表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
111/164

明け暮れの道

 その昔、浅草寺の境内だった土地は、今は七区に分けられている。

 花屋敷は五区内観音堂の裏手辺りで、隣に陵雲閣が建っていた。周辺は奥山と呼ばれ、見世物小屋が集まっていた地帯。昼夜問わずの繁華な場所なのだが、行過ぎる人影は一つも無かった。あるのは並ぶ建物と、木立の作る陰。


 柾樹は雪輪を連れ、隅田川沿いを南の両国方面へ向かっていた。

 道は雨で光り、白い霧が流れて人間どころか鳥の気配も無い明け方前。いつまでもお互い黙っているところまで、初めて会った日とそっくりだった。


 両国橋が見えてきた頃、水溜りを避けて進みながら柾樹は後ろの娘に尋ねた。


「『無名様』ってのは……源右衛門が長屋に残した、あの句に出てきたやつか? 『針』の歌の」

 足を止めて振り返る。


「お前の親父と源は、どうして親しかったんだ? 御家人と旗本ってのは、違うんだろ?」

 H町へ入る手前。巨大な木橋の西詰めで、改めて二人が向き合った。雪輪は反応しない。肌は普段にも増して青白く、身体は小刻みに震えて見えた。


「言えよ。知って良いか悪いかは、俺が決めるんだよ」

 柾樹に催促されても、白い娘は沈黙を貫いている。浅草十二階の上では結構喋ったのに、あれ以来また喋らなくなっていた。好機を逃してしまったかな、と少々しくじった気分を噛み締める。


「聞きたくなったら聞くって言っただろうが? いいから言え。言わねぇと……」

 足音荒く近付き言いかけて、そこで停止した。柾樹も、別に雪輪をどうにかしたいわけでもない。


「えーと……どうする? お前が嫌なのは何だ? 一番イヤなことをしてやる」

「……悪戯をなさらずとも、ようございます」

 覆いかぶさりそうな勢いで圧迫してくる人の胸辺りを、娘の細い右手が触れるか触れないかという微かさで押し返した。つり上がった漆黒の目が、柾樹を見上げる。


「堀田様にお聞きした限りしか、わたくしは存じませんよ」

 澄んだ声で、囁くように語り始めた。

 雪輪が源右衛門の長屋に匿われていたとき、老人より聞いた話し。


『旗本殿様』と言えば『威張るばかりの世間知らず』と同じ意味合いで、おちょくられていた。

 その世間知らずが大勢、疑問も持たず世の中心に居座っていた時代。堀田源右衛門という御家人が知り合った、一人の旗本殿様がいた。御家人と旗本は仲が悪い。旗本は御家人を見下し、御家人は旗本を馬鹿にしていた。同じ武家でも身分が違う。子供の頃から何もかも分け隔てられているため、認識は修正されないまま大人になる。


 しかし源右衛門は知り合ったその若いお殿様に対し、「これは少し改めなければならないかもしれない」という印象を持った。町方の心学講舎に行きたいのだが、良いところを教えてはもらえぬかと頼まれたのが最初だったらしい。直接頭を下げられた御家人の方が、慌てに慌てた。


 外国の蒸気船にも都の騒乱にも後手後手で、そのくせ武家の世が当然続くと思っているお歴々。そういう中にあって、湾凪抛雪という殿様の自然な志と聡明さは、世の中に幻滅しきって隠居を考えていた源右衛門に一筋の明るさをくれたと。


――――お旗本はかくあって頂きたいという……いや、手前勝手ながら、そのままのお姿で。


 老人は、思い出語りにそう言った。

 湾凪の殿様は人のいないところでは、年上の源右衛門を『先生』と呼んでいたという。

「わたくしに気を使ってくださったのでしょうけれど」

 と、殿様の娘である雪輪は付け足していた。


 源右衛門と雪輪の共通の話題は多くない。御家人と旗本殿様の過去の交流を語るうちに、例の『歌』へ話しが及んだのだった。


「堀田様のご子息のご婚礼に際して、父が少しばかり『御室の山』のお話しをしたそうにございます」

 ここは以前、柾樹が想像していたのと大差なかった。


 湾凪家に代々受け継がれてきた知行地の山。

 その山に棲むとされる、『子授け』を司る寿ぎの神。

 夫婦の門出に幸多かれと、古来より婚礼のときに歌われてきた『歌』を、殿様は親しい友への贈物の一つとして披露した。後の動乱と変転の中で何もかも散逸したが、思い出は残った。


――――あの『針』の歌は、どのような歌でございましたかな?


