Tempesta
ごうごうと風が廻っている。屋根や壁、雨戸へ叩きつける激しい雨音も重なり、古い家は軋んで倒れそうだった。夜も更けて日付も変わり、どれほど過ぎただろう。
「ひどい風だなぁ」
時折うねりを増して強くなる風音に、長二郎が恐々と言った。ランプや行灯の灯りの傍ら、下宿人たちは本を読んだり書き物をしたり、寝たり起きたりを繰り返していた。
「川は溢れていないだろうか?」
「帰りがけに見た限りじゃ、心配無さそうだったぞ。雨よりも風がひでぇな」
千尋が本から目を離して何となく尋ねると、寝転がってあやとりしていた柾樹が答える。朝方に帰ってくる事が多い道楽者も、今日は夕暮れ前に古道具屋へ戻って来ていた。暴風雨警報も出されている。
「舟を出している家があった」
「まぁ、支度はしておくに越したことないだろうな」
頬杖ついたまま、中々筆の進まない長二郎が、眠そうな声で千尋の独り言に答えた。
低い土地に住む住民の間では、大雨が降れば水は溢れて当たり前という認識がある。いざという時に備え、小舟を支度している家もあった。
すると話しをしていた三人の耳が、隙間風に混じる別の音を捉える。
音が聞こえたのは、庭の方だった。六つの目が一斉に、締め切った雨戸を見る。聞こえるそれは、小さなこぶしが戸を叩く音だった。全員殆ど同時に立ち上がる。誰の口にも出なかったが、彼らは『女中』が帰ってきたと思った。
だが雨戸を開けて飛び込んできたのは、全く別のものだった。
「三介!」
金襴の袴と甲高い声。大粒の雨がびしゃびしゃと床を濡らし、現れたのは艶やかな赤茶の髪に水色の羽織を纏う子どもだった。
「は? ツネキヨ!?」
「な、何だってこんな日に……ずぶ濡れにな……ってないな?」
飛び入りに驚く柾樹と千尋の横で、再び雨戸を立てている長二郎が、濡れた畳廊下と濡れていない『ツネキヨ』を見ていた。ランプの薄明るい光りに照らされたツネキヨは、杖を持っておらず手ぶらだった。
「たわけ! これはどうしたことじゃ! 湾凪の姫は何処じゃ? やっと刀の在処がわかったというに……」
下宿人達の反応と無関係に、ツネキヨは自分の文句から述べ始める。硝子玉を嵌め込んだみたいな瞳の底が、ランプの光りを反射していた。暗かった室内が、ツネキヨの出現で明るくなる。
「お前、何しにきやがった?」
掲げたランプを近付けて柾樹が尋ねると、子供は、ふん! と鼻を上に向けた。
「布引姫様のお指図と、何遍も言うておろう?」
「知らねぇよ! お前そんなこと俺に一回も言ってねぇだろ!」
「むぅ? そうであったか……?」
何遍も言ったつもりになっているらしいツネキヨが、首を傾げた。
「じゃが布引姫様御自ら、湾凪姫を我が方で匿い無名の君を打ち払うのじゃと、その方に申されたではないか! よもや忘れたのではあるまいな!? ……あるまいな!? あるのか!?」
白足袋の足を踏み出し、黙る銀縁眼鏡を睨み上げた水色羽織は、金属質の高い声を上げる。
「何と! 人間も尊大になったものじゃ。昔は夢で告げれば、走り回って右往左往し、伏し拝んだものを」
頭の高い子供は腕を組み、ぶうぶう言っていた。
「……忘れちゃいねぇけどよ」
呟く柾樹の顔から表情が失せる。次いで、自分の顔面を右手で引っ叩いた。
「よし、起きてるな俺ッ!」
金茶頭を横に振った柾樹は己に言い聞かせる。
「ま、柾樹……?」
「何……何の話しをしてるんだ?」
長二郎と千尋が、困惑の目を向けた。ツネキヨだけは一層明るい笑顔になって言う。
「ともあれ喜べ! 姫様の仰せの通りであった。やはり帝都に隠されていたのじゃ。『のんでんぼう』の骸塚を使うとは、よくも思いついたものじゃ。手伝え。ちょうど場所がな……!」
