君が留めむ
轟き続ける雷鳴は巨大な龍が天空をうねり海へ渡っていくように、長く深く夜陰を震わせている。
自分が誰ぞの腕の中に納まっていると自覚して、雪輪は驚いた。
――――誰?
知っている着物と皮膚の匂いがして、相手がわかる。
柾樹の左腕が、雪輪を胸に抱え込んでいた。目と鼻の先に浅黒い首筋と襟足があって、身体は濃色の膝の上に乗せられている。
『何事が起きたのか?』
雪輪は身動きの取れないまま、状況だけでも把握しようとした。
古道具屋にいるはずの柾樹が卒然とやって来て、浄蓮尼を拳銃で撃ち消してしまった。直後に、稲妻らしき光に周囲を包まれ、雷鳴が聞こえた。
そこからどうして、この人に抱きかかえられる成り行きになったのか覚えがない。
雪輪の長い黒髪が風で煽られ、千々に乱れて舞い上がっていた。
強い夜風は、大量の水を含んでいる。柾樹の肩越しに、硯色の空が広がっているのが見えた。湿気た温かい風で、黒雲が次々と飛んでいく。磨いたような月が、遠くに架かっていた。
さっきまで、高田屋の前にいたのである。
それが一面、空と月しか見当たらない。雪輪は身動ぎして下方を見やり、二度驚いた。己は柾樹に抱えられ、どこか高い建造物の上にいるのである。経験の無い高さで、無意識に黒紬の胸元を握り締めてしまった。足元には傾斜のきつい赤茶色の屋根。八角形の尖塔。
「浅草の、十二階……?」
やっと声が出た。
浅草陵雲閣の屋根の上にいる。
晴れた日には富士や筑波はおろか、箱根まで見えるという登高遊覧施設。
だが今は、月と星しか目視できなかった。気を失っていたとも思えないけれど、雪輪は市ヶ谷から場所を移し、浅草でこうしている。しかもこんなに不安定な場所に、どうして器用に乗っていられるのか見当が付かなかった。鳶に攫われた油揚げの気分で、手も足も出せない。
そのうち娘は、耳元で聞こえるのが風だけではなく、唸り声だと気が付いた。
つり上がった黒い目を僅かに上へ向けると、青白い月の光を反射する青年の琥珀色の前髪が、風に弄られている。銀縁眼鏡の奥の目は、瞬きもせず前方を見つめていた。
「……柾樹さま?」
呼びかけた雪輪の方には、目もくれない。
時折、周りを針金のような稲妻が走っては、傍らの避雷針に絡まり消えていく。稲妻を発しているのは、柾樹の右手にある銀色の拳銃だった。風音には甲高い、遠吠えみたいな音がまざって聞こえた。
睨む柾樹の視線の先を追い、首を廻らせた雪輪は息をのむ。
「無名様……」
幼い日に会った山の神が美しい月に照らし出され、空中に浮かんでいた。
ぼうぼうと伸びた黒髪に、古びた金銀糸の衣。翁の面は闇の向こうで月光を浴び、あの日と同じく微笑んでいた。煌く金色の粉と花弁が、どこからか現れては舞い散って夢の如く消えていく。
不思議と雪輪の心は恐怖より、ある種の懐かしさで満たされていた。
古い知り合いにでも会った気持ちで、『それ』を見つめてしまう。お久しゅうございます、と挨拶したいほど落ち着いていた。
と、『無名様』が、巨大な右手を重々しく持ち上げる。
緩慢な動きで人間へ向けて伸ばされた手と、その先にある長い爪の先。三日月形の曲線を描く爪の先端に載っていた白くて真ん丸の、それを見た瞬間だった。
――――あれは……。
雪輪の奥で、幼い頃の事件の記憶が堰を切ったように溢れ出す。
今まで、『よく覚えていなかった』箇所だった。
初めて山の神と出会ったとき。
無名様から差し出された、白粉を塗したみたいに白くて丸い餅に似たもの。五歳の雪輪は、それをどうしても食べなければならない気がして受け取った。しかし受け取って、途方にくれた。
