浅草十二階
どうやったのか。
雪輪にわかった範囲では、柾樹はピストルを投げ出して右手で屋根の縁に掴まり、瞬間的に体勢と着地すべき方向を把握して娘を抱えたまま最も安全な場所へ落ちた。被害としては、着地したテラスが濡れていたため転んだのと、着物が多少濡れただけだった。
抱えられていた雪輪も、状況を飲み込むまで時間がかかる。
十秒もなかっただろう。そのうち柾樹を敷布団にしているとわかり、急いで起き上がった。
「お怪我は」
声をかけると、敷布団から文句のありそうな眼差しが向けられた。
文句の内容はさておき、そこにいるのが古道具屋の座敷で寝転がっていた青年と変わらないのを見て、雪輪は緊張が解けたのと、微かな苦渋を覚えた。どうして、という胸中の呟きの意味は多過ぎたため、雪輪自身にも数えきれない。傍らで、金茶髪の人は半身を起こして眼鏡を外していた。
「痛ってえな……」
言っている割に怪我はない。これだから友人達に「お前はおかしい」と罵られるのだった。近くでも聞き取れないことを、うにゃむにゃ呟いている。心ゆくまで顔をこすり、眼鏡をかけ直した柾樹の目が、隣の娘を見た。
琥珀色の髪の書生と、全身小刻みに震え続ける娘の間で、変な空白が流れた後。
「どこだ、ここ?」
周囲を見回した銀縁眼鏡が、先に口を開く。
「十二階かと存じます」
青白い顔色の娘は、面白みのない事実のみ返した。
「……浅草のか?」
柾樹は聞き返して立ち上がる。緑色の柵に掴まり、外側へ上半身を乗り出した。浅草陵雲閣の十一階と十二階は、回廊式になっている。他は煉瓦造りだが、ここだけ白く塗装された木製の構造物で、その最上階部分に二人は居た。
「本当だ、十二階だな……」
「御存じなのですか?」
「来たことがある。あそこが明るいだろ。新吉原だ」
空の月も凄いような明るさで、周辺の建物の配置など大よその位置もわかった。
「で……どうしてこんな所にいるんだ?」
「わかりません」
二名が見下ろす十一階の外側には、五千燭光の丸いアーク灯が二基ぶら下がっている。
「ここまでの事は、覚えていらっしゃいますか?」
今度は雪輪が尋ねるが、「知らん」という応答のみでこちらも終了した。
雪輪は周囲と空を見る。無名様も、これまで付き従ってくれていた仙娥もいなくなっていた。
濡れた袂や裾を絞っていた柾樹が、離れた場所に落下していた古い拳銃を拾い上げている。確認して「使ったらしいな」と呟き、隣の娘を見た。
「古道具屋に……変な奴が来たぞ。能面みたいなのを被った、馬鹿デケェのだ。バイオリン弾いたら消えやがって、その後に俺と白岡たちと火乱の話しをして……その辺りから覚えてねぇ」
柾樹は喋りながら、古い拳銃を帯と背中の隙間に仕舞いこむ。
「俺はどこで、何で、こいつを使った?」
作業動作一連を見守っていた娘へ、問いを向けた。
「あれが、『ムミョウサマ』か?」
手摺りに寄りかかり睨みつける。聞いた雪輪は、小さく息を飲み込んだ。
柾樹の態度が違う。
『ムミョウサマ』の存在を、戸惑いも抵抗もなく受け容れていた。そうさせる事件があったのだろう。青年の言った『あれ』が、浅草十二階の上空に居た方ではなく、古道具屋で接待した方であろうとも雪輪は察した。
「つい先ほどまで、そこにおわしたのです」
雨に洗われ、透き通る天を見上げた。硯色の夜空には、嵐に磨き上げられた月だけが残っている。月光の眩しさで、星は霞んでいた。
「話せば長くなりますが」
「要約して話せ」
気の短い人は手摺りを離れ要求する。対する話者も、お喋りがそれほど好きではないため、双方都合は悪くなかった。
「蔵のわたくしのところへ、子ども一人と、八百比丘尼が訪ねて参りました」
「子ども……古道具屋へ空き巣に入ったガキか。『子授け観音を拝みに来た』とかいう奴だろ?」