話し始めた綺麗な子供を、「おい」という柾樹の声が止めた。銀縁眼鏡の青年はランプを置き、ツネキヨの前に肩膝ついて座ると、両手を伸ばす。
「耳の穴かっぽじって、よーく聞けツネキヨ」
「な、何がじゃぬー!」
円やかな白い頬を、両手で摘んで引っ張った。ツネキヨの頬をもちもちして、柾樹は質問を続ける。
「テメェの飼い主が……狐のババアが雪輪を匿うとしてだ。たしか播摩の城とか言ってたな?」
「如何にも!」
「狐の城ってのは、どうやって連れて行くんだ?」
頬を引っ張られながら質問を受け付けていたツネキヨの動きが止まった。
「『連れて行く』……?」
小さな手がだらりと下がり、長い睫毛も美しい瞼が見開かれる。
「……連れて? ……連れて? 連れて? ツレテ? ……ドウやって……?」
綺麗な子供は独り言を綴り始めた。瞳が透明度を増していく。
「サテ? ドノヨウニ? ……連れて行かれたのであったか、のう? ……我は?」
ツネキヨの瞳は真っ直ぐ前を見つめ、それでいて正面の柾樹を見ていなかった。
「もしかしてお前も、化物に連れて行かれたクチなのか?」
手を離した柾樹は問いかける。
「我は? ワ、が?」
花弁に似たツネキヨの赤い唇から出てきたのは、答えではなさそうだった。
「我は……ツレテ? そう、瞳に『印』が……我が一族によって、犠牲の祀リを……夜。新月。黄金の輿が……」
口頭の電報のようだった。途切れがちで覚束ない。ツネキヨの瞳の奥で、金色の燐粉が横切った。
「ツネキヨ?」
人形めいた幼い顔を覗き柾樹が声をかけると、ツネキヨの焦点が前の人へ戻る。
「違う。某は『常清』。永久の美しき主にて、いと気高くやんごとなき布引姫様にお仕えする者」
はきはきと明快な答えは棒読みで、ツネキヨは仁王立ちしていた。そして、柾樹が次に口を開きかけたときである。
「無駄無駄……そいつは木乃伊や。“入れ物”にこびりついた残り滓の記憶で言えるんは、これが関の山やろな」
真っ暗な台所の方角から、誰かが語りかけてきた。
湿った水臭い空気の中、書生たちは声の聞こえた方を見る。台所へ続く板の間は暗闇に沈んでいた。そこに居る何者かの影も輪郭もわからない。
「だ、誰だ……?」
身体を伸ばし、千尋が尋ねる。でもそれ以上は動けなかった。
「誰でもええわい、ボケ阿呆カスのスットコドッコイ。モノのついでに阿呆面拝みに寄っただけや」
罵ってくる渋い声の主は、拝みに来たのがどの阿呆面だったのかについては触れない。
「播摩の姫御世はなぁ……昔、人間の願いを叶えて、瑞獣と崇められてはったんや。次から次へと奇特を起こしてな。そこの木乃伊は、映し出された布引姫を常世へ渡すために使われた『針の先』や」
ぼそぼそと話し始めた。その間も、赤茶色の髪も艶やかな『木乃伊』は、無反応で突っ立っている。
「布引姫様は人の世に大層お詳しい。その上、大層お優しい。『人間は己が姿を残したがるもの』や言わはってなぁ。形だけ、こないなって永遠を約されとるんや。形だけな。姫御世の御殿には、こんなんが仰山おんねん。何や用事があるたびに、その木乃伊をお使いにならはってな。おめでたいこっちゃ」
煙に巻くような口調の最後の部分は、鼻先で笑ったようでもあった。
姿の見えない者のお喋りを聞き、下宿書生の三人がそれぞれの顔を見た時。
「そないなことより……来はるで」
物陰に潜む何者かが告げて、俄かに空気がひやりとした。誰が、と問う前に
「まぁ……何や、お神楽でもしてみたらどないや? 気ぃ変わらはるかもしれへんで?」
飄々と声が言うや否や、ランプから行灯、火鉢まで、室内の火という火が消えた。
刹那の闇を
――――ドンッ!!!