『ここには、お皿が無い。お座敷でもない……』
何かを食べるときには支度をして、座るのである。適当な場所で、立ってものを食うなど教わっていない。食べる支度が整っていなければ食べられないではないかと、五歳の子どもは考えた。白くて丸いもちもちした物体を受け取り困っている雪輪の正面で、蹲った巨大な無名様も肩を落としていた。大きな山の神と、小さな少女は、夜の金色の梅林で無音の時間を共有していた。
そこへ背後から、叫ぶ声が聞こえたのである。
『その子を離せえ!』
聞こえた声の主が平蔵だと雪輪は気付いた。
しかし振り返る前に、事態が急変した。手に持っていた白くて丸い塊が、砕け散ったのである。
砕けて粉のように頭上から降り注ぎ、雪輪は輝く白いそれを全身に浴びた。柔らかく痺れるのに似た感覚があった。そして再び雷鳴が轟き真っ暗になった後、庭の松の木の根元へ戻されたのだ。
目を覚まし、母の胸に抱かれた雪輪は安心すると同時に恐ろしくなり、泣き出した。身体の具合もおかしい。声が中々出せず、手持ちの言葉も少なく、何が起きたか上手に伝えられなかった。子守のおしんが大人たちから叱責されているのも、悲しかった。
雪輪が「鬼が来た」と話したせいで、おしんが叱られている。
やがて、どれくらい経っただろう。平蔵が遠くに佇んでいるのを見つけた。
いつも優しくて、一番に心配してくれる平蔵。
その少年が、真っ青を通り越した土気色の顔をして、騒ぐ人々からも離れ、恐怖を湛えた目で雪輪を見つめていた。一言も発しないが、何か懇願するように雪輪を見つめていた。
きっと平蔵も叱られるのだ、と雪輪は思った。
『叱られたら、かわいそう』
(鬼に会ったという、これ以上を口にしてはならない。)
(夢に近い場所で平蔵の声を聞いたのは、誰にも言ってはいけない。)
そう考えた雪輪は、何もかも思い出さないようつとめ、いつしか覚えていない状態にまで至った。
蘇った戻らぬ過去に、雪輪は淡い痛みと後悔を感じる。
「幼さゆえの無知とは申せ、その節は……ご無礼のほど、お許しくださいませ」
二度までも、山の神が自分へ授けようとしている、白くて丸いものを見つめて言った。
雪輪が十二階の屋根の上から話しかけると、無名様が僅かに肩を落としたのがわかった。しょんぼりといった風な邪気の無さは、恐ろしげな姿と不釣合いに映る。その様もまた、思い出の再現だった。
「そちらを……わたくしが頂戴すれば、よろしゅうございましょうか?」
迷子へ声でもかける気分で、名の無い神へ娘は尋ねて白い手を伸ばしかける。
雪輪の問いへ、山の神から答えが示されるより先だった。震え続ける娘の身体を締め付けていた柾樹の腕の力が、ぎゅうと一段強くなる。
「柾樹さ……」
青年の方へ意識を向け言いかけて、止まった。
《グウゥーーー……》
低い唸り声が、振動となり伝わってきた。
見る間に、柾樹の牙が伸びはじめる。
メキ、ミシ、という鈍い音を伴って骨格が歪み、全身が不自然に変貌していく。耳まで裂けていく口と、黒く伸びる爪。肩も背骨も軋ませながら、柾樹の身体全体が膨張し始めた。皮膚が溶岩に似た質感で硬く変質し、赤黒く色を変えていく。
一瞬、放心状態で変異を傍観していた雪輪は息をのんだ。
――――これは、あのときのような。
故郷から帝都までの、旅の途中に起きた事件が蘇る。
共に帝都へ来るはずだった娘。女流歌人になるのだと拙い夢を語っていた、同郷の者。現れた常世の神に引きずられ、潰され壊れてしまったおちやの姿。あの光景。
