不正直
鹿目は高田屋の広い庭に出ていた。
縁側の外から藁団子を乗せたみたいな頭だけ出し、猫に似た目で室内を覗いている。生暖かい風の吹き込む部屋は、この前も来た子供部屋だった。
――――暴風雨が来るぞ。
九月の空は晴れているけれど、鹿目は鼻腔の奥で匂いを感じ取り、そわそわしていた。そわそわの理由は、風だけではない。
これから大切な話しが始まるから、大人しくしておいでと『師匠』の尼様に言われた。それは忘れていない。でも座敷に居並ぶ人々の面を見て、鹿目はそわそわどころか、全身がむずむずしている。
鹿目の目で見ると、尼様もひいさまも。蜜柑をくれるお内儀さんも、その旦那というおじさんも、重苦しくていけない。鹿目はこんなのは嫌いなのである。しかつめらしい顔を並べている一座へ飛び込んで、歌って踊りたかった。「わあっ!」と声を出して大暴れしたい衝動が、腹の底で沸いている。
しかし思うに任せて動くと、いつも「どうしてお前はそうなのだ」と叱られた。
家出の前も、弟と妹は新しい羽織と着物を仕立ててもらっていた。
でも鹿目は新しい着物を仕立てて貰えない。「どうせお前はまた鉤裂きをつくる」と、柿色の帯も同じままだった。では鉤裂きをつくらないようにしようと裸で道を歩いていたら巡査に捕獲され、また親に怒られた。あんまり長い事くどくど叱られて、晩飯も抜きにされたため家を出てきたのである。ひいさまの御供をしてきたここまでの『旅』は、楽チンで快適だった。
あの雪輪というお姫さまが、鹿目はちょっと怖くて苦手である。
夜になると雪輪の背後で暗闇に切れ目が走り、そこから誰かがじいっと覗いている感じがする。それでも、ひいさまの近くに居ると懐かしい気持ちがしたし、それもまた怖いのだった。
その雪輪さまが、お話しをされる。
怖いのと追い払われたくないのとで、少女は縁側の外でしゃがみ込み一生懸命辛抱していた。
「わたくしが存じておりますのは、かような話しでございます……昔、京の都から東へ下る人がおりました」
先日と同様、隣の八畳に控えた真っ白な娘が話しを始める。
雪輪の右斜め前には浄蓮尼。お桂の他に、今日は夫の冶兵衛も同席していた。男は身体の線が細く、髪の薄い頭がより大きく見える。気負った風はなく、先ほども縁側に隠れている鹿目を見て、小雀でも見つけたように笑っていた。
「……どこの国まで来たでしょう。ある人里を通る頃に日が暮れました。この里に一宿するより他無く。裕福そうな大家を訪ね、泊めてほしいと頼みます。家の主らしき老女が出て参りまして、快く招き入れ部屋へ通してくれました」
尼の『弟子』の物語りを大人が聞いている様は珍妙で、縁側の藁団子はくっくと喉で笑っていた。
「夜となり休んでおりましたところ、家の奥が騒がしくなりました。どうしたことかと思っていると、先ほどの老婆が出て来て申すのです。『私の娘が懐妊し、臨月でございました。それでも今はまだ大事無いと、あなたに宿をお貸ししたのですけれど、俄かに産気づいてしまいました』と」
旅の人は、産が大事無く終わることを祈っていたようである。
「その後騒ぐ声がし、離れた部屋にいる旅の人にも『生まれたのだ』とわかりました。そして旅の人が泊まっていた部屋の近くには、ちょうど外へ通じる戸があったのですが……家の奥より、何とも不気味な男がやって来たのです。丈は八尺ばかり。男は部屋の横の戸を潜り、外へ出て行こうとしました。しかし去り際に恐ろしい声でこう申しました。『年は八歳、理由は自害』」
聞いたお桂が、顔を上げた。鹿目も縁側で話しに引き込まれている。南から吹き込んできた風が、部屋のおもちゃと色とりどりの紙切れを震わせていた。身の丈八尺といえば、天井に頭もつきそうな大男。それが深夜、家の奥からやって来た。
「旅人も、一体どこの何者だろうかと思いました。しかしながら暗さで姿もよく見えず、人に言う事も憚られ、暁と共に出発しました。やがて八年、九年と月日は流れ、都へ帰ることになりました」
黒々と眦の切れ上がった目で畳を見つめる雪輪は、感情も抑揚も少なく、小さな口で話し続ける。