閃光と大音響が粉砕した。
「わッ!!」と叫んだはずの声まで消し飛ばされる。
最も近いのは落雷か大砲。何かの炸裂音。書生たちは屋根が落ちたかと思った。突如訪れた暴威に、身体の自由も思考も奪われる。「ギャンッ!」と鳴声を残し、ツネキヨが紙切れより軽く奥の部屋へ飛んでいった。
一瞬後、柾樹は尻餅をついた格好で、自分が飾り棚の柱に背中を強か打ったと把握する。座敷の奥まで盛大に吹き飛ばされていた。顔を歪めて辺りを見ると、左手向こうでは長持にぶつかった千尋がうずくまり、右隣では長二郎がうつ伏せて倒れている。
「……何だ?」
声が潰れた。今の爆音で耳がやられたかと思ったが、聞こえる。全身が見えない何かに圧迫されていた。急速に凍っていく金魚鉢の中の金魚は、こんな混乱と無力に苛まれるだろうか。
無理やり視線を上げると、雨戸は全て内側へ薙ぎ倒されていた。縁側の向こうに現れた夜の庭。
切り取られた景色に柾樹は目を瞠り、息をのんだ。
見慣れた古道具屋の庭ではなく、知らない景色が広がっていた。黒い空には雲一つ無く、異様に巨大な白い月。一面、金色の粉が舞う黄金の梅林。足元には地平線まで延々と、野の草花が揺れている。
美しい悪夢の中心に、月を背負って佇む射干玉色の影がいた。
月光で煌々と照らされた、大きな黒い人型のモノ。遠慮会釈なく出現したそれらを一望し、柾樹の頭にいつだったかの午後、蔵で雪輪が『退屈の虫のお鎮めに』語った思い出話が蘇った。
雪輪が幼かった日の記憶。故郷の古い家と庭。突然の雷鳴。転換した景色。
――――見上げると松の木の上に、知らないヒトがいたのでございます。
アイツか、と柾樹は直感した。人の形をした、大きな影。
身の丈は一丈はある。風に舞う黒髪はボサボサと長く、纏っているのは金糸銀糸の古びた袍。被っている翁の面は眉も白い髭も無く、木肌が剥き出しだった。陰翳さえ鬱金色に揺らめかせ、黄金の静寂と共に人間達と向き合っている。
やがて翁の面を被った『それ』は、水面を滑るように近付いてきた。
大きな身を屈めて庇を潜り、無音を従えて古道具屋へ入り込んでくる。色褪せた金銀糸の着物の袖から、三日月のような形の長い爪が覗いていた。柾樹が懐の拳銃へ、手を伸ばしかける。瞬間、拡がった再びの衝撃で「ぎゃっ」と室内の全てが押し潰された。衝撃の弾みで古道具が飛び、倒れたバイオリンが、リャン、と鳴る。
すると、馬鹿げたことが起きた。
楽器の音がした方へ、人の形の『それ』が首を細く伸ばしたのである。見知らぬ玩具を不思議がる幼子みたいに、伸ばした首は僅かに捻り曲げていた。
「き……興味が……あるんじゃないのか?」
非常事態下でも意外と頭の冷えている長二郎が、畳に突っ伏して囁いた。
「弾いてみたら、どうだ?」
癖毛頭を微かに上げた小柄な青年は、ぼんやりしている柾樹へ提案する。
「……俺が?」
「他に誰がいるんだよっ」
まだ間抜けを抜かす銀縁眼鏡を、長二郎は掠れた声を潜めて叱った。
楽器は、持ち主のすぐ傍に落ちている。
柾樹は重く痺れる手を伸ばし、どうにかこうにかバイオリンと弓を握った。理由不明の圧迫感に抗い、柱に掴まってじりじり立ち上がると楽器へ顎を乗せる。調弦をしている余裕は無かった。冷や汗が流れ、空気は凝固してしまったようで吸い込んでいる感じがしない。
翁の顔をした『主賓』は柾樹と楽器を見つめ、鈍い鬱金色と風を率いて静止していた。
奏者も相手を睨みつけ、何とか構えた。しかし
――――何を弾きゃ良いんだ?
頭が止まる。この客が、どんな曲をご所望かわからない。弾き手も思い浮かばない。
――――知るか馬鹿野郎がッ!!
カッと血が逆流するような感覚がして、苦し紛れに弓を動かすと音が出た。
その勢いで、琥珀髪の青年はバイオリンを弾き始める。
乱雑に散らばった古道具に囲まれ、無表情に微笑む翁の面へ向けて柾樹が弾き始めたのは、『パガニーニ作曲二十四の奇想曲二十四番クワジ・プレスト』だった。
弓と弦を操っている間中、無心で何も考えていなかったが柾樹は一度も弾き間違えず、自分でも止められなかった。何故あんなに動かなかった手が動いたのか。何故この曲を弾き始めたのか知らない。最初に出た音に導かれたから、かもしれない。
高音から低音まで、連なり逆巻く華々しい旋律に引き摺られるのも同然に弾いていた。滑る弓と指の動きが狂ったように速くなっていく。華麗そのものといった楽曲は、鬱金の闇と金の花びらが散る梅林の中、時に凪いだと見せては、また飛び跳ねて濃艶に乱れ舞った。
そしてバイオリンが最後の音を叫ぶと、蹲っていた巨大な客は座敷から消えたのである。
金色の梅林も巨大な月も、消え失せた。
