いくつかの回顧
源右衛門は自らの通夜や葬式に淡白だった。
周囲に頼んでいた事といえば、特別金も無く親戚もいないから、自分が死んだら死人を肴に酒でも飲んで、後は亡骸を妻が眠る谷中の墓地に放り込んでくれという、その程度だった。そこで長屋では早々に通夜の運びとなり、明くる日には葬儀が営まれたのである。遅ればせながら柾樹も棺が出る前には、神田の長屋へやって来た。千尋や長二郎は来られなかった。
源右衛門が長くはないと分かっていたせいだろうか。頭は白けていて、老人の死顔を見ても柾樹は特にどうとも思わず、涙の一粒も出なかった。薄暗い部屋の中央で横たわる源右衛門は、最後に見たときと同じく眠っているようにしか見えない。でも間近で見ればやはり死人の顔になっていた。
むせ返るほど線香の煙が漂う中、死人の傍らに座り禿頭を覗き込む。花に囲まれ冷え切った顔は色が変わり、蝋人形のようだった。
――――百まで生きるんじゃなかったのかよ、源。
柾樹は喉の奥で呟く。呟きの色合いは、不平に似ていた。源右衛門は左の脇腹に、鉄砲傷が残っている。これは先の戦いで受けた傷だった。一度だけ、酒にしたたかに酔った源右衛門が、人々にこの傷を見せていたことがある。背中から受けた傷ではないのだと、老人はその点を強調していた。どこから受けようと傷は傷でしょうと周囲は笑っていて、幼い柾樹もバカだなぁと笑った。
――――拾った命じゃ。わしは百まで生きるぞ!
源右衛門もそう言って呵々と笑っていた、遠い日の思い出。結局、源右衛門の百まで生きるという宣言は成就しなかったわけだが、そこに対して柾樹は壊れたおもちゃを罵るように文句を垂れていたのである。
そこへ、長屋の差配人がやって来た。「お尋ね致しますが」と、葬式の世話役もしている差配人は、柾樹の隣へ腰を下ろす。壮年の男は眉間に困惑を滲ませ、あるものを差し出した。
「これなんですが、辞世の句にしちゃおかしい。心当たりなんぞ、ございませんか?」
そう言って渡されたのは、源右衛門の硯箱に入っていたという紙切れだった。歌が一首、したためられている。
――――はりやはり みむろのやまの はりのさき ももよわすれじ なをしらぬきみ
「何だこりゃ?」
目を通した柾樹の口から、思い切り本音が漏れた。
元武士や通人には、自らの臨終に際して洒落た趣向を凝らしたり、立派な辞世の句を仕立てる者もいる。差配人氏もその可能性を考え、支度がしてあるのではと、老人の数少ない所持品である硯箱を開けてみた。そうしたら予想通り句が出てきたものの、何と言うか内容が武士らしくない上、辞世の句らしくもない。まるで恋歌のような歌が、半紙に書かれていたのである。
見つけたは良いけれど扱いに困った差配人は、知り合いと見受けた柾樹に助言を請うたのだった。
源右衛門にこういう趣味があったというのは、柾樹も初耳だった。それどころか源右衛門の句など、初めて見た。確かに源右衛門の字であるとはいえ、らしくない。紙を手に怪訝そうな顔をしている柾樹に、差配人氏は尚も尋ねてくる。
「この『はり』ってのは何でしょう? 縫い物の『針』ですかねぇ?」
「それ以外ねぇだろうな。『針の先』って書いてあるし……」
「じゃあやっぱり辞世の句ではないと」
「たぶんな」
「まさか源さん、どこぞのお針子に横恋慕していただとか、そういう話は……?」
「いくらなんでも、八十過ぎのジジイだぞ?」
「しかしあれで、大した女好きだったじゃございませんか……」
「まぁ、そこは俺も否定しねぇけどよ」
謎かけにも似た句に、困惑まみれな二人の顔。だが、あまりこの句で悩んでいる時間は、彼らに与えられなかった。元門番の訃報を聞きつけた相内家の現門番である村井親子と、三太夫の大山が長屋へ来てしまったのである。源右衛門の言わば後輩になる村井次郎と、その倅である与八郎は
