手の鳴る方へ
日は昇っていて、開いた窓から光が四角く射し込んでいる。
――――どうすれば良かったのだろう?
運び込まれた蔵の二階で、雪輪は天井の黒い梁を見上げ考えていた。大長持に背を預け、床へ座り込んでいる。運び込んだ人達が寝かせようとしたのを、こうしてくれるよう頼んだため、こうなっている。膝が斜めになって行儀悪いけれど、そこまで直してもらうわけにもいかない。
古道具屋の蔵へ、雪輪は戻ってきてしまった。
身体の震えは止まっているものの、思うように動けない。呼吸もしているようで、していないようにも感じ、わからなくなってきていた。伏せがちの瞼は、瞬きさえ殆どしていない。今までチョコレートは一時的に雪輪を『元の身体』か、それに近い状態へ戻してくれていた。そのチョコレートを食べても、うまく身体が動かない。
“人魚の肉”で異形と化した八百比丘尼のように、雪輪の肉体も人間のそれから異なるものへ変質しはじめているのではないかと疑っている。刃物で切ったら血は出るのかしらなどと、生人形染みた娘は淡い光りを浴びて、よそ事みたいに思っていた。
灰色の太織を着た人形みたいな雪輪を囲む形で、書生三人も蔵の床に座り込んでいる。先ほどまで柾樹が、市ヶ谷から古道具屋へ戻るまでの経緯を説明していた。そして嵐と共にやってきた『無名様』のことも。
「目を覚ました『子授けの神様』と、神食いの刀かぁ……」
胡坐をかいた千尋が、声に感心と驚きとを半分ずつ乗せて言う。
「……雪輪ちゃんの故郷の山に隠されていた、『霧降』という御神刀が取り払われてしまったんだね? おかげで君は子授けの神通力を授かって……『子授け観音様』と呼ばれるまでになったと、そういうことか」
痩せた背中を丸めた長二郎が、事態のあらましをまとめていた。顔は若干、青褪めている。
「あのとき土々呂は、御神刀のことは言わなかったよ」
「『子授け観音』の、噂話しをしたときか?」
雪輪の真正面で、膝に頬杖ついた柾樹が尋ねた。
「うん……でも雪輪ちゃんに、古道具屋を出るように言ってくれとは、言っていた」
頷いた長二郎は、雨の街角で薬売りの土々呂に接近されたときについて語る。
「土々呂は、この古道具屋に入れないんだろう? だからまずは火の無い所に煙を立てて、雪輪ちゃんを燻り出そうとしたんじゃないのか?」
「それで田上に近付いたのか」
古道具屋に入り込み雪輪に近付いたものの、化猫の火乱に追い出され、九十九神に閉め出された土々呂。籠城する相手を誘き出そうと、一計を案じたのだろう。
「河童の一件も、あったからなぁ……」
長二郎は細い肩を竦めて、渋い表情をしていた。長二郎が標的にされたのは、おそらく『河童の塗り薬』に関わっていたからだろう。
「そうして雪輪さんは、この前ここへ空き巣に入った『かなめ』という……子授けの神通力で生まれた最後の生き残りの子が来るに到って、『無名様』という神様に呼ばれたと考えて蔵を出たんですか」
「はい。勝手の次第ながら、これまでのご縁と思い切ったつもりでおりました」
雪輪の躊躇いのない返事を聞くと、千尋は短い黒髪をがりがり掻いた。
「そう簡単に思い切らないでくれ……これでも心配したんですよ? お女中に暇払いはしていないんだ」
図体の大きな青年は苦笑まじりで、女中の急な失踪に苦情を訴える。
「仰るとおりで、ございましたね」
雪輪も相手の表情で、どうやら千尋が女中に何か嫌な思いをさせたかと気を揉んでいたようだとわかった。
「しかし神仏に呼ばれたとなったら、こちらは勝ち目がないなぁ……」
千尋は弱ったという風に、息を吐く。
「おまけに動けなくなってしまうとは困った神様だね。『針の先』とかいう、人柱は諦めてもらわないとな」
ここでも慣れるのが早い長二郎は、『この世ならぬ者』に軽口を叩いていた。
「この前ツネキヨは刀でその神様を……『無名様』を打ち払うと言っていたよな?」
顔を上げた癖毛髪の書生が、他二名に確かめる。
「ああ。刀の在処がわかったと言っていた。あれが『霧降』だろ」
