こえてくる。
「これは酷いぞよ…………何をしたらこうなるぞよ?」
狸も呟いた。
御神刀は『人喰いの井戸』の中で、砂になっているという。石の蓋を開けなくても、異界の者たちにはわかるようだった。柾樹だけはわからないが、狐狸化物たちの反応から惨殺死体を見たような気分なのだろうと察して、三秒後。
「え、バラバラ……? 御神刀がバラバラになってるのか!? それじゃ持って帰れねぇじゃねぇか!」
「だから何たることじゃと申しておろうがッ!」
「この小鬼は話しを聞いておらぬぞよ……」
重大さを把握した柾樹が吃驚すると、狐と狸が非難がましく口々言った。
「本当に壊れてるのか? この蓋、開けられねぇのか」
納得いかない柾樹は、手に持っていた小豆をまた袂へ放り込む。古井戸の分厚い石の蓋を試しに押してみたものの、動く気配は無かった。違和感を覚えて手を見ると、指先にきらきらと輝く白い粉が僅かに付着し、すぐに蒸発したみたいに消える。
「何だ? 粉……?」
「ふむ……『霧降』の残骸であろうぞよ」
《やはり、井戸の中で崩壊しておるようだな……》
化物たちと話しをしていたところへ、別の声がいきなり入り込んできた。
「柾樹坊ちゃん!? どうなさいました!?」
まどろみを消された気分で、柾樹は背後を見る。草を踏み分け駈け寄ってきたのは、家令の大山だった。屋敷から出るのを禁止されている総領息子は、「しまった」と苦い表情になる。
「お屋敷の中にいるようにと旦那様に言われたじゃございませんか! どうしてまたこんな所に!?」
大山は息切れして、よれよれ近付いてきた。
「……散歩だ。お前こそ、何で俺がここだとわかった?」
「ハア、お糸がこちらへ坊ちゃんがいらっしゃったと申しましたもので」
「あの馬鈴薯……」
女中の告げ口に舌打ちする。この坊ちゃんにかかると、屋敷の女は大体みんな南瓜か馬鈴薯になってしまった。
「それより大山。この古井戸、埋まっているのか?」
「は? はい……? ええ、はい。砂で埋まっておりますが」
「埋まっておりますって……いつ埋めたんだよ?」
「太郎様が亡くなられた、すぐ後と申しますか……」
柾樹から不意な質問を向けられた紺色半被の使用人頭は、首を前へ突き出して頷いている。辺りに無意味な沈黙が広がった。
「……あれ? 坊ちゃん、ご存じでない?」
「……知らねぇよ。蓋がしてあるだけだと思ってた」
目を見開いている家令に、ぶすっとした顔で坊ちゃんが答える。「えっ!」と発した大山は更に柾樹へ近付いた。
「へ? それでは……まさか、その、太郎様の身投げも……ご存知でない?」
つっかえ気味の小声で、問いかけられた。
身投げ。
「身投げだ……? 兄貴は間違って井戸へ落ちたんだろ?」
聞いた柾樹の目元が歪む。今まで「井戸に落ちた」と言っていたのは、周囲の大人たちだった。柾樹は耳に聞こえたそれを信じてきただけである。疑いもせず鵜呑みにしてきた点は放置していた。
「え……ええーー……」
叫んだ大山の方が、胸を撃たれたみたいに後ずさっていた。元々感情の上下動が激しい男であるため、余計にそうなっている。
「堀田様、そこは話しておいてくださいよ! 道楽ばかり教えてこんな肝心なことッ!」
「何ぶつぶつ言ってる?」
草葉の陰に嘆きをぶつけている男へ、総領息子は不機嫌顔で言った。
「大山。この古井戸は兄貴が落ちて死んだ後、いつ埋めたんだ?」
家令の苦悩に関心が無い銀縁眼鏡の坊ちゃんは、自分の聞きたいことから尋ねはじめる。
「はあ、太郎様の身投げがあって間もなく、砂で埋まりました」
「……身投げの後に?」
出てきた昔話しを、柾樹は小声で確認した。
「はい。実はあの時、不思議がございまして……本当なんでございます。太郎様が身を投じた、すぐ後。こちらの井戸が、真っ白な砂で埋まっていたのでございますよ」
大山はただでさえ丸い背中を丸め、声を潜めている。
「お城の天守を逆さに入れて、まだ足りぬと伝わる『人喰いの井戸』が埋まったんでございます。鬼の仕業か天狗様か、驚くなんてものではございません。砂はきらきらときれいでしたが……大旦那様もご覧になって、思うところがおありだったのでしょう。ここへ近付いてはならぬとお祓いもさせ、お庭にあった古い『力石』を使い、石工にこの石の蓋を彫らせて封じられたのでございます」
『人喰いの井戸』の奇跡を語る。目の当たりにした当時の大山たちは、伏し拝んだとのことだった。
「ふーん……」
言ったきり、金茶頭の坊ちゃんは黙りこむ。見上げる大山の小さな目は、『信じてもらえてない』と悲しんでいた。
「そうして太郎様のご自害は、世間には『事故』で通して、葬儀一切執り行ったんでございますよ。今思いましても何故あんな……。せめて早まらず自棄を起こさず、あと少しグッとご辛抱してくだされば、いくらでもやり直せたでしょうに。大急ぎで井戸の向こうへ行ってしまわれて、柾樹坊ちゃんとご兄弟になる暇も無かったじゃございませんか。思い出すたび、惜しいやら悲しいやら……」
罅割れ緑に苔生した古井戸を見つめ、大山は大きな溜息と共に項垂れる。
「どうして身投げになったんだ?」
兄の死について、外向けに発表された通りの『事故』と信じてきた弟は尋ねた。
「ありていに申しますと……太郎様は、大旦那様の『賽』を盗もうとしたのでございますよ」
古株の使用人頭は、一つ大きく息を吐く。
天へ向かって伸びる朱色の彼岸花が、葉陰を吹きぬける風に揺れていた。




