御許へ
柾樹は母親を殆ど覚えていない。生まれて間もなく引き離され、大勢の乳母と子守女に囲まれて育った。祖父、幸兵衛の方針だったようである。写真も無いので、母親の輪郭さえぼやけていた。
それでも努力すれば、幾つかの映像を思い出せる。
新緑の下で佇む馬車と、そこへ乗り込もうという兄の太郎がいた。その羽織を整えてやっていた女を、遠くから見た記憶がある。たぶんあれが、母の『琴』だった。
母は柾樹が五歳のとき、家を出ている。全方位納得済みの離縁ではなく『失踪』となっているけれど、もう相内家の人間として数えられてはいなかった。別離から十年以上も経過しており、たとえどこかで再会しても気付かないはずだった。しかし、あそこまで姉の『やすの』や『よしの』と似ていれば、柾樹もオヤと思う。屋敷の前で柾樹に声をかけてきた女は、父親の違う双子の姉達に生き写しだった。
母親だったのではないかと、疑っている。
無論、他人の空似も考えられた。それでも真っ赤な他人ではなさそうだという、こちらの感触の方が柾樹の中で勝っている。母親本人。あるいは母親の、姉妹や親戚。はたまた琴の娘で、三人目の姉……。母本人だとすれば、もう五十近いはずで、それにしては若く見えた。
「もう一人、姉貴がいたりしてな……」
自室の寝台で寝転がった柾樹は、天井に向けて呟いてみる。
陽射しが反射して、明るく壁や天井を照らしていた。縁側では、常緑の八手の葉が艶やかに光っている。
顔かたちに限った話しではなく、『ニオイ』のようなものが姉達と似ていた。感じたそれが、よしのかやすのか、どちらに近いのかまでは言語化できない。もし年の離れた姉でございますと説明されたら、それもまた有りそうだった。姉が増えたとして、おかしくない背景もある。
琴は芸妓だった。柾樹には父親の違う兄と姉が、総計三人いる。やすのとよしのは柾樹より八歳年上で、兄の太郎は今も生きていたら、三十歳を過ぎていたほどに年が離れていた。父親はいずれも、どこの何者か知れない。基本的に、芸者は芸を売る。だが建前は建前。少し前の時代、この辺りの線引きは非常に曖昧だった。
当然、琴は金襴緞子に嫁入り道具や侍女を引き連れ、馬車で典雅にお輿入れをするお嬢様とは違う。大旦那様、幸兵衛が座敷で見つけて、拾うのも同然に連れてきたのだった。それも己のお部屋様ではなく、息子に後添いとして宛がったのだ。
柾樹の父の重郎は、当時十年連れ添った前妻の『千早』を病で亡くし、まだ子供もなかった。
『後嗣が要る』
という、この任務のために琴は召抱えられたと言えそうだった。子供上手の実績を、認められたと想像される。世の中では夫が酌婦に産ませた子を、妻が育てる例も多々あった。華族は自分の妾を、宮内大臣へ届け出るものと決まっている。夫が他の女と内縁関係を結ぶのが、妻に対する貞操義務に反すると大審院で判決が出るのは、元号が二回改まってからだった。
であるからして、問題があるとすれば母の由来身辺が皆目わからないため、『知らない親戚』が現れる点だけだった。ただでさえ資産があれば、所得税として有象無象が寄ってくる。『遠い親戚』が限りなく増えるのは危険だった。もっとも、母とて海の泡から生まれたわけでもないから、柾樹が知らないだけで、とっくに素性の調べはついていて、伏せているだけの可能性もある。
しかし何がどうあれ、まず相内家を『貴族』に成り上がらせた祖父の幸兵衛自身が、名家名流とは無関係。どこの馬や牛の骨が混ざりこもうが、四民平等で結構だと柾樹個人は思っていた。
