居語り
古時刻で呼ぶところの虎の刻。野分け名残りの風の音が、数鹿流堂の暗い台所へ忍び込んでいた。
小さなランプの灯りを見つめ、腕を組み耳を澄ませていた長二郎は、人の気配と足音を察知して顔を上げた。勝手口を開けるが、裏戸を開けて入ってきたのは千尋一人。溜息が洩れた。
「どうだった? 見つかったか?」
結果の予想はついていながらも長二郎が尋ねると、尋ねられた千尋は大きな身体全体に疲れを滲ませ首を横に振った。
「だめだ、どこにもいない。まだこっちにも……?」
「戻って来ないよ」
留守番をしていた人の返答を聞き、探し回っていた側も長々と息をつく。柾樹が突然古道具屋を飛び出して行って、数時間が経過していた。
「柾樹の奴……どこへ行ったんだろう? 急に、思いついたように飛び出して行ったよな?」
「思いついたというか……殆ど、人変わりしたみたいに見えたけどな」
戸を閉めた長二郎が俯く。
あの時、二人もすぐに後を追って出た。しかし柾樹は道から掻き消えてしまったのだ。ぬるい風が舐める大通りでは、水溜りの月が震えて光っているだけだった。
「誰か来たのか? 長二郎は何か聞こえたか?」
母屋の框に腰掛けて泥だらけの足を拭きがてら、千尋が問いかける。長二郎は意味もなく板の間を行ったり来たりして、眉間を狭くしていた。
「聞こえなかった。聞きたくない。これ以上、何も来てくれなくていい」
ひとりで呟いている。
柾樹が逃亡する直前に起きた怪異と不可思議を反芻し、長二郎は濡れた犬のように身震いした。裸足の足を止め、数鹿流堂の室内へ目を向ける。古道具の溢れる部屋は元の木阿弥というか、滅茶苦茶になっていた。
片付けなければと長二郎が思い、足を拭いた千尋が部屋へ上がろうと片足を上げたときである。
微かに、法螺貝のような音が聞こえた。
耳鳴りかと思ったその刹那。
「ぎゃわあ!」
「ぐふぉお!」
「ヒイイイ!?」
三番目の叫び声は長二郎のものだった。
先の無様な声に触発されて出ただけであり、振り向いて事態を確認したのは一秒後。
「クソッたれが……」
冷たく暗い土間で、柾樹が千尋を座布団に毒づいていた。千尋は身体のつくりが丈夫だから耐えられたようだが、長二郎だったら間違いなく数日は寝込んだ。遠慮なく友人を踏み潰していた柾樹が、抱え込んでいた白い塊を開放して立ち上がる。
開放されたものは、ゆっくり動いて口をきいた。
「ここは……数鹿流堂……?」
澄んだ声。墨より黒く長い髪。血の気の無い青白い肌と、異様につり上がった黒い目。色褪せた灰色の太織。長二郎も千尋も、柾樹より彼にくっ付いてきた『おまけ』に釘付けになる。
「ゆ、雪輪ちゃん! 無事だったのか!?」
「わあああ、良かった、心配していたんですよ!」
「テメェら、俺の心配もしろ」
機嫌が斜めになっている柾樹をよそに、踏み潰された痛みも消えた千尋と飛んできた長二郎は『女中』の帰還を喜んだ。震える娘は漆黒の瞳で二人を見る。少し目礼したと思うと、青白い顔が上を向いた。他三名も、首を上へ向けた。
「う……な、何だ?」
「こういうのは、もうご遠慮願いたいんだが……」
半分腰が抜けて動けない千尋の横で、逃げ出す体勢になった長二郎は口元が強張っている。
暗い土間の天井一面に、陰より尚暗く黒い水がぬめぬめと凝っている。水の中には人の頭ほどもある赤い光りの塊が二つ、揺れていた。
そして誰かが声を発しようとしたとき。
柱や建具から、キチキチざわざわと、小さな黒い脚が生え始めた。
「うわ、うわ、また出たぁ!?」
「来るな! こっち来るな!」
「前より騒ぎがひでぇぞ!?」
書生達は揃って浮き足立つ。
建具の他にも、集積された古道具。吊り下げられた提灯や傘、底の抜けそうな茶釜や火鉢。古びた行灯に欠けた食器。鎧や兜と大小の壷。台所の釜や鍋にまで、赤い目玉があぶくのように湧き上がり、蟋蟀に似た黒い足が生えていた。
道具たちは走り回り散歩を始め、カキカキギチギチ騒ぎだす。
「そなた達、鎮まりなさい!」
聞こえた雪輪の声で、書生三人は自分たちが叱られているのかと勘違いしかけた。