悪夢が消えた空間へ、湿った青い夜が戻ってくる。紺色の時間と空気が潮のように満ちてきて、雨の音も聞こえてきた。帝都の両国橋近く。数鹿流堂の外で風は凪ぎ、雨粒は細かくなっていた。
「……は、はああぁー……っ!」
特大の溜息をついたのは、書生三人同じだった。座り込んだり、畳に倒れこんだり転がったり三者三様。「死ぬかと思った……」と、千尋が半泣きしている。古道具屋の座敷で、溺れかけていた人間が陸に上がったかという惨状だった。
「柾樹、お前……バイオリン上手かったんだな? いや、これまで下手だったという話しじゃないぞ?」
「楽器は知らないが……驚いたな。あんな早さで弾けるものなのか」
起き上がる気力を取り戻してから、千尋と長二郎が言う。二人とも声が干乾びていた。柱に背を預けた柾樹も、呆然と自分の手を見つめている。
「……何だ? 俺はどうして、あんな曲弾いた? 何で弾けたんだ?」
弓と弦はぼろぼろになっていて、両手の指先も痛んでいた。
「今まで弾けなかったのか?」
「弾けるわけねぇだろ、あんなバカみてぇな曲!」
「何故怒る?」
柾樹は怒鳴るが、長二郎も千尋も先に演奏された曲が超絶技巧を必要とする難曲と知る由もない。
「そ……そうだ。ツネキヨはどこ行った? おーい……ツネキヨ? 大丈夫か?」
気を持ち直した千尋が散らかった古道具を掻き分け、ツネキヨを探しに行った。だが呼びかけに応答は無く、綺麗な子供の姿はない。
「奥の方へ、すっ飛んで行ったと思ったが……逃げたのかな?」
ぶつぶつ呟きながら、千尋は他の部屋も見て回っていた。背を丸めて座り込んだ長二郎が、消えたランプへまた火を灯す。
「何だったんだ……あの化物?」
身体を縮め、長二郎が怯えた眼を上げて呟いた。顔色は橙色の光りに照らされても、まだ青い。また明るくなった十二畳で、揺れる小さな炎は集まった三人の影も放射線状に長く伸ばして震わせた。
「な、なあ……? さっき、声だけ聞こえたアレも、誰だったんだろう? 姫御世とか、お神楽がどうこう言っていた……渋いというか、役者のようなというか、おやじのようなというか」
振り返り振り返りして、千尋が切り出した。台所に誰もいないとわかっても、また何か出て来はしないかという畏れが顔へ出ている。
「火乱の、声……」
硬く腕を組んだ長二郎の口が、小さな声で言った。
「え? 火乱……? 猫の火乱か?」
首を傾げた千尋が尋ね返す。
「……の声に、似ていた気が……」
「何で知ってんだ田上」
囁かれる長二郎の自問に、応じた柾樹の言葉。弾かれたように顔を上げ、そこにひどく深刻な表情を見つけた長二郎が息をのんだ。
「柾樹も知っているのか……!? やっぱり火乱の声だったよな? アイツ喋るよな!?」
裾の擦り切れた袴は膝歩きで近付き問い質す。
「あれだろ、変な上方訛りで……?」
「そうそうそうそう! 何か頭にこびりつくんだよ!」
柾樹の返事に、長二郎は何度も首を縦に振った。
「お前、それいつ聞いた?」
凭れていた柱から離れ、今度は柾樹が尋ねた。尋ねられた方は、顎に手を当てて考え込む。
「野村庵で昼寝をしたとき、話しかけられたんだ……柾樹は?」
「……夢の中」
呟いて横を向いた柾樹の口元は、積極的に言いたくはないと言っていた。長二郎が顔を顰め、「うああー」と声を絞り出す。鳶色髪を両手で掻き回すので、癖毛はもっと絡まった。
「僕も夢だと考えていた……だから、さっきそこからあの『声』が聞こえて、背筋に氷柱が」
これまで白昼夢と始末してきた、蕎麦屋での一時と記憶。
淡い夢が、嵐の闇夜に生々しい感触を伴って語りかけてきた恐怖感。それでも長二郎は、今の今まで信じ切れずにいたのである。自分ひとり『実感』があっても、それが『現実』とは限らないと思っていた。
「火乱は赤毛だし、前からデカ過ぎるとは思っていたが化猫なのか? しかし尻尾も割れていないから、猫又ではないだろ」
「俺が見た夢だと、虎みたいにデカくて、尻尾も二本あったぞ」
「そうなのか!?」
「ま、待ってくれ。オレも仲間に入れてくれ、話しが見えない……」
置いてけぼりの千尋が耐え切れなくなり、二人へ頼み込んだ。
「火乱が化猫であろうという……え? おい、柾樹?」
存在を忘れていた千尋へ、解説を始めようとしていた長次郎が慌てる。やにわにコヨーテの拳銃を掴んだ柾樹が、腰を上げたのだった。背の高い青年は、つーと台所へ行き、土間へ降りる。
「え? え? ど、どこへ行くんだ!?」
吃驚している千尋の声が引き止めても、答えもしない。
裏口を抜けた柾樹は何かに襟首でも掴まれたように、古道具屋から駆け出して行った。