「道中……再びあの家の前を通りました。『当時のお礼もまた述べなければ』と訪ねます。かつての老女は更に老いていましたが、『よくぞお訪ね下さいました』と喜んでくれました。物語などして過ごすうち、旅の人が『前に伺いました夜、お生まれになった子は大きくなられたでしょう。男の子ですか、女の子ですか』と問いました。すると老婆が、突然泣き始めたのです」
九年前の思い出が如何様になったか尋ねた旅人へ、泣く老婆によって家の幸と不幸が明かされた。
「生まれたのは男の子でした。健やかに暮らし、大きくなっていたのです。それが去年、木に登って鎌で枝を打っていたとき、木から落ちて鎌が頭に刺さり死んだと申すのです。旅の人は大層驚き、考えました。『あの夜に戸を出て行った者が言っていたのは、これであったか。鬼神の予言であったのか』と」
生まれた子の寿命と死に様について、予言をしたモノを旅人は鬼神と断定した。だが今昔物語の著者は、因縁として解いたようである。
「人の命は皆前世の業により、生まれたときに定まっている。けれど人は愚かであるから、今、出し抜けに死んだように思い嘆くのだ……と、お話しは結ばれておりました」
それは物語が記された時代の、最も先進的で理性的な解し方だった。しかし本当に未開の人々の妄想であるかどうか、誰一人確認出来ないのは文明が開化した今とて違わない。
「そのお話しは……?」
「今昔物語にございます。『東に下る者、人の家に宿りて、産に会う事』。今は昔のお話しです」
細い身を傾げて問いかけるお桂に、雪輪は浅く頭を下げた。
「それは……まるで、当家と同じような……」
高田屋の内儀が、言いかけて止まる。
「お桂よ。その男は見つからないぞ」
夫の冶兵衛が、口を開いた。瞼は閉じていた。「え?」と左側を向いた妻。重く息を吐いてから、高田屋の主人は閉じた瞼を開いて向き直る。
「嘘だからだ。私が話したあれは、この今昔物語に準えた、嘘なのだよ」
言いながら骨ばった手を伸ばし、妻の膝の上にある細い手の上へと重ねた。
「我が家に『不気味な男』など来なかった」
分厚い声は低く、冶兵衛が喋るたびに大きな喉仏が上下しているのが鹿目にも見える。
「お桂。お前は覚えていないか? 思い出せるか……? お前は事故があった日から二日間、キヨシを抱えて離さなかった」
妻の目を見つめる冶兵衛の言葉には、僅かに上方の音が残っていた。
「医者に『亡くなっている』と言われても、聞き入れなかったのだよ。『それはわかりましたが、治るのはいつ頃ですか』と繰り返す。あの子の頭に包帯を巻いて、服を取り替えてやっていた。口に砂糖水を含ませてな。世話をやめない。『そんなに泣くんじゃないよ、今に治るからね』と話しかけ続けていた」
妻の手を強く握り、高田屋は過去の情景を物語る。
死亡事故の直後から、お桂は医者の言葉は聞こえないのに、キヨシの痛がる泣き声は聞こえるようになってしまった。冷静に介抱し続け、食事をとらず、休もうともしない。静かに青褪めている妻を前に、冶兵衛は立ち尽くすことしか出来なかったと自白した。
「家の者も、子供達も戸惑っていた。私も、どうすれば良いかわからなかった。キヨシを病院へ連れて行こうと話しても、お前は応じない」
当時のお桂も、頭のどこかではわかっていたのだろう。
「そういうお前の耳にやっと届いたのが……あの『不気味な男』の話しだった」
冶兵衛はまた自分の膝へ視線を移して言った。
動揺する他の子供達や、家の者への配慮もある。これでも駄目ならば己が、力尽くでお桂の腕からキヨシを引き離すより他ないと考えていた。
「生まれた日に奇妙な死神が訪れ、あの子の寿命を決めた。これは決まっていたのだと……そこでようやく、お前はキヨシが死んでいると聞き入れた。だから何もかも『不気味な男』の仕業としておいた」
不条理を、より大きな不条理で包んでやると、お桂は悲鳴を上げて泣き叫んだ。
何故、どうしてと泣き喚き怒り狂いながらも、息子の死だけは認めたのである。誰も傷付かない虚構へ全てを横滑りさせることで、母親はこれ以上の狂気へ陥るのを免れた。夫の声は届き、手を握った死者と共に彼岸へ突っ走りかけていたお桂は、ゆるゆるとこちら側へ引き返してきたのだ。