 そう源右衛門にねだられ、雪輪は句を教えてあげた。それを聞き「そうであった」と喜んだ老人は硯に向かうと、半紙に女文字で書いてみせたのだ。


――――はりやはり みむろのやまの はりのさき ももよわすれじ なをしらぬきみ


「『爺小町の筆にございます』と……可愛らしいお声で」

 小町娘になったつもりで、おどけて披露していた。源右衛門が死んだとき、差配人が見つけた紙切れはそういった由来で残されていたのだ。


「『御室の山』は、今もあるのか?」

 柾樹は違う質問を向けた。

「田上が、新聞の記事を見つけてきた。冬の終わり頃……春先に、T県の山奥で山が崩れて、山郷が消えたってな。ちょうど、お前の言ってた故郷の辺りじゃねぇかと思ったんだが?」

 眼鏡の奥から睨んで伺う。田舎の古新聞の片隅にあった小さな記事には、山が崩れて平らになり、死者は三百余人とあった。


「はい」

 雪輪は一声答えてそれ以上を語らない。柾樹は疑問が口をついて出た。

「何で言わなかった?」

「何ゆえ、お話しせねばならぬのでございましょう?」

 即座に返され、返しの早さにへそを曲げるのを忘れる。


「……ま、それもそうか」

 殊更に言い触らす種類の話しでもない……、と納得しかけた。

 しかし納得させた側が、自らそれを覆した。


「いえ……やはり、今お伝えしておきましょう。後回しにすれば、また間に合わぬやもしれません」

 やや低くなった娘の声が、濡れた地表へ落ちていく。

「間に合わない?」

 柾樹は問い返して、青白い娘を見下ろした。目が合った雪輪の瞳は黒過ぎて、映っているはずの柾樹の姿も見えなかった。


「いつぞや、わたくしの故郷に禁足地とされた山がございましたと、お話しを致しました」

 青褪めたような顔色の娘は、覚えているかと尋ねはしないが言外にその色を滲ませている。金茶色の頭は、「ああ」と軽く頷いた。


「山には……『御室の山』には、無名様が眠っておられました」

「さっき出てきた、アイツか」

 嵐と共に古道具屋へやってきた、真夜中の来訪者。確かめた柾樹に、また地面を見て雪輪は「はい」と答える。


「眠らせる封印は全部で三つ……山頂の『要岩』。御神刀の『霧降』。そして無名様の、映し世の姿としての『人のかた』」

 両国橋の西の袂。

 月光に浮かび上がる娘はどこかとても遠い所にいて、辛うじてここに人の姿を保ち佇んでいるように柾樹には見えた。


「わたくしが五つの時」

 夜明けが近い。霧を含んだゆるい風が、雪輪の長い黒髪の先に絡んで弄び、離れていった。


「あの日……幼いわたくしが、無名様に初めてお会いした日。里人の一人が御室の山へ入り、仕掛けを外して『御神刀』を盗んだのでございます。そのために封印が一つ消え、無名様が動き出し、以来わたくしの周辺で子授けの霊験が現れはじめました」

 雪輪は澄んだ声と滑らかな口調で過去を語り始める。


 柾樹は黙っていた。ここで止めると、また話さなくなる可能性があるので黙っている。以前、蔵で故郷の話しをしたとき。下手人の目星くらいついてるんじゃないのかと柾樹が尋ねたら、この娘は「何も」と否定し去っていた。あれは嘘だったと、今そこで雪輪は抜け抜け言い放っている。


「その……里人ってのは?」

「もはやこの世におりません。一切隠し通したまま、山崩れで」

 鋭くなった柾樹の問いかけへ答えた雪輪の目元が、微かに寂しそうに歪んだ。


 盗人は里の一員として暮らし続け、最期は崩れた山にのまれて死んだという。死人に鞭打つのを憐れんで、娘が嘘を吐いていただけなら良かった。


「御神刀は、その者によって売り払われてしまいました。売り払った先の、見当はついております。今もそこに、『霧降』がある確証はございませぬが……隠されているのではないかと」

 声も静かに話し続ける。今しがた雪輪から密かに露となった感情は、また掻き消えてしまった。


「平蔵が霧降を売ったのは……わたくしの父に、里の開拓と鉱山事業を持ち掛けられた方でございます。『あの山は銅が出る』というお話しであったと、母は申しておりました。帝都の実業家で、政商の、相内幸兵衛殿と申されます」