小声で言った柾樹の面白くなさそうな眼差しは、蔵の隅に潜む湿った暗闇を見ていた。それを聞き、千尋が両手の拳を握り締める。
「そうか! 狸が桜の姿で化けて出たときも、『霧降』を探してるだの何だのと言ってたんだった!」
「え……? 何だそれ? 僕は聞いていないぞ?」
目を輝かせている千尋を、長二郎が見上げた。
「それはそうだ、オレはそんな話しスッカリ忘れていたんだ!」
「あー……ソウデスカ」
感動している友人の相手するのも疲れた様子で、貧書生は目を逸らしてしまう。
「ツネキヨに、刀の場所を聞いておけばよかったなぁ」
「柾樹がせっかちなのがいけないんだぞ。人でも狐でも、相手の話しは最後まで聞くもんだ」
「うるせえ、後になってガチャガチャ言うな」
書生達は頭を寄せ合い、話していた。
「……狐に、化かされているのではございませんか?」
長持に凭れた浮世人形の娘が乾いた声で囁くと、金茶頭の眉根が寄って雪輪を睨んだ。
「化かしてきたお前が言うな。それに家宝の御神刀が盗まれたせいで、迷惑してたんだろ? 悪かったな、返してやるって言ってるんだから受け取っときゃいいだろうが」
ひどい物言いが跳ね返ってくる。他二名は物言いたそうな目をして黙っていたが、雪輪は相手の口の悪さより別の部分に驚いていた。柾樹は御神刀に『熨斗を付けて返す』と言ったけれど、あんなものは勢い任せの売り言葉に買い言葉である。でも実現する気らしい。柾樹が駿河台の実家へ近付きたがらなかったのは、雪輪も承知していた。
「それはもう良いのです」
「俺が良くねぇ馬鹿。じゃあ何で話した」
雪輪が言っても金茶頭は譲らず、睨む視線と共に返してくる。
「……十二階で、鬼のようなお顔になっていらっしゃったからです」
「鬼? 俺が?」
やがて娘が口にした言葉を聞き、柾樹はまた眉をひそめていた。
「鬼になってしまうのではないかと、少々、案じました」
青白い顔に表情の無い娘は、かなり控えめに言った。
数鹿流堂を飛び出す前辺りから、柾樹は記憶が無いという。前後不覚のまま市ヶ谷まで飛んで行ったので、目隠し鬼さんどころの騒ぎではなかった。雪輪は長二郎や千尋が引っ張られたように、柾樹までもがこれ以上、常世の方へ傾かないよう“鬼”の件を打ち明けた。しかし記憶が無い本人は気軽なのだろう。
「元に戻ったんだから良いじゃねぇか」
慎重や深刻というものが、ごっそり抜けた発言をした。
「どうせ『刀』の在処は、俺の家なんだろ? ツネキヨもそれとわかって古道具屋に乗り込んできたんだろうからな。屋敷へ帰って事情を暴いて、ついでに刀を探して、ここに持って来りゃ片付く話しじゃねぇか。何で今になって妙な遠慮するんだよ?」
柾樹は逆に訝って、銀縁眼鏡の向こうから雪輪を観察している。
「何か、おかしゅうございます。見つからなかったものが、今になって突然見つかったなど……」
浮世人形に似た姿で、血の色も見えない肌の娘は声も微かに言った。
今まで行方不明だった『霧降』が見つかり、無名様がやって来て、柾樹は鬼になりかけたのである。だがこの懸念も、天邪鬼には響かなかった。
「どの道、寝て待つならお前は黙って寝てろ。探して見つからなかったら、こっちから『諦めろ』って言うくらいはしてやる」
「おいおい……」
親切そうで、そうでもない柾樹の言い草に千尋が項垂れている。言えば言うだけ全て逆効果になると、半ば諦観に近い感覚で雪輪も黙った。
「うーん、しかし畜生とはいえ、ツネキヨは悪い奴に見えなかったけどな……?」
長二郎が素朴な疑問を口にする。
「聞くところでは……あの者は播摩の姫御世の、あねさま人形であるとか。指図どおりに動いている者に、悪意というほどの悪意はございません」
庭先で会った狐の命婦を思い、娘は言う。雪輪もあのツネキヨという無邪気な神の眷属が、悪意ある存在とは認識していなかった。
「お前、あの狐や狸と知り合いなのか? 布引姫と、轟刑部は?」
ツネキヨについて話す雪輪へ柾樹が尋ねる。