そこから花簪屋の妻は意識が戻り始めた。次男の通夜が終わった頃には正気付いたが、二日間の記憶は抜け落ちていた。
「ええ……」
夫の話しを聞き終えたお桂は、息を細くつくと共に頷く。
「知っていたか?」
「ええ……最近……ですけれど」
「そうか。言わなかっただけか」
やつれた妻の横顔を悲しそうに見つめる主人は、手を握り締め続けていた。
「貴方こそ、何故今まで何も仰らなかったんですの?」
付き合いの良い夫へ、血色の悪い唇の端で微笑んだお桂に、冶兵衛は黙り込んでいたが
「真実を話せば、お前まで失ってしまうのではないかと思うと……恐ろしかった」
真面目な顔で答える。それまで黙していた浄蓮尼が、口を開いた。
「どうか責めないでほしいのだ、お桂殿。この『物語』をしては如何かと、冶兵衛殿に勧めたのは私だ。通りすがりに、こちらで起きた不幸を聞き、相談に乗ったのだ」
あの日、家中に辛い顔を見せられない高田屋の大黒柱は、家の外で一人途方に暮れていた。そこへ立ち寄ったのが、浄蓮尼だった。
「キヨシを荼毘に付してやるためにもな」
穏やかな眼差しで、尼僧は微笑む。花と涙と悼む声に送られ、あどけない思い出を残し、少年は六年の生を終えた。
「ごめんなさい」
歯を食い縛る隙間から言葉を洩らしたお桂の目より、ぽたぽたと雫が落ちていく。
「良いのだよ。けれどお前が、死神を捜し始めるとは思っていなかった」
妻の涙に、宥める冶兵衛の表情が安堵を滲ませた。
「キヨシがね……影も形も、家から消えてしまうのが、耐えられなかったのです。あの子の話しをしている間は、まだ家にいて……傍にいるように思えたんです。まだこの世から消えてはいない。もしかしたら、戻ってくる気さえして。そうでもしていないと、辛くて、悲しくて苦しくて」
身体を固く強張らせ、声を詰まらせてお桂は言う。
お桂は物質としてはわが子の手を離しても、精神の手は離せないままでいた。それでも時間は流れ続け、早く立ち直らなければと焦るほど、迷路のようにまた過去へ戻り、語る行為を繰り返してしまう。そういう妻を、高田屋の主人は叱らなかった。
「私も同じだ。仕事の忙しさへ逃げていた」
冶兵衛の告白で驚いたように、お桂が顔を上げる。
「あれは私の責任だ。拳銃はせめて、子供の手の届かない所か、鍵のかかる場所へ仕舞っておくべきだったのだ。キヨシを死なせ、お前には気も狂うほどの辛い思いをさせたが……何一つ、私は正面から向き合えなかった」
吐露したのは泣き叫ぶのとはまた別の、慟哭だった。俯く夫の姿に、お桂は目を瞠っていた。
「冶兵衛殿……言っておいたではないか。また一年後にこちらへ参るゆえ、それまでは。見たくない真実ならば、無理に見ずとも良い。いずれ時は来るのだからと」
高田屋の夫婦に、浄蓮尼が声をかける。
「冶兵衛殿も、この一年で少しは落ち着かれたか?」
「後悔も、虚しさも、増すばかりですが……」
弱々しく答えた冶兵衛の手に、再び涙を浮かべて今度は妻が手を重ね握り返していた。
「では、これからは、夫婦互いに悲しみを話されよ。そして時には、他の誰ぞに語るのも良いだろう。人の一生は短いが、逝った子を偲び弔い、泣いてやる時間くらいはある。まずは、それから」
語りかけた浄蓮尼の言葉を遮るように、ぱたぱた、きゃっきゃと子供の声が廊下から近付いてくる。勢いよく襖が開いた。
「お母さん!」
部屋へ飛び込んできた幼い少女は、「駄目だよ!」と小学生の兄に捕まり、後ろから抱きかかえられる。大人達は驚き、雪輪が隣室の襖の後ろへ少し下がり、縁側の鹿目も身を縮めて隠れた。
「これね、ご法事でキヨ兄ちゃんにお供えしようと思ってね、あたしこしらえたのよ!」
赤い小袖に振り分け髪の幼女は抱えられた状態で、小さな手に持つ千代紙を振り回した。後ろからもう一人、桃割れ髷の少女が部屋を覗き込んでいる。
「お父さん、もう良い? 何のお話ししていたの?」
母のところまで妹を運ぶと、きちんと隣に座って長男坊が父を仰ぎ尋ねた。
「尼様が、お父さんとお母さんの怖い夢を、退治して下さったのだよ」
「それってキヨちゃんの、死神の事……?」