「ややや、柾樹様。こちらにいらっしゃいましたか」
「お久しぶりでございます」
と簡単に挨拶するだけで終わったものの、大山が駄目だった。
祖父、父と二代に渡って仕える男は放蕩三昧の三代目の顔を見るなり、悲鳴みたいな声を上げる。転がるように上がりこむと、畳へ両手と膝をつき
「どこへ行ってらしたのです! お早くお屋敷へお戻りください!」
大声でわめいた。故人そっちのけで大騒ぎして、ほとんど倒れ伏しそうな勢いだった。大山は律儀なのである。どうにも頭が固く、一々喧しい。柾樹は源右衛門の句について尋ねたかったが、相手はそんな話しの出来る精神状態ではなさそうだった。
一人で火事場騒動な大山の主張をまとめると、どうやら相内屋敷の人々は、今まで新橋や柳橋、深川の辺りで柾樹を探していたようである。探す場所として間違いではない。もし数鹿流堂が無く、雪輪の件も無ければ、柾樹はその辺りをウロついていただろう。今までどこにいたのか聞き出そうとする大山の、果てしないしつこさに根負けして居候先を教えると、大山は葬式が終わり次第、お迎えに上がりますと鼻息も荒く言った。冗談ではない。
「来やがったら俺は今度こそ、二度と屋敷に戻らねぇからな」
言い捨てた柾樹は、後は横で何をぎゃーぎゃー言われようが無視していた。大山はよしのも悔やんでいるだとか、父の重郎が近頃お疲れが溜まっているご様子ですとか、宥めたりすかしたり骨を折っていたけれど、それらは全くの骨折り損に終わった。あんまり徒労に終わっていたため、相内家と何ら関係の無い葬儀屋が大山を慰めるほどだった。
だが柾樹は大山のこの手の言葉に乗る気は、毛頭なかった。この男の口車を信じて良かったためしなど、一度もない。これまでも屋敷から抜け出すことは度々あった。そしてその度に丸めこまれて屋敷へ戻った。けれど結局再び夜会には連行されるし、よしのは「また帰って来たのね」と噛み付いてくる。父も柾樹が屋敷に居たとか居ないとか、そんなことは気にも留めていないのだ。
「やすの様や紅葉様も、ご心配なさっております」
大山のその言葉を聞いたときだけは、ほんの少し悪いかと思ったりもした。
「ああ、太郎様がいらっしゃれば……」
しかし非常な小声ながら、大山が溜息まじりにツルッとこぼした一言で、柾樹は屋敷へ帰る気が完全に消失し、同時に不機嫌が瞬間沸騰した。一応源右衛門の入った白い箱と一緒に近所の寺までは行って、焼香だけ済ませると後も見ないで引き上げてしまった。優秀で人望も厚かった亡き義兄の名を引き合いに出されるのが、何より一番嫌いだった。
柾樹の義兄である『太郎』は母の連れ子で、十三年前に死んでいる。
母の琴は、元は芸者だった。柾樹の祖父である幸兵衛が気に入ったとかで、息子である重郎の後妻にと連れてきたのだ。そのとき一緒に相内家へ養子として入ったのが太郎であり、よしのとやすのなのである。歳が離れていたのもあって、種違いの兄の記憶は無いに等しい。
そのため兄が死んだときの詳細も、柾樹は知らない。屋敷の裏にある井戸に、間違えて落ちて死んだという話くらいしか知らない。それでもこの不運な兄の存在は亡くなって十年以上経つ今も尚、屋敷の中で伝説のように語り継がれている。
太郎は幼い頃から一聞けば十わかる、聡明な少年だった。教育を受け始めたのは相内家に来て以降だが、みるみるうちに豊かな才能を開花させた。教えられれば、何でもすぐに吸収してしまう。たちまち七ヶ国語を身につけ、年齢を誤魔化して大学に入った。馬術や剣術もあっという間に覚えてしまう。絵画や彫刻をさせればその道の第一人者も舌を巻くという、文武両道の天才肌。更には涼しげな目と整った顔立ちをし、洋装が似合う美男として有名だったのである。欠点の無いところが欠点だったとまで言われていた。性格も誰にでも分け隔てなく親切で、礼儀正しい好男子。おまけに母親思いの孝行息子と、評判も上々だった。学校の教師から屋敷の庭師にいたるまで、太郎は好かれていたのである。