「火乱から幾つか聞いた限りでございます……きっと化かしに来るであろう、用心するように、と」
動けない娘は、囁くように言った。
雪輪は柾樹と違い、布引姫たちと直接対峙したことはない。名前と、過去にこちらの映し世へ現れた彼らが何をしてきたかを聞いただけだった。狐狸は人の心を読んで上手に化かす。だからもし近付いてきても甘言に乗って踊らされてはならないと、化猫は忠告したのだった。
「俺の夢に出てきたとき、布引姫はお前を『播摩の城へ連れて行く』とか言ってやがったが?」
肌も浅黒い仏頂面が、動かない娘の白い顔を伺っている。柾樹も今まで、口外せずにいた事があったようだった。火乱と仙娥のお喋り。化け狐の布引姫と、化け狸の轟刑部。彼らの指示と忠告。どれもこれも、柾樹が『夢』として始末していた話だったという。
「布引姫様は、わたくしが城へ入り……二、三百年もすれば、無名様も消えるというのでございます。そして無名様から『針の先』のわたくしを匿うため、打ち払うために神食いの『霧降』が必要と」
ツネキヨはそう言って、雪輪を外へ誘おうとした。それを雪輪が断わった衝撃で、きれいな化けの皮がはがれてしまっていたのが思い出される。
「山の神が追いかけてくるんだものなぁ、昨夜みたいに……特別の武器でも無いと戦えないんだろう」
千尋が大きな図体を縮めて呟いた。
御神刀の『霧降』。用いればきっと“誓約”を塗りつぶすことも出来るのだろう。呪禁師の華厳は無名様を滅ぼさないよう、『霧降』へ呪を十重二十重と重ねて緻密な封印を施したと言っていた。
「しかしながら無名様に仇なせば……反動で何が起こるか、わかりません。“コヨーテの拳銃”の持ち主が、どのような末路を辿ったか覚えておいででしょう?」
意識して空気を吸い込み、白い娘は再び唇を開いた。
「布引姫様のお慈悲の言葉を、鵜呑みにするのは、危ういものと存じます」
黒い視線を持ち上げ、静かに雪輪は続きを添える。
誓約を放棄した赤目御前は尋常な死を失い、死ぬより無残な体となった。誓約から逃げ続けた果てに訪れたのであろう、ロバートの死に様も酷いものだった。彼は雪輪と同じで、大昔に結ばれた神との約など何も知らなかったはずである。
「狸と狐は力比べしてるらしいしな。あの狸は……轟刑部の方は、『手を出すな』って言ってやがった。布引姫とは反対なんだ」
夢に現れた伊予の大狸を思い出す顔で、柾樹が付け足した。
「力比べ? 何だそれは?」
「狐と狸が、喧嘩しているのか……?」
「知らねぇよ。夢の中で火乱たちがそう言ってただけだ」
千尋と長二郎の質問へ、銀縁眼鏡は無愛想に返答している。狐狸が王子の辺りで喧嘩しているだけならば害も無いが、如何せんどちらも異界の怪物だった。
「火乱に詳しく問い質せれば良いんだけどな」
「そういえば火乱の奴、どこへ行ったんだ?」
「戻って来ないなぁ……。あいつは雪輪さんを守っているんですよね?」
雪輪の周囲で、出たり消えたりしていた赤毛の化猫について書生達が尋ねる。
「……火乱は『針の先』を守る式神で、水先案内にございます」
長持に凭れた青白い娘は、一呼吸考えた末に答えた。
「え、案内? どこへ連れて行くんです?」
「『常世の国』と聞いております」
「常世の国……!?」
終わらない夜の国と言われる、永遠の世界。
「化猫でございますから」
極楽浄土へ連れて行ってくれるはずはないのである。明るくも暗くもない口調で雪輪が答えると、聞いている青年達は数秒、言葉も顔色も失っていた。
「ええと…………ま、まぁとりあえず、その山の神様にはもう一度寝てもらおう!」
「うん、それがいい! そうしよう! ということで、やっぱり柾樹は御神刀を探して来い!」
「え? ああ、うん?」
冷や汗をかいている千尋と長二郎に詰め寄られ、柾樹がもさもさ返事している。
そこへ
《中々、面白い談義をしておるな……》
薄暗い蔵の二階で、法螺貝が鳴るのに似た声が響いた。音源を探した人間たちは天井の北隅で、黒い水の塊がふるふると凝っているのを目の当たりにする。