柾樹の言葉で色彩の無い雪輪の黒い瞳へ、少なからぬ驚きが浮かんだ。
「やっぱりお前の知り合いかよ。名前が……『かなめ』だったか?」
小さな変化を見逃さなかった柾樹が、勝者の顔で確かめると、雪輪の白い顔が頷いた。
「『子授けの神通力』で、最初に生まれた子でございます」
向き合う二人の間を嵐の名残の風が吹きぬけ、言葉を攫っていく。
「そいつが、何しにきた?」
「柾樹さまと、同じでございますよ」
「は?」
「家出にございます」
「あーそーかい」
簡単にふて腐れた青年はそっぽを向き、娘は話しの筋を戻した。
「名を、『鹿目』と申します。同郷の縁を頼って参りましたので、捨て置くわけにもゆかず。あの子を連れてきた八百比丘尼に誘われ、共に同道しておりました。場所は市ヶ谷橋近くの、花簪の家でございます。子を失った母親が、気狂いとなっておりまして」
「番町の、あの話しか」
雪輪の要約話を、柾樹の独り言が折る。
「何だ、弟のところに行ってたんじゃねぇのかよ?」
差し挟まれた感想には返さず、娘は話しを再開した。
「……その簪屋へ、柾樹さまが現れたのです。拳銃で、尼様を打ち倒してしまわれました。そして気付けばかように、十二階へ飛んで来てきておりました」
飛んできたと発言してから、雪輪は内心で首を傾げる。
鳥のように『飛んだ』覚えはなかった。印象としては、紙の表裏を返したみたいに場面が切り替わったのだ。だが飛んだ飛ばないより、柾樹が他の点に血相を変えた。
「打ち倒した? 殺したのか?」
殺人云々も気分が悪いが覚悟や理由がないのは輪をかけて気に入らないと、顔へ出ている。
「いえ、あれは……『人殺し』ではございますまい」
微かに首を横に振った娘は、平素と変わらない声で答えた。
「八百比丘尼は……もはや人ではございませんでした」
柾樹に、こんな話しをしている。起きているこの現実に、酔った気分で娘は夜空へ向け話していた。
「『人魚の肉』の呪いが消えたのでしょう」
或いは、“誓約”が潰された。『黒い犬』のときと同じである。
八百比丘尼が待ち望んでいた終焉は、彼女の家へやって来たときと同様、この世ならざる者によって唐突に、無条件に運ばれてきた。
高田屋の前で雪輪も、『黒い犬』を滅ぼし去った『死者の拳銃』ならば、浄蓮尼の願望を叶えてやれるのではと考えた。ただ、その訪れは穏やかにしてやりたかった。理想的な死の迎え方が、苦しまず、寂しくなく、穏やかなものとするならば、あれはあまりにも性急だった。
けれど終わったには違いない。『浄蓮尼』は消滅した。
「ロバートが話していた、拳銃の『魔物退治』の話しは、嘘っぱちじゃなかったってことか」
あの尼僧と面識が無い柾樹は、同情どころか違和感も希薄に話している。
泰然といえば聞こえが良いが、無神経とも呼べそうであり、たぶん柾樹は後者だろう。しかし卑しさや怯えは見当たらず、雫で濡れる眼鏡を外し袖で磨いていた。日の光の中より、顔や指の輪郭が浮かび上がって見える。他愛ないそれが雪輪には不思議ときれいに感じられた。
「そういえば、ロバートの女房から手紙が来たぞ。あれは持ち主をおかしくする死者の拳銃で、“コヨーテ”とかいう洒落た名前があるんだとよ」
「……たしか、狼の一種でございますね」
コヨーテとは外国の狼の仲間だと、雪輪も知っていた。
「今は俺が持ち主だ。……そのうち、おかしくなると思うか?」
眼鏡をかけ直した青年が、首を傾げて娘の反応を伺う。問いかけられた真っ白な娘は、「いいえ」と即答した。
「おかしな人のもとへ、この拳銃が来るのでしょう………何か?」
「何でもねぇよ」
やり取りは、ここにおいて喧嘩という情熱を要する応酬ではなく、様式美に等しい。これ以上怒る代わりに、柾樹は背を向け方向転換した。