こうなってくると太郎の出自における多少の複雑さは、逆に同情と尊敬を増幅させる効果を発揮した。しかも血筋的に嫡男である柾樹は“小鬼”である。昔から大きな商家などでは必ずしも血統に執着せず、優秀な人材を養子や婿として迎え、家督を継がせることはよくあった。
当主であり義父にあたる重郎が、太郎を早くから仕事先に連れ歩いていたのも手伝って、『これはやはり、太郎様だ』と下男や女中までもが、太郎が相内家の後継者になると噂した。少なくとも実質的な権力と運営は、太郎に委ねられるに違いないと思われていた。それゆえ太郎が亡くなったときなど、相内の家中はもう終わりだといわんばかりの騒ぎだった。
そして太郎の葬儀の日、母の琴が失踪した。愛息の死に絶望したのだろうという人々の声は、当時五歳だった柾樹の耳にも届いた。
こうして太郎の名が語られれば語られるほど、いつしか柾樹は跡取りとして扱われるのも何もかも、嫌になっていたのである。兄が死んだ年齢である十八歳になった現在は、この嫌気がますます悪化していた。どうしても跡を継げと言うのなら、自分の代で財産を全部使い果たして終わらせてやろうかという考えと、そこまでするのも面倒くさいという気分が柾樹の中で交錯していた。どちらにせよ、あまり楽しくない。
柾樹は面白くないことについては、長時間考えないようにしていた。考えて解決出来るほど頭も良くないし、何より集中力が続かない。にも関わらず、今日は一度考え出したらこんな考え事が頭にこびりついて離れなくなった。今日は調子がおかしい。
ムカムカした気分に纏わりつかれたまま、銀縁眼鏡の青年は古道具屋へ帰り着いた。勢いよく裏の戸を開けると、台所の外にある井戸で雪輪が水を汲んでいる。襷がけの袖から出た異様に白い腕が、井戸の滑車を回すのを止めた。
「お帰りなさいまし」
震えながら迎えた娘に返事もせず、柾樹は無言で近づくと雪輪が持っていた桶を奪って水を飲んだ。そして葬式から帰ったら履いていた草履を捨てるだとか、塩をまくだとか、そういった思想や慣習の存在しない世界しか知らないものだから、後も見ないで勝手口より土間へ入り込む。
と、そこで
「ん?」
夕餉の支度で煙る土間の真ん中に、大きな猫が、ででんと座っているのを発見した。
普通の猫よりたっぷり三周りは大きい。小振りな犬かと思う大きさだった。赤い毛の先が日の光を反射して、黄金色に光っている。長い尻尾を揺らし、ふてぶてしい顔の中に光る緑色の目が、胡散臭そうに柾樹を見ていた。「しっしっ」と言っても、猫は耳を動かすばかりで動こうとしない。人の気配が無い家の中。框に腰掛けた柾樹と猫が睨み合う事しばし。
「火乱。お退き」
静かな声が言う。手桶を提げた雪輪だった。娘に命じられた猫は、水瓶へ向かう雪輪に大人しく道を譲る。
「カラン……? こいつの名前か」
「はい」
「お前の猫なのか?」
「いいえ」
雪輪は瓶に水を注ぎ事務的に答えた。会話をする気が感じられない。馬鹿馬鹿しくなった柾樹は床へ仰向けに寝転がり、蜘蛛の巣が橙色の夕影と一緒に揺れる黒い天井を睨んでいた。
「源の葬式、行って来たぞ」
そのうち独り言のつもりで言った。どうせ雪輪は答えもしないと思った。それが
「……お寂しゅうございますね」
案外、返事があった。
起き上がって見ると、娘は白い煙の立ち上る竈の前で手拭を手に佇んでいる。長い髪は簪を用いて綺麗に巻きつけられていた。鬢付け油も無いのに器用なものである。雪輪は全身を震わせ、切れ上がった黒い目で格子向こうの黄昏の世界を見つめていた。表情に感情は表れていないものの、長い睫を心持ち伏せているようにも見える。
「何もご恩返しが出来ませんでした」