兄と妹に続いて行儀よく部屋へ入ってきた桃割れの少女が、両親を見比べる。黒い眼差しは事情をよく理解している様子で、心配そうだった。少女の顔を見たお桂は、苦笑を浮かべる。
「知っていたんだね」
横に佇む長女へ手を伸ばし、自らの膝に乗せて抱きしめた。
「ごめんね……お母さん、自分のことばっかりだ。あんたたちに辛抱させて、手一杯の弱虫で……」
涙声で言い、隣の少年も抱き寄せる。一番年長の少年は照れているのか、少し口元がはにかんだが、大人しく母の腕に抱かれていた。
「いいのよ、お母さん。これでもう悪いやつは来ないんでしょう?」
膝に乗せてもらい嬉しそうな姉娘が尋ねると、お桂は左手でその前髪を撫で頷いた。
「ええ、来ないですとも。大丈夫」
噛み締められた言葉は、己を奮い立たせるようでもあった。
「よかった!」
姉の膝の上にちょこんと座り、末っ子が足をばたつかせる。無邪気な幼子に全員が笑った。まだ幾ばくか涙混じりであるが、笑顔が並んでいる。
――――いいなぁ。
縁側に齧りつき、鹿目は一部始終を見ていた。自分もあんな風に、父や母に笑っていてほしいと思う。思っているのに、うまくいかない。鹿目の物思いをよそに、やがて高田の一家五人は、揃って部屋を出て行った。ぴょいと縁側に腰掛けた少女は、風の吹きわたる空を見上げる。
「お手を煩わせたな、雪輪様」
「いいえ……このようなことで、お役に立てるのでしたら」
人が減り、余白と静けさが増した子供部屋で、尼僧が襖を開き陰にいる娘へ声をかけていた。雪輪は今日、浄蓮尼から『百物語』を口実に、お桂に“話し”をする力添えを頼まれたのだった。
「如何なされた?」
青白い顔の娘が動かないのを見て、浄蓮尼が尋ねた。
「浄蓮尼様は昔……人の死ぬむなしさに怯えていたと、そう仰せでございましたが」
雪輪の黒い瞳が動いて、八百比丘尼を映す。
「もしや……浄蓮尼様も、お子を亡くされたのですか?」
声を潜めて娘が尋ねると、尼僧の頬は変わらない微笑を浮かべた。
「何故そのように思われる?」
「お桂さんのお気持ちを、己の如く、鮮やかにご存知のようにお見受けいたしました」
浄蓮尼の答えは問いという形で表れ、雪輪の無感情な声が更なる平静で返される。
「よく見ておられるな……そうだ。私は子を亡くした母親だった」
微笑んだ八百比丘尼は去年、高田屋に声をかけ相談に乗った経緯を打ち明けた。
「お桂殿が、昔の自分と重なって見えた。それゆえ、かような真似をした」
「では……高田屋殿に、巻二十六、十九の物語をなされたのは?」
尼の話しの終わりを、雪輪が繋げる。
「……あれは、私だからだ。まだ人であった頃の、私の思い出」
一時の空白の後、諦めたような声色と笑顔で、浄蓮尼は言った。
富裕な網元の娘で、子を持つ母でもあり、どこにでもいる只の女だったろう浄蓮尼。それが今では、不老不死の八百比丘尼となっている。
「今一つお尋ねいたします。何ゆえ、人魚の肉を食されたのでございますか?」
雪輪の声が、秋の風が滑り込む部屋の漆喰に反射する。
「寿命さえ延びれば……世の理が解るかと思うてな。不条理の答えが見つかり、蒙昧の目も開けるのではと考えた。……いつか、あの子の生まれ変わりに出会う日も、あろうかと思っていたのだが」
八百比丘尼は外を眺め、誰かを思い出す眼差しで語った。
「……のう、雪輪様? この後、御室の里に参られるのであれば、私もお供して良いだろうか?」
死なずの尼はそう言って、山の神に魅入られた娘へ柔らかく伺いを立てる。その問いを挫くように、少女がごろごろと床を転がって接近してきた。
「鹿目?」
浄蓮尼と雪輪が揃って見返った。
「ひいさま。おいら、家に帰りたい。帰って、みんなと飯が食いたいや。いつも飯の後には、あっためた牛乳を飲むんだよ。それにさ、近くの寺の境内に雌の銀杏がいてさ、あいつにもひいさまの話しをしてやりたいんだ。いつもゲラゲラ笑ってるんだよ」
起き上がり胡坐をかいて、鹿目は言う。
「そうですか……それが良いでしょう」
来たときと同じかそれ以上に早急な頼みにも、雪輪は微かに頷いただけだった。
「では、この尼が家まで送り届けよう。経緯は、私から親御に話してやろうな?」
浄蓮尼の笑顔に、鹿目は前歯を見せてニカと笑い返した。