それで、あの女はどうも柾樹の血縁関係者らしいが、何だったのかという話しに戻る。
よしのも、やすのも母や過去について話さない。語るのを父や祖父に禁じられてきたのかもしれなかった。柾樹も母親やそちら方面に興味や用事がないから、知らずにきた。知らずにきたので、重大と感じていなかった。
柾樹は『相内家』の全てを軽んじてきたと言って良い。軽んじてきたのが、今回は裏目に出た。
手紙を受け取った後、屋敷の裏へ回るつもりだったのに、柾樹は何故だか表玄関口の大名門へ入ってしまったのである。そこで門番の村井次郎と与八郎親子に見つかり、驚かれた。
「ややや、柾樹様。どうなすったんです?」
次郎に悪意なく言われたが、自宅に帰っただけで、どうもこうもない。与八郎が荷物を受け取ろうとしたのは断わった。門から母屋の大玄関までの道のりがまた遠く、歩くうちに家令の大山まで、どこからか転がるように駆けつける。
「柾樹坊ちゃん、よくお帰りになられて……!」
帰ってきた柾樹に大山は涙ぐみ、殊更に騒ぎ始めて鬱陶しかった。
「帰ったのが太郎兄貴じゃなくて、残念だったな」
通り過ぎざま言ったら、大山は酸欠の鮒みたいな顔になっていた。酸欠の大山を無視し、だらだら続く坂道を上っていくうちに『坊ちゃん』の帰宅は邸内に知れ渡る。
到着した母屋の玄関前には、使用人たちが並んでかしこまっていた。
柾樹は大仰な出迎えを笑顔で喜ぶほど人好きではなく、花魁道中でもあるまいしと気分が悪くなる性質だった。しかも彼らを従えるように、よしのが踏ん反り返っていたから、ますますイヤになる。姉は敵を迎え撃つかの如く、ここの差配を握るのは我であると主張せんばかり胸を張っていた。
「また帰ってきたのね。何の用?」
よしのは弟へひたひた近付き、剣呑に言い放った。
常ならここで、悪口の応酬の一つも始まる。だが今日の柾樹は黙って、次女の美しい顔をしげしげ眺めていた。
目鼻立ちが整い、歯並びは良く、化粧が濃い。艶やかな西洋揚巻に結った、豊かな黒髪がよく似合う。髪には珊瑚のついた銀の簪。少々つり目気味だが、姉の体型も輪郭も、先ほど会ったあの女と似ていた。着物を少し地味にして丸髷に結ったら、瓜二つだろう。やすのも並べれば、瓜実は三つになる。物思いが優先され、姉の迎撃にも柾樹は不機嫌や喧嘩腰が出てこなかった。
「な、何よ……?」
よしのはよしので、悪態へ食いついてこない弟の態度に、違和感があったようである。背丈を追い越されているので、見上げるしかない弟を見据えて言ってきた。
柾樹は銀縁の眼鏡を右手でずり上げ、袂から例のものを差し出す。
「これ」
「え?」
弟の妙な静けさに、よしのは警戒し身構えていた。
柾樹が差し出したのは、さっきの手紙。荷物が多いので、さっさと受け取ってほしかった。押し付けるみたいに渡して、姉の横を通り抜ける。父と柾樹だけが使用を許されている玄関に入って下駄を脱ぎ、自室の方向へ一歩踏み出した時だった。
手紙を開いたよしのが、変な声を出したのである。
「あ」という、息をのんだにしては音が大きかったが、日常出さない声だった。一足飛びに邸へ駆け込んで、立ち去ろうとしていた柾樹の袖を、白い手がわしっと掴んだのである。
「アンタこれ、どうしたの?」
丸めた手紙を握り締め、よしのは囁きかけてきた。
「さっき、屋敷の近くで渡された」
柾樹は通常の音量で、顎を使い正面門の方角を指して返す。
「誰に?」
「知らねぇよ。年増の女」
表情が無いよしのの顔を見下ろして答え、少ししてから柾樹は目を細めた。
「知らなくも、ないのかもな?」
