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猫の銭

 午砲ドンが鳴ったとき、鈴は上野の雑踏にいた。

 麻裏草履を止めた場所は広い十字路で、左へ曲がりゆるい坂を北上すれば上野の公園がある。


 お使いの帰り道。風呂敷を抱え、おなか空いた……とぼやぼや歩いていた蕎麦屋の娘の目に留まったのは、道端で蹲る大きな赤毛の猫だった。そして


「来い来い、アカ」

 賑わう往来の隅、ぽっかり空いているそこで、猫に話しかけている腰の曲がった人。傍らでは、廃車寸前に近い人力車が休んでいた。


「久しぶりだ。どうした、今日は? 見回りか?」

 猫は返事をしないが、逃げるでもない。車夫と猫は知り合い顔だった。

 立ち止まっていた娘の視線を感じたようで、破れ半纏がのそりと背後を振り向く。頭は禿げ上がり丸い顔の皺は深く、真っ黒に日に焼けていた。老人と言って良さそうな顔だった。


「オヤ……どちらかへ? お安くしますよ」

「あ、違うんです。ごめんなさい!」

 禿げ頭に尋ねられたおさげ娘は、紛らわしいまねをしたと大急ぎで謝った。


「そうかい? いいんだ、いいんだ。こっちの勝手な思い違いなんだから」

 車夫は笑って皺だらけの手を振る。

 鈴はホッとし、優しい車夫にすまない気持ちにもなった。最初から鈴を客と期待していなかったとしても、対応が柔和だった。


 人力車夫という人達は、大体みんな気が荒いと鈴は思っていた。

 彼らは古い時代の、駕籠かき的な存在である。雲助は乱暴で、運賃の他に「酒代も払え」とふっかけてきたりすると相場も決まっていた。その後継者なのだから、お上品なわけはない。


 車夫も様々である。得意先があったり、どこかのお抱え車夫であれば別だった。手車と呼ばれる彼らの車は美しく塗られて車輪は磨き上げられ、綺麗な膝掛けが支度されている。衣服身形も整い、威勢よく駆けて行く姿は颯爽としていた。


 しかし道端で客を拾う車夫の多くは、その日暮らしの者達だった。帝都は車夫が多過ぎて、客の奪い合いと競争が熾烈を極め、生活も苦しい車夫達は性質も荒くなっていく。少し前には鈴も通りすがりに声をかけられ、付き纏われて逃げたら後ろから「貧乏人で金がねぇとさ」という台詞と、笑い声が聞こえた。こんなことは帝都では珍しくもなく、鈴も慣れてはいる。


 だから気の優しい老車夫の笑顔に、多少の心苦しさと、珍奇なものを見た心地がした。

 今も老人はしゃがみ込み、鈴よりも赤い猫に構っている。


「大きな猫ですね。犬かと思っちゃいました」

 老車夫の背後から、お使い帰りの小娘は遠慮がちに声をかけた。


 道行く他の人達は見向きもしないけれど、へたな犬より体格の良い猫に鈴は見惚れてしまう。猫の毛先は黄金に光り、身体の横に巻いた尻尾は長く美しい。おさげ娘の言葉を聞き、土埃の漂う道で車夫がふふふ、と笑った。


「こいつはね、福の神なんだよ。毛並みもつやつやして、獅子みたいだろう。立派なもんだ」

「福の神? おじさんの猫なんですか?」

 得意げな車夫へ、鈴は尋ねる。赤猫は恰幅も良く、人慣れしているようだったからこの人に飼われているのかと思った。


「いいや、違うがね。こいつを見かけるようになってから、妙に運が向いてきているんで、そう思ってるんだ。きっと嬢ちゃんも拝んで損はないよ?」

 老車夫は楽しそうな真顔で、普通の猫より三周りは大きい猫を紹介する。


「ここだけの話しだ。この猫は本当に金を運んできたことまである」

「え、すごい! 運ぶって、どうやって?」

 興に乗ってきた禿げ頭の立ち話しへ、人懐こい蕎麦屋の娘は乗っかった。


「首にな、こう、小さな包みを括りつけてきたんだ。包みだけ置いて猫は帰っちまう。何ダと唐草模様を開けたら、中に銭だよ。十六銭も入ってた」

「へええ~!」

 禿げ男は、猫が運んだという福話を披露する。あまり疑う頭を持っていない鈴は、素直な驚きの声を上げた。


「このジジイが、車を一日うろうろ引いて回って、よく稼げたときと同じくらいだよ」

 自慢話の終わりに零れ出た老車夫の生活事情を聞き、「まあ」とおさげ娘は答えるよりない。


 客を多く拾える停車場前などは、場所代を払える者でなければ入れてもらえなかった。踏み込めば、袋叩きにされかねない。資本を持たない下等車夫と呼ばれる人々は、取りこぼしの客を探して歩くしか、収入を得る手段がないのだった。