「さて……降りるにしても、どうやって開けるか?」
帰還しようにも、回廊と眺望室との出入口は木の扉で塞がれている。考えるのが億劫になってきた下駄足が、安易な発想から塞ぐ板を蹴破ろうとしかけたときだった。
「おわっ」
ギョロリ、と扉に出てきた巨大な赤い目玉に脅され、柾樹の脚が引っ込んだ。
「またこいつか!」
青年が大声で言う様を前にし、隣の娘は目を瞠る。
「……見えるのでございますか?」
これまでの“見えないふり”も放り出し、雪輪は尋ねていた。女中として古道具屋にいた頃、柾樹はこの赤い『目玉』こと、九十九神は見えていなかったのである。
「この前……数鹿流堂の茶碗に、脚が生えやがったんだよ。九十九神っつーんだろ? 白岡が言ってたぞ」
振り向いた柾樹の目は、雪輪がどう返してくるかを見ている。見られている側にもわかった。わかったが、雪輪はそれこそ見えないふりをした。
「試してみましょうか」
背筋を伸ばし、涼しい顔で扉の前へ進み出る。直感の、ほんの出来心だった。
まだ扉でぎょろぎょろしている、大きな赤い目玉へ娘は命じる。
「『開けよ』」
途端に、バガン、と間抜けな音を立てて扉が開いた。指示に従う扉に、柾樹が驚いた顔をする。
「何だ? お前、道具と話せるのか」
「話すと、申しましょうか……」
「便利じゃねぇか」
雑で独特な感想を述べた柾樹が、躊躇い無く建物の中へ入っていく。
無名様との遭遇体験が、彼にとってもどれほど強烈だったか、見送る雪輪にもつくづくわかった。異常を異常と感じなくなっている青年の後ろで、考え事の多い娘は、また考え込んだ。
今まで九十九神は、雪輪に害意を持った人間たちの足止めをしてくれたり、柾樹が雪輪にいらぬちょっかいを出すと天誅を下したりしていた。仙娥の言うとおりなら、それは『雪輪を守るため』となるが、九十九神の自律的な判断であり、こちら側の意思は介在していない。
しかし先ほど試した限り九十九神は、雪輪の指示に従う気があるようだった。
――――これも、無名様が現れたからだろうか?
状況が更に変わってきたことを思いつつ、娘も眺望室へ足を踏み入れる。
侵入した眺望室の屋内には、螺旋の階段が設えられていた。
陵雲閣の窓のいくつかは、常に板が嵌め込まれ外が見えなくなっている。今は台風対策でもあろうか、塞がれた窓が多い。それでも全部は塞がれていなかった。月の光りが射し込み、内部を照らしている。雪輪は階段の白い手摺りに掴まり、光の灯っていない電灯を見上げた。これが各階に三基ずつ設置されて、夜を欺くばかりに眩しく光る。窓から光が漏れる様を、遠くから眺めた事もあった。
「電気は点けられねぇのか?」
先に階段を降りていた柾樹が、立ち止まっている雪輪を見上げている。ケロッとした顔で、声をかけてきた。先ほど扉を開けたのと同じ要領で、やってみろと言う。
「もし灯りが点けば、外の人に見つかるやもしれません」
「しらばっくれてやれ。それより歩きにくくてしょうがねぇ」
雪輪の心配より、銀縁眼鏡は現状の都合を優先した。
柾樹は普段もこの調子で、他人の目線や公序や秩序に対し、敬意や畏れの軽い言動が多い。しかも何の後ろ暗さも萎縮もなかった。だからかえって雪輪の方が、融通の利かない石頭みたいに見えてくる。
「……そう都合よく、動きますかどうか」
電灯を見上げ、娘は呟いた。一度たりと、思いつきもしなかった。こんな手法で、行灯やランプを灯そうと考えない。電灯は、ランプとは『動力源』も違う。電気の供給事情が不安定なのを考えると、動くかどうか怪しく思えた。それもこんな嵐の夜。
「『灯れ』」
命じると、電灯が一基だけ点いた。何がどこまで響いたのかは棚上げするとしても、一応呼びかけには応えたというべきか。灯った光はランプ並に薄暗いけれど、無いよりは格段に助けとなった。