「柾樹さま!」
咄嗟に相手の襟を掴んだ雪輪は、耳に直接というほどの近さで叫んだ。未知の恐怖で、身が凍り付きそうだった。
柾樹が、おちやと同じになってしまう。炭団になるか、隅田川の赤目御前の如くになるか。それはわからずとも、人ではない別のモノになってしまうと雪輪の六感が告げていた。
「柾樹さま、なりません! お戻りください!」
ややもすると山の神へ踊りかかりそうな人へ、雪輪は更に声を大きくして呼びかける。しかし月夜に浮かぶ『無名様』を見据える柾樹は、地鳴りに似た音を発するだけだった。
《グウウゥーーー……ッ!!》
唸り声に比例して、娘を掴む手の握力は握り潰す気かというほど、ますます強くなっていく。眼光は、獣が獲物を奪われまいとする敵意と似ていた。古い拳銃から発せられた細い稲妻が割れ、空中を走り回る。
「柾樹さま! 戻りなさい! 元に戻ってッ!」
呼び掛ける以外の手段を持っていない娘は、必死に叫ぶことしか出来なかった。
幾度も呼ぶ雪輪の声は、激しい夜風に飛ばされる。呼ばれても柾樹の横顔は振り向かない。皮膚は熱を放ち、いよいよ黒く赤く、色が変わりはじめた。唇を噛んだ雪輪は、身動きの取れない中で足掻く。
どうにか自由を取り戻した両の手を伸ばし、人から離れかけている柾樹の頬を包んだ。
異常に熱い。
「『戻れ』ッ!!」
殆ど絶叫だった。
雪輪がこんな大声を出したのは、生まれて初めてだった。耳を貫いた獣の鳴声みたいなそれが、己の声であることに、雪輪自身が驚いた。
鳴いた娘の言葉は力を発したらしい。
肉眼で捉えられる形に引き出されたのは違いない。魂の言葉は何ものかに受け容れられ、呼ばれた魂は戻ってきた。黄金の幻が離れ、止まっていた時間は動き出して暗転したのである。
「無名様……?」
雪輪が首を巡らせて見た黒い空の只中から、『無名様』は消えていた。
同時に、柾樹に迫ろうとしていた大小の変異がたちどころに消滅する。赤黒く脈打っていた溶岩色の皮膚も熱も、骨や牙の膨張も蒸発したみたいに元の状態へ戻る。銀色の骨董拳銃は無機物となり沈黙した。
最後に、その人が戻ってくる。
「ん……あれ?」
間近に見知った娘の真っ白な顔を見つけた柾樹の表情は、目に見えて寝惚けていた。
――――何でお前がいるんだ?
言わんばかりに、青年は自分の左腕が抱えている者を不思議そうに見ていた。
夢と現の区別がついていない無防備さを保って、二秒か三秒。それから柾樹は、ムッと眉間をしかめた。意地でもそうしなければ、格好がつかないとでも思っているようだった。
「俺に命令すんなっ!」
寝起きの機嫌と目つきの悪さで、雪輪の知る柾樹が怒鳴った。吐いた言葉は要するに寝言で、意味はない。考えるより先に、慣れた台詞が出たのだろう。
「戻った……」
雪輪は吐息と共に呟いてしまう。現の世界が、戻ってきた。
夢から覚めたばかりの心地なのは、雪輪も同じだった。それでも覚めた夢はまた寄せては返し、震える白い指の先端で青年の頬をなぞる。そこに居る存在のざらつきを確かめていた。相手もまた夢見心地の目で、大人しくなぞられていた。しかし互いが何もかも忘れるには、場所が悪過ぎた。
「え? ……だあッ!?」
削りたての鉛筆の先端と同じ形状をした、陵雲閣の屋根の上。
元よりどんな仕組みで保たれていたのか不明の均衡は容易に失われ、重力に従い人間達は屋根から滑り落ちる。すぐ下がテラスになっていなければ、景気良く地面まで落下して、きっと世間に心中話を提供していた。