「たまげたなんてもんじゃなかったさ。でも猫が運んできたからって、猫糞ネコババはいけない。そうカカアに叱られて、それでも惜しいなぁと思ったが……やっぱりいけない」

 皺も深い顔を、更にくしゃくしゃにして笑い、老人は言う。


 客が忘れた財布の中身で平然と飯を食ったり、賭博に利用してしまう剛の者もいた。しかしこの人物は、それが出来ない人だったようである。武士は食わねどだとか、江戸っ子の意地だとか、そういうものとは別の趣だった。でも何であれ、誤魔化しはしなかった。


「交番へ女房と届けた。そうしたら、そのときの巡査方が情に厚い方でなぁ……猫の金は拾い物として受け取って、『正直の褒賞金じゃ』と、自分達の懐から十六銭出してくだすった。ありがてぇと、三拝九拝だよ。おかげで、車屋の歯代も払えてな」


 貧しい老いぼれの人力車夫と女房が、馬鹿正直に届け出てきた『猫の銭』。感激と憐れを覚えたのだろう巡査達は、機転を利かせてくれた。

 そうして手に入った臨時の収入は、車夫の人生の歯車を少し変えたという。


「そこから、何故だか客を拾うようになった。女房は内職や通いの女中の真似をしていたが、昔は女髪結いだったと知られて、急に呼ばれた先の奥様のお気に召した。今じゃお得意だ。よく働く倅まで出来た。貧乏は大して変わらねぇとはいえ……働く甲斐とでも言うのかなぁ。どれだけ苦労したって世の中つまらねぇ、年が暮れたら首でも括るかと思っていたのが、不思議なもんだ」


 老車夫は隣のおさげ娘に話しているのか、耳を澄ませる顔の猫に礼を言っているのか。尻尾をゆっくり左右へ揺らす赤毛の猫を見る目が、柔らかくなった。


「おじさん、この猫を助けたことがあるんですか?」

 幸せな話しの成り行きに鈴が喜ぶと、老人はにこっとしてから禿げ頭を傾ける。


「どうだろうなぁ……たぶんアイツが何かしたんじゃないかと、思ってるんだが……」

「アイツ?」

 おさげが言いかけたとき、「人力車くるま屋さん」と声がかかった。

 立ち話の二人が揃って見返ると、包まれた三味線を手にした老女が車夫を見ている。車夫は鈴へ目配せを残し、呼んだ老女へ頭を下げた。


「ちょいと頼みますよ」

「へい、かしこまり。どちらまで」

「万世橋まで。ええ腹が立つったら、こんなところで鼻緒が切れるなんて……」


 人力車の棹を握り行き先を尋ねた半纏に、車へ乗り込んだ白髪の老芸妓が答えている。足元を気にしている声が、少しだけ鈴にも聞こえた。十字路を南へ向け、がらがらと人力車は引き摺られていく。

去り行く車を見送ってから、鈴は赤い猫の前でしゃがんだ。


「お前、アカっていうの? きれいな緑色の目だねぇ」

 光を複雑に反射する、緑柱石に似た猫の目を見て微笑した。緑色の目をした猫は多いけれど、これほど深い緑は見たことが無い。大きな赤猫は一貫して愛想が無く、ふてぶてしい顔つきで、人間を馬鹿にする気配さえもなくはなかった。


 しかし悪い猫ではないようだ……と、鈴が猫へ手を合わせていると


「鈴ーーーッ!」

 どこかから名前を呼ばれる。

 右、左、右と見て、再度左を向いた鈴は、飛び上がるも同じに立ち上がった。


「あ……相内さん?」

 黒の紬に金茶の髪と、派手だからわかりやすい。見知った蕎麦屋の常連が、人混みの向こうから猛然と駆けてくる。目を疑っている鈴に


「それ! そいつ! その猫、捕まえろッ!!」

 怒鳴る銀縁眼鏡の声と剣幕で、人波の方が逃れるのも同様に避けていた。

「? はれ? はい? こ、この子ですか?」

 猫は目の前のこれ一匹しかいないのであるが、何の予告もなしに出現してそんなこと言われても、素早く動けるほど鈴も特殊な訓練は受けていない。


 中腰になり、娘はおたおた手を伸ばす。

 赤毛の猫は緑色の瞳で人間を見回すや、鈴の伸ばした指先をすり抜けた。手が届かない位置まで、しゅるりと身を翻して逃れると距離を確かめ振り向く。


「……けッ」

 猫の口から、小さな声が聞こえた。娘の目玉が動かなくなる。


――――今、猫が『ケッ』って言った……?