白けた笑みと共に言った。
柾樹も手紙を受け取った後、目は通したのだ。明確な宛先は記されておらず、『御許へ』とあった。
あの女が何者か知らないから、自分以外の者への手紙だと思った。それで最初に出くわしたよしのへ渡したのである。怖がる少女へ、蛇の抜け殻でも押し付けてやるのに似た、意地の悪い遊び半分の気分だった。だが弟におちょくられても、よしのは怒らない。
「何を話したの?」
まるで娘の紅葉へ話しかけるときと同じ声で、尋ねてきた。気の強い次姉の瞳には、普段なら柾樹に向けない色彩が宿っている。珍しい表情だった。
「別に……何も?」
急に姉貴みたいな面しやがって、と柾樹は不機嫌を思い出し、己の袖を捕まえている手を払って玄関を離れる。
「俺に宛てたもんじゃねぇだろ?」
文頭に「どうせ」と付きそうな口調で言い残し、袴を蹴って奥へ向かった。手跡を見ただけでこれほど反応しているので、やっぱり手紙の差出人はよしのが知っている相手だったのだろうと思った。それに柾樹が屋敷へ帰った『目的』は他にあるので、いらぬ手紙と関わりたくなかったのである。
けれど部屋へ戻り荷物を置き、仕事を始めようかと考えていたら屋敷の騒ぎが大きくなってきた。屋敷全体としては静かだったが、動いた人が大きい。
当主の重郎だった。
父が柾樹の部屋へ来たことなど、これまでない。父のいる場所へ呼び出されるのが、普通だった。その人が、自ら息子のところへ足を運んだのである。総領息子の柾樹に対し、放任と言って過言ではない父にしては、珍しい干渉であり反応だった。
「柾樹。しばらく家にいなさい。屋敷の外へ出てはならない」
驚いている息子の顔を見るなり、一方的に父は命じた。
例の手紙の件をよしのから聞いたには違いなかろうが、厳しい口髭を蓄えた顔は凍ったような無表情で、心の内まで窺い知れない。後ろへ撫で付けられた父の黒髪は、若干白髪が混じっていた。
仔細説明は無く、返事をする側に選ぶ余地もない。檻も鎖もないけれど、これで子爵家の小鬼は屋敷に繋がれたも同然の体となった。手紙をよしのに渡したのは失策だったかと、今になって柾樹は舌打ちする。
その気になれば見張りも掻い潜れる自信はあった。
でもまずは状況の整理をしようと、久しぶりの自分のベッドで金茶頭は天井を眺めている。
畳の部屋には絨毯が敷かれ、柾樹が活用する気の無い床の間にも、瑞々しい花が活けられていた。書き物机の上には、ランプと置き時計。ベッドのほかには、たまに本を読むときに使う舶来の安楽椅子が、縁側近くで二脚向き合っていた。持って帰った荷物は家の者たちに触るなと命じたため、置いたままになっている。縁側からは広い池のある庭が一望できた。池の奥には小さい滝も見える。庭は今も大名庭園の名残をとどめて松が優雅に枝を伸ばし、庭石や築山が配され、洋館の大広間の前には燈篭や手水鉢も並べてある。
《……動かぬのか?》
銀縁眼鏡に宿る赤目御前が、語りかけてきた。
柾樹はつい音源を探してしまう。眼鏡だったと思い出し、深呼吸をして「そのうちな」と答えた。他人が見たら独り言を言っていると見えるのかなと、思ったりした。
「屋敷のどこかに、何かありそうか?」
《わからぬ……だがこの屋敷は、薄い『結界』のようなものに覆われておる。やはり、どこかに『霧降』があるのだろう……いかなる細工を弄して、『霧降』を封じてあるのか》
柾樹の問いに、赤目御前が答える。
『結界』という言葉の意味については、柾樹は話しの流れで大まかに理解していた。
《『霧降』には、封印がかけられているのだろう?》