「使えるな」
明るくなった電灯を見上げ、柾樹が呟く。これまで雪輪が見た中で、一番嬉しそうな表情だった。
「一階まで歩きだぞ。目が回るから覚悟しとけよ」
柾樹の言うとおりで、建物の昇降は壁伝いに設けられた階段を歩き、弧を描いて下りていく他ない。
「エレベーターも動けば、楽なんだけどな」
青年は歩きながらぼやいたが、こちらは動かせと言わなかった。
「……エレベーターとは、どのようなものなのでございますか?」
柾樹の三歩後ろを進む雪輪が、小声で尋ねる。
「電気で動かし、箱を引き上げると聞きましたが」
娘の興味関心を耳にして、振り向いた柾樹が唖然とし、ちょっと呆れた顔になった。
「まぁ……そうだな。中に椅子があって、下足番に履物預けて乗るんだよ。座ってりゃ八階まで上げてくれる。あんまり気持ちのいいもんじゃなかったぞ?乗ってる時間は、一分くらいだったか」
田舎者と馬鹿にするのも忘れた様子で、エレベーターに乗ったことのある人は説明している。
「半年くらいで壊れて、それっきりなんだよな」
おしまいに、そう付け加えた。動かせと言わなかった理由は、完成度の低い不安定な電動の物を、柾樹があまり信用していないのが原因らしかった。
「九階までは、勧工場みたいなもんだ。見るだけ見たらどうだ?」
催事用の台を見て言う。置いてある殆どのものに、布がかけられていた。
浅草十二階のうち、二階から七階までは勧工場方式で、国内海外の土産や雑貨を取り扱う店が四十以上入っている。八階は休憩室。九階は美術品を展示したり、新聞や官報を読んだり出来る催し場になっていた。
好評を博した『百美人』に続き、『古今美人画展覧会』という催しも行われた。でもあまり美人美人と浮かれていると、真面目なその筋に睨まれるのもあって、以降は『日本百景ジオラマ』など、品行方正も織り交ぜ人集めの工夫をしていく。
「前には、蓄音機なんかもあったな。三階だったか」
「蓄音機……。歌舞伎役者の声が聞こえるという?」
「ああ、知ってるのか」
柾樹が振り向いて言った。話題になった機械は、雪輪も存在だけ知っていた。
「上から景色眺めるだけじゃ、すぐ飽きられるからな。人寄せで苦労してるんだろ」
閉店中の土産物屋の前を通りつつ、すでに飽き始めている人が言う。
階段にも絵や写真が展示され、それらを眺めて二人は陵雲閣を下へ下へと降りていった。蝸牛の殻と揶揄される螺旋階段は、壁に沿ってぐるぐると連なっている。昇り降りする者が「嫌になる」と弱音を吐く階段だが、果てなく続いていくようで、辿りついてしまえば呆気ない。たったの十二階である。西洋に追いつけ追い越せと、見よう見真似の苦労が滲む建物は、矮小というよりいじらしかった。
「帝都では、あちらこちらで普請をしておりますが……このような建物が増えるのでございますね」
一階に近付いてきた頃、雪輪が窓の外を眺め小さく呟く。
「高い場所で、遊んでばっかりもいられねぇだろうがな」
降り立った娘に並んで、柾樹が尋ねた。
「お前、浅草に来たのは初めてなのか?」
「はい」
「銀座は? 日比谷公園や、新橋の辺りは行ったのか?」
「いいえ」
「お前……それじゃ帝都で何も見てねぇようなもんだろうが」
「お城は見ました」
雪輪の答えを聞くと、柾樹は黙る。何を思ったのか、「そうか」とだけ答えて袴を翻し、先へ行ってしまった。
「道も人も、全て造り変えねばどうにもならぬとは、かようなことでございましたか……父上」
灯りの消えたエントランスで足を止めた娘が、階段へ向けて一人囁く。
やがて青年と娘は、最上階に侵入したのと同じ方法で扉を開き、浅草十二階から去って行った。