しかし白い女中娘が相手にしていたのは、騒ぐ古道具で、茶碗や提灯たちは座敷も土間も構わず、勝手気ままに踊り騒いでいる。収まるどころか、古い建物の壁という壁、柱という柱にあぶくはぶくぶくと増え続け、やがて
ギョロッ
と大小の赤い目玉が人間たちを凝視する。
「う」
「げ」
「ひ」
それ以上の声が、書生三人とも出なかった。柘榴の実に似た数百もの赤い目玉達は、うじゃうじゃ蠢いていた。赤い目玉は次々と現れては消えていく。
古道具屋内の騒ぎを前に、雪輪が薄い唇を引き結んで土間から部屋へ上がった。縁側に面した座敷の中ほどまで来るや、どんちゃん騒ぎの室内を見回す。
「『鎮まれ』ッ!!」
一喝した。
瞬間、赤い目玉と蟋蟀の足は消え、異変は消失して長二郎が条件反射的に「ハイ!」と叫び床に突っ伏す。
「あ……き、消えた……?」
千尋がよろよろ腰を上げ、室内を呆然と眺めた。
「話しが、通じたのか……? ゆ、雪輪さん……こいつらと、何というか……話しが出来るんですか?」
千尋が指差したのは、床に散らばる種々雑多な古道具達。問われた娘は、極僅かに目を伏せる。
「……はい。古い道具は……九十九神は、わたくしの幼い頃からの……顔見知りのようなものでございました」
「へ、へえ? ……そう、なんですか。あ……もしやそれで、目利きが?」
動かなくなった知り合いたちを雪輪が紹介すると、何かを思い返す眼差しで千尋が頷いた。恐ろしがるのも忘れて納得している。短い静寂を、悪びれていない一言が破った。
「三時半……? まだ夜じゃねぇかよ」
座敷近くで倒れていた時計の示す時間を見ていた柾樹が、独り言を言う。それを聞いた千尋と長二郎は、手近で理解しやすそうな問題の方へまずは飛びついた。
「そうだ! それで柾樹は、何が何処でどうしてここでこうなった!? 事情を話せ、事情を!」
「片付けが嫌で逃げたとか言い出すんじゃあるまいな!? というか君は本当に柾樹なんだろうな!?」
「あああー、うるせえ! めんどくせえ! 雪輪、お前が話せ!」
どやどや近付いてくる友人達に詰め寄られ、追い払っている金茶頭は心底面倒くさそうな顔をしていた。
「そのように申されましても……」
役目の交代を求められた娘が言いかけた矢先。
土間の天井にいた黒い水がうねり、びょうと波打ち走り出した。黒い水は不意を衝かれた人々の前を飛び、開け放たれていた縁側より外へ伸びて庭先の泉水の辺に落ちて固まる。
《……ここはまだしも、居られるな》
薄暗い秋の庭で、凝った黒い水が囁いた。
「喋った……!?」
まだ夜気の漂う縁側へ駆け出して『それ』を眺め、長二郎が声を潜める。
見る間に古道具屋の庭に美しい黒牛が現れ、四つ足を折り畳んで鎮座していた。紅玉の瞳をし、太い首には赤い注連縄を巻いている。
《急いていたとは申せ、詫びねばならぬな……》
黒い牛は丁重に詫びる。巨体は殆ど動かず、赤い視線だけ雪輪へ向けられていた。
「おい、こいつ……前にここへ来た牛か?」
縁側に立ち、黒い牛を見下ろした柾樹も呟く。
「『赤目御前』様と、申されます」
答えた雪輪の言を聞きとめ、銀縁眼鏡がキッと左斜め下を睨んだ。
「お前やっぱり知ってたんじゃねぇか! あれもこれも白ばくれやがって……ッ!」
「申し訳ございません」
無表情に詫びる娘へ向けられた柾樹の手は、怒りの衝動に任せたいようでそうでもないのか宙に浮いていた。二人の隣へ、のそ……と出てきた千尋が、嘆息を伴って天を仰ぐ。
「ああ、な、何だ……もう、どうでもいいか。降参だ! 妖怪が出てきている!」
状況へついて来るだけで一苦労の人は、逸早く諦めて諸手を挙げた。
長二郎が振り返り雪輪を見る。これまでの出来事や経緯を繋ぎ合わせている顔で、一度生唾を飲み込んでから口を開いた。
「雪輪ちゃん……どうして今まで、何も言わなかったの?」
長二郎の声には戸惑いと、畏れが見え隠れしていた。娘の瞳が、冷たく黒い光りを宿して小柄な青年を映す。
「お伝え申し上げたとして、お信じになられましたか?」
女中はにくたらしい口調で問い返してきた。声に軽侮の色は無かったが、遠慮やへりくだる様子も絶無だった。
「し……信じましたとも僕は!」
「嘘つけ」