「何?」


 柾樹は知らず声が出ていた。『相内幸兵衛』は柾樹の祖父だった。


「鉱山にも、多少関わられましたが……御当主は一度も里へいらっしゃっていないと、聞いております。腕が良いという山師を紹介していただき、普請の主だった仕事は父が行っておりました。開発には殆ど手を付けず、執着もされず、早々に引き上げられました。その後、山は銅が僅かに出るには出ましたが、利益の望める鉱床と呼べそうなものは出ませんでした」

 雪輪は語り続ける。


「そして先頃、もう一つの封印である『要岩』が壊れたのでございます。大雨が降り、元より穴だらけとなっていた山が、崩れて流れました」


 滅びた山郷の亡霊を一身に背負ったような娘は、故郷の顛末を締めくくった。

 蝋みたいに白い雪輪の頬は表情が無く、声から姿まで人間らしい体温が感じられない。柾樹は足の裏から、冷たいものが骨の髄を通って背筋まで染みあがってきた。腕と首の皮膚が、ざわざわしている。


「相内殿が、どうやって『霧降』の存在を知ったのか……『神食みの剣』が何故必要であったのか。存じませぬが。今宵わたくしのもとへ貴方様を走らせたのも、十二階へ運んだのも、コヨーテの拳銃ではございますまい。もっと別の……誰ぞでございましょう。そしてそれが、相内幸兵衛殿が『霧降』を必要とした、原因ではないかと」

 雪輪は僅かに思案する表情になった。

 それを間近に見て、やっと柾樹も人間と対峙している感覚が戻る。


「何で今まで言わなかった?」

 柾樹はさっきと同じ問いを、半ば敵意に近い眼差しと一緒に相手へ向けた。


「お信じにならなかったでしょう?」

 雪輪は極簡単に片付ける。嫌味も含みも見つからない。頭の血管が切れそうな柾樹の口は、歯軋りと共に噤まれていた。


 仰るとおり柾樹はこれまで信じてこなかった。

 雪輪の語る『子授けの神通力』や、『餅を食べて身体が震える』話。『無名様と会った日』の奇談。源右衛門の長屋から古道具屋へ移る際に聞いた、『弟』が死んだ話し。それらの違和や不自然を疑いつつも、右から左へ聞き流してきた。真相を語られたとしても、面倒なだけの笑えない冗談で片付けたとは考えられる。

 現実に、一度はそうした。


「それでも仇の喉元に入り込んでいたんじゃねぇか。よくも今まで、俺の寝首をかかなかったもんだな?」

 繋がっている自分の首を、右手で撫でた。

「貴方様は、お家の事を何一つご存知ないご様子でございましたゆえ」

 当の娘から、無感情な返事があった。


――――殺しても意味が無いってのか。


 子爵家の嫡男は耳鳴りがしてくる。


 過去について語るとき、雪輪は柾樹の様子と反応を観察していたのだ。

 やがて真実この者は何も知らないとわかって、無駄と悟り、相手するのをやめた。柾樹の好みに合わせて、『迷信』で理解させておくことにしたのだ。


 目の前で惰眠を貪っている、成り上がり者の三代目。

 昔の武家で女や子供が、余程の一大事でない限り「無知であるから」と斬首を免れたりしたのと似た話しで、雪輪は無益な殺生と判断していた。頭痛がしてくる。身元引受人で、保護してやっているのは自分だったはずが。


 けれど、結局というか。

 柾樹はこの上で項垂れて詫びを入れたり、可愛らしい従順さで逃避したり降参する精神構造をしていなかった。


「それじゃ知ってくるから後悔しろ!!」

 天邪鬼は怒鳴り出す。


「俺の屋敷のどこかに、その御神刀ってのがあるんだな!? 熨し付けて返してやろうじゃねぇかッ!!」

 鼻先を突合せ、自分で何を言っているのかわからないまま、斜め上の対案を叩きつけた。

 本人に自覚は無い。だがこういうところが、初めて会ったときから雪輪が折々にどうも変な青年だと思っていた所以である。


 そのとき。

 法螺貝に似た音と声とが、辺りに響いた。


《――――ここにおったか……湾凪の姫》


 巨大な橋の袂で二人が見上げた、夜明け前の濃紺の中。

 墨色の川面から盛り上がってきたのは、闇と同色の透明な水の山だった。二本の角を頂く大きな鼻面。伸びた耳と長い牙。口から蒼い鬼火を吐き、異形の黒い牛の首には、八本の蜘蛛の足が生えている。


「赤目御前様……? 如何なされ……」


 言いかけた娘の驚きへ被せるように、巨大な黒い水の塊が二人の頭上へ落ちてきた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