 すごく忌々しそうな感じに、鈴には聞こえた。

 くしゃみだったのかな? とか考えて次の動きが遅れた鈴を残し、赤毛の大猫は板塀の上へ飛び上がる。大きな体躯によらず、軽々と民家へ飛び移り、連なる屋根の向こうへ姿をくらませてしまった。


「逃げやがったか」

 到着が一足遅かった柾樹は息を整え、赤い尻尾の消えた屋根の上を睨みつけていた。

「す、すみません!」

「いや……鈴が謝るこっちゃねぇよ」

 詫びる小柄な少女へ、まだ周囲の景色に対象を探す目で柾樹が答えた。


「お、お久しぶりです……! 今日は、お買物ですか?」

 挨拶代わりで問う娘を、背の高い書生が改めて見下ろす。それも瞬間で、視線は他へ向けられた。


「散歩だ」

「散歩ですか」

 返事で、鈴は逆に意表をつかれる。両国橋付近から歩けば、まぁまぁ距離もあるこんな場所まで。一人で動物園や博物館へ行っていたとも思えないが、散歩らしい。鈴は言われれば納得する以外なかった。


「相内さん、あの猫知ってるんですか?」

「……まぁな」

「もしかして、福の神だからですか?」

「福の神?」

 余所見していた柾樹が、鈴の方を向く。声と表情が『意味がわからん』と言っていた。お金持ちの間で有名な福招きの猫なのでは、とまで想像が羽ばたいていたが、違ったようだと鈴は首を竦める。


「鈴こそどうした、こんな所で?」

 蕎麦屋の常連に覗き込まれると、小柄な娘は耳の先まで赤くなり、慌てて笑顔を浮かべる。


「あたしは、お使いの帰りでここを通りかかったら、車夫のおじさんがあの猫と遊んでいたので……」

「車夫?」

 眼鏡の向こうで目を瞬かせる彼にも教えようと、鈴は十字路の南方向を見た。

「あ、もういない」

 あの速度なら、まだ後姿くらい見えるかと思ったけれど人力車は消えている。


「どこかの、車夫のおじさんです。さっきそこで、あの猫を可愛がっていたんですよ。あたしが珍しがったら、福の神だって教えてくれたんです。そんな話しを少し」

 おさげ娘のお喋りを、銀縁眼鏡の青年はじっと聞いていた。


「あれの、どこが福の神なんだ?」

 やがて懐手で尋ね、柾樹の下駄足が十字路を東へ向かい歩き出す。

 話し相手が移動してしまうので、背の高い人を追う格好で鈴は小走りについていった。少女の背中でぴょこぴょこ揺れる長いおさげは、飼い主にくっ付いて歩く子犬の尻尾のようでもあった。


「運が向いてくるそうです。すごいんですよ。お金を運んできたこともあるって言ってました! 首に、唐草模様の包みを巻いて、運んできたそうです。あの猫、お伊勢参りにでも行くつもりだったんでしょうか? たしか、そういう犬がいたっていう話しが、ありますよね?」

「……」


 こんな話がある。

 昔、四国のある家で飼われていた一匹の犬が、飼い主の夢に現れて「お伊勢参りがしたい」と訴えた。飼い主は犬の首に参拝の袋をつけて、送り出してやった。犬は健気な姿を方々で可愛がられ、話しのわかる伊勢神宮からお札を頂戴して戻ってきたという逸話。鈴はそれを念頭に話している。でも柾樹は鈴の話しに出てくる、犬や猫の伊勢参りについては無反応だった。


「その話しをしたやつは、車夫だったのか?」

「ええ……おじさんて言いましたけど、もしかしたらもっと年嵩の、おじいさんかもしれません」

 人力車を引いていられるのだから、五十代くらいかもしれない。だが腰は曲がって白髪も多かった。思い出しながら鈴は答える。


「他に何か話していたか?」

「いいえ? 特には……猫のことは『アカ』って呼んでました」

 素直な娘の少し前を行く金茶髪の書生は、下駄の歩みを僅かにゆるめた。

「この辺りにいる年寄りの車夫なら、住処は下谷か……?」

 足先を見つめ、何やら呟き思案している。


 何があったのだろうかと、鈴は東へ向かう背の高い人を追いつつ考えた。先ほどの猫に、随分と執心している。たとえあの猫に焼き魚を泥棒されたとして、食い物の怨みが恐ろしいと言っても、柾樹はそこまで猫を追い回す人でもないはずだった。

 ところで。


「それで、あのー………相内さん?」

「あ?」

 鈴が呼びかけると、普段の表情の柾樹が出てきて、振り返った。


「その、えっと……あたしは家がこっちですけど、相内さんも何かご用事があるんですか?」

 同道しているお方へ、お伺いする。さっきから何の説明もない状態で、二人は揃って上野から東へ向かって歩いていた。こっちは浅草方面へ続く道で鈴は構わないが、柾樹は何なのか。


「無ぇよ」

 どうして子爵家の御曹司に許されているのかわからない口調で、返答があった。

「野村庵まで行くぞ」

「え」

 返す言葉の見当たらない人に、もう一段階上の衝撃が降ってくる。ぶちかました側は仏頂面で、鈴の顔面に表れた驚愕に注意を払う風もなかった。隅田川方面へと続く道で、真昼の空を見上げている。


「蕎麦食って帰