胸を張って言い返す『目一杯疑っていた人その二』の虚勢を、金茶頭が低い小声で否定した。
「赤目御前様は、隅田川の主様にございます。御前様の『許し』のお陰で、わたくしも堀の内側へ安定して入ることが出来るようになりました」
雪輪が半歩進み出て言う。
「安定して?」
縁側でしゃがみ込んでいる千尋が、繰り返した。
「それまでは……外へ、弾き出されるとでも申しましょうか」
小刻みに身体の震える娘は視線を下げ、考えるようにして言う。
「小火や、貧民狩りなど……兎も角、そこに居られなくなるのでございます。湯島や、両国橋の東詰まで逃れれば、収まるのですが」
雪輪が外郭の内側へ入るたびに何かが起こり、移動せざるを得なくなった。悪い事件ばかりではなく、紹介された口入屋が堀の外だったりもした。いずれにせよ、『外』へ追い出されてしまう。磁石の同じ極が弾き合うように、帝都の堀の内側へ近付けなかった。
「何でそんなことになったんだろう?」
話しを聞いていた長二郎が首を傾げる。
「それも御神刀とやらのせいか?」
「さあ? わかりかねます」
娘の返答に、尋ねた柾樹から疑惑の視線が向けられた。雪輪は気付いていない顔をしている。
「な、なあ? こいつ、前に見たときより、くたびれていないか?」
秋草の上で頭を垂れている黒牛へ近付き、様子を伺っていた千尋が小声で言う。すると牛が面を上げ、黒い鼻をぶるんと鳴らした。
《……わしは、川に括られておる》
法螺貝の鳴るような声が、空気の振動である『音』とは違う響きをもって朝焼けにもまだ早い庭に広がっていく。
《『無名の君』の来臨により、潰されかけた。あのように重い“神”は知らぬ……》
幾分、苦しげに言った。
《末期の苦しみを、久方ぶりに思い出したぞ》
揺れる赤目御前の真紅の瞳は、郎党青年達の後ろで控えている娘へ語りかける。
《わしの結界も、蜘蛛の巣の如く消し飛ばされた。古の神が、あれほど重きものとはな》
冷静でありつつ、呟きは恐怖と衝撃を帯びていた。
幽鬼となって千年が過ぎ、赤目御前もそれなりに強者としての自負心はあったに違いない。けれど『常世の神』を前に成す術がなかったのだろう。
「では……土々呂たちが帝都から去ったのは、無名様から逃れるためでもございましょうか?」
足音無く庭へ降りた雪輪が話しを継ぐ。庭の幽鬼は頷き、項垂れた。
《土々呂の殆どは潰れただろう。しかしまだ残っておる。寺社や依代、旧家の下などに隠れてな……。ここはそなたがいれば、九十九神が新たに次々と湧いてくる。ゆえに、ここの結界は保たれておる》
牛の姿の化物は、古道具屋へ逃げ込んだ経緯を語る。
来臨で、帝都中心部を覆っていた赤目御前の結界は消し飛ばされた。そのため幽鬼は緊急の避難先として数鹿流堂を使ったらしい。そして九十九神を招き寄せる雪輪が、強制的に連れて来られたのだった。
《いささか口惜しいが……近々、わしも潰されような》
響く御前の口調には、諦観がまじっている。
「潰される、と申しますのは?」
雪輪が尋ねた。
《消えるのだ。映し世の理にも、常世の無限にも離された者は、有為も無為も、滅びも消える》
「滅びも?」
《滅びる以前に、存在もしなかったことになるのであろうよ》
元は人の子として生まれたはずの、異形の者は低く語る。
赤目御前は宿命に逆らい誓約を棄て、尋常な死も叶わなくなった。今も曖昧な影となり、常世と映し世の隙間に棲んでいる。幽鬼はこの上でまだ、己より重い“神”に潰されると、映し世の因縁も何もかも消えてしまうという。
《願わくば……我が身に映る“神”の輪郭だけでも、解ければな》
感情を抑えつける声で、泉水の辺で御前が言った。そのとき雪輪の身体が、ゆらりと傾いだ。
「雪輪さん!?」
横にいた千尋が慌てて抱きとめたが、雪輪はずるずると膝から崩れていく。
「……申し訳、ございません」
意識はハッキリして目も開いている。しかし自分で身体を支えられない娘は、千尋の腕の中に沈んでいた。
《湾凪の姫。あの食べ物は……『神の食物』は、まだあるか? いましばらくは、効き目もあろう》
黒い牛に言われ、雪輪は震える手を持ち上げて懐紙を取り出す。最後のチョコレートが一欠けら包まれていた。