僅かに項垂れ、小さく呟いた。
思いがけず人間らしい発言をする雪輪に、柾樹は多少驚いた。が、驚くにもあたらないかと考え直す。路頭に迷っていた雪輪を連れて帰り、世話をしてやっていた源右衛門なのだ。特に善良でなくとも、恩人に対して少しは思う所もあるのが、常人というものだろう。
「ま、アイツもやりたい事やって死んだんだ。悔いはねぇだろ」
慰めではなく、真実そう思うから柾樹はそう言った。でも言いながら、『それにしても』と胸の奥に小さな疑問が湧いていた。
なぜ源右衛門は知り合いの娘とはいえ、雪輪にあそこまで入れ込んだのか。
門番を引退して時間が有り余っていたのも、老人の行動に影響を及ぼしたか。賑やか好きでお節介な源右衛門は、誰かに世話を焼いてやれるのが嬉しかったのかもしれない。かつて二本の刀を手挟んでいた者としての、それなりの見栄や意地もあっただろう。
だがそれにしても源右衛門の雪輪への尽くし方には、何か形振り構わぬ必死さがあった。つらつら考えているうちに、『もしかして』と、別の思い当たる節にぶつかった。
かつて源右衛門は、食うにも困る状況下で妻を亡くしている。戦で立て続けに息子達を失った事に加え、度重なる夫の商売の失敗と生活の激変で弱りきっていた所を、虎疫にやられたと言っていた。何もかも失い、一人ぼっちで残された雪輪の姿に、生前の妻を重ねていたのではないだろうか。あるいは重ね合わせていたものは、源右衛門自身だったかもしれない。証拠は何も無いものの、堀田源右衛門という人間を知る柾樹には、コレも理由の一つではないかと思えた。
再び仰向けに倒れた柾樹は、眼鏡越しに天井を眺める。源右衛門の家で見た『歌』を思い出した。倒れたまま下駄をぽいぽい脱ぎ捨てて足を板敷きへ上げ、床に頬杖をつき「おい」と声をかける。呼ばれた雪輪が少しだけ振り向いた。
「源の所に変な句があったんだが、お前アイツから何か聞いてるか? たしか……『針や針』」
そこまで言うも、句の最初の部分しか頭に残っていない。「あー……」と言ったきり、途切れた柾樹の言葉の先を
「……御室の山の針の先。百代忘れじ、名を知らぬ君」
雪輪が繋ぐ。「え?」と柾樹の目が若干、点になった。目が点になっている人に、無愛想な娘が言う。
「わたくしが堀田様にお教えしたのです」
「はあ?」
折角ちょっと謎めいていたのに、つまらない解決がもたらされて柾樹は気が抜けた。気が抜け過ぎて頬杖が外れ、床へ突っ伏してしまう。気分同様、ぐだぐだな顔と姿勢の青年へ、紫色に染まり始めた土間で佇む娘が続けた。
「堀田様が、昔わたくしの父母からお聞きになったと、そう仰られたのでございます。長屋でそんなお話しをしているうちに……是非とも教えて欲しいと」
真っ黒な瞳は斜め下を見つめている。
「それで源が書き留めてたってことか? ……ったく、人騒がせな奴だな」
呆れ混じりの表情で琥珀に近い髪をがりがり掻き、柾樹は愚痴みたいな言を零した。アレは辞世の句どころか、手遊びのようなものだったのだ。
「何なんだ、その歌?」
床に頬杖をつき直して問うと、雪輪の目が質問者を端の方に映した。
「湾凪の家に伝わる、寿ぎの歌でございます。独特の歌い方があったそうで、婚礼の時などに歌われたと聞いておりますが……わたくしも詳しい事は存じません」
低めの声で話しつつ、微かに目を細めた。
『針』の歌がめでたいというのも不思議である。しかし柾樹は追求する気にならず、寝転がった状態で「ふーん」とだけ言い、この話を仕舞いにした。源右衛門が息子の婚儀の折か何かに、雪輪の両親から聞いたのだろうかと、あやふやな想像が浮かんで消える。紫から藍色へ変わってきた土間で佇む雪輪が、闇の中から自分を見つめているなど思ってもいない。
大きな欠伸をする青年の耳に、ギャーオと鳴く猫の声が聞こえた。