頭の中に直接響く声で、眼鏡に宿った幽鬼が囁く。そうだったと思い出し、柾樹は起き上がって財布を開いた。
「おい、お前ら知ってるか?」
覗いて尋ねると、財布の底で狐の化けた小豆が喚く。
《古井戸じゃ! この屋敷には、古い古い、古井戸があるであろ? そこを探すのじゃ!》
二粒の小豆のどちらか見分けはつかないが、聞こえたキンキンとやかましい声はツネキヨだった。
「古井戸? ああ、裏庭の……」
なるほどと手を打ちかけた人間へ
《やめなされ小鬼……あれは、鬼へ繋がる穴ぞよ?》
もう一粒の小豆が、まだしつこく止める。狸の二重だった。
「山の底にいるとかいう鬼か?」
柾樹が言うと、小豆は丸い見た目に似つかわしくない重々しい声で答える。
《さよう……三百年ほどの昔、神田山で大きな普請をした折に、鬼を掘り当ててしまったぞよ。目を覚ました鬼は『のんでんぼう』と名を付けられたが、穴を覗く人間を捕まえ食ってしまう。埋め戻すのも叶わぬ大穴は『人喰いの井戸』と呼ばれ、長らく蓋をされ封じられてきたぞよ》
小豆に化けた狸は、昔話を物語った。御一新の騒動により、住んでいた人間も根こそぎ入れ替わって、ここの過去を知る人はいない。今では『人喰いの井戸』という名前と、数え切れないほどの人が落ちて死んだそうな、との伝説が残っているだけだった。
「は……それで『人喰いの井戸』か……」
柾樹は寝癖の付いた琥珀色の髪を掻いた。
祖父、幸兵衛がこの家屋敷を買い取るより遥か昔に現れた、古井戸の伝承の最初。
古の荒ぶる怪異は名前をつけられ、封じられ鎮められていたのだ。この土地や周辺に生きた人々は、井戸が街に囲まれてからも『そこにいる鬼』を敬い、慰め、拝みながら付き合い続けてきたのだろう。
《じゃが、『霧降』はあそこにあるのじゃ!》
財布の中のツネキヨが、飛び跳ねそうな勢いで主張した。柾樹は不思議に思い、また財布を覗く。
「ツネキヨ、何で急に『刀』の隠し場所が知れたんだ?」
《新橋で女の話しを聞いたのじゃ。つい最近なるぞ。『御手洗』という男と話しをしておったのじゃ!》
小豆のツネキヨは、自信に満ちた調子で喋っていた。
「女ってのは、さっきの女か?」
《知らぬ! 某は湾凪姫のニオイを辿って行くうちに、狐も歩けばなんとやら。新橋の停車場にて、その者達の立ち話しを聞いただけなのじゃ。ええい、ちまちまとやかましいのう! 三介はつべこべ言わず、早う古井戸へ行けば良》
「あー、うるせえ」
聞いたところで、柾樹の欲しい情報は出て来そうにない。うるさいのでバシッと財布を閉じると、小豆は静かになった。
「さっきの……あの女は、化物じゃねぇんだな?」
自分のかけている眼鏡は、自分ではほぼ見えない。柾樹はまたベッドで仰向けになり、天井へ向けて尋ねた。
《常世の者ではない。映し世の人ではあった》
赤目御前の落ち着いた声で、返事があった。あの女は柾樹の財布に潜んでいる狐や狸の仲間ではなく、本物の人間ではあるのだろう。
屋敷の門前で女から渡された手紙は、短いものだった。都々逸でもしたためられているのかと思っていたら、違った。
『一筆しめし参らせ候』とあり
――今生にては、再び愛しきお顔を拝し候ことなきと存じ参らせ候えども、十と三年のやる瀬なさにまかり越したるあさはかさ、何とぞ悪しからず思し召しのほど、願い上げ参らせ候――
こんな手紙だった。
名乗りもせず、自らの身辺についても触れず、また来るとも、お達者でとも書いていない。
自分以外の存在に、「ここに来ている」と報せるためだけのような手紙だった。