「赤目御前様……?」
黒い水の中で二つの真紅の球体が揺らめいていた。庭に居たはずの赤目御前で、牛の形をしていない。
《常世の神と一戦交えるなら、わしも具して行け》
真紅の目玉に怨念を湛え、蔵の天井に張り付いた化物が言う。
「お前……変に絡むな? 何かあの野郎に、恨みでもあるのか?」
柾樹が胡散臭いものを見る目で尋ねた。すると天井の隅の黒い水は徐々に牛の頭の形となり、赤い目玉が暗く燃える。
《わしは逃れられぬ……。消えるのならばその前に、常世の神の『因果の渦』へ、一矢報いてやろうということよ》
異形の幽鬼は、怒気を含む声音で言った。理不尽を塗りたくられた己の宿命へ、徹底的に抗う心積もりなのだろう。敗北が見えていようと執念と意地を貫き通す事に重きを置く赤目御前は、皮肉なものだが実に人間臭かった。
「加勢するってのかよ? ふん、それならそれも良いけどな……お前、古道具屋の外に出られねぇんだろ?」
数鹿流堂へ逃げ込んできた“隅田川の主”を見上げ、柾樹はまた質問する。
これまで赤目御前は帝都の界隈で、重き者として君臨してきた。だが現在の状況下においては軽い九十九神たちの守る場所にしか居られず、重い者はもう足場を保つのさえ危うい。“強さ”とは、そんなものなのかもしれなかった。
《……そうだな。では……そなたのこれは、“銀”よな? これへ宿るか……》
赤目御前は少し考えて眼下の柾樹を見ていたが、言うが早いか天井隅から水滴も残さず消える。同時に銀縁眼鏡の蔓の部分が、派手な静電気に似た青白い火花を発した。
持ち主は「うわ!」と慌てて眼鏡を外す。
《思うたより苦しゅうない……。ここなれば結界の外へ出ても、しばし身を潜めていられよう》
法螺貝の声が、眼鏡の銀縁から染み出てくる。
「眼鏡が……」
「喋った……」
長二郎と千尋が唖然として言った。吃驚させられ舌打ちした柾樹も、顔を顰めて耳の辺りを撫でている。だが然程躊躇うでもない。化物が宿った銀縁の眼鏡をかけなおした。
「まぁいい。田上たちは数鹿流堂に残って見張れ。何かあったら報せろ。蔵に誰も入れるなよ」
次々言い置くと、さっさと立ち上がり座を蹴って踵を返す。
「ああ、うん……」
決断と動きの速さに追いつけず座ったままで長二郎が答え、千尋も心配そうな顔で見送っていた。
「鬼になっては、なりませんよ」
こうなったら梃子でも耳を貸さない柾樹へ、雪輪は声をかける。梯子段を下りていく人は一度も見返らないし、一言も答えなかった。琥珀色の髪の後姿を見送り、浮世人形みたいな娘は蔵の中で再び物思いに沈む。
多くを人に頼らなければならない自分に、疲れてしまう日はこれまでもあった。でも、それとは違う苦さが雪輪の胸に詰まる。
一度は身投げを考えるほど、雪輪は『針の先』にはなりたくなかった。あの時は折りよく気兼ねも消えていて、これは良い、人として始末せんと思った。力無い身とはいえ、宿命に翻弄されるだけの弱者でいたくはない。醜態をさらす前に、己で決着をつけなければと考えた。しかしそれは雪輪に叶わなかった。
そうして後は、長屋に入り込んで老人の看病をしたり、古道具屋で自分は食べない飯を炊いたりして日が過ぎた。書生達のくだらない話しを見聞きし、己の着ない着物を縫い、使わない道具を磨いて時間は費やされ、とうとう自分のことは何も出来なくなった。けれどこんな、無くても良かったような時間の中で、雪輪の内の何かが少し解けたのかもしれない。
かつて雪輪は、人々に求められるまま子授けの祈祷をした。平蔵を哀れんで、幼い日の記憶を隠した。おちやを旅に同行させた。御室の里を離れた。弟と帝都へ来た。決断と選択は悉く裏目に出て、誰も救われず、未来が真っ黒な口を開けて、すぐそこで雪輪を待っている。
それでも
――――わたくしに足りないものは何で、これから成すべきことは何だろう?
娘は自らに、そう問いかけるようになっていた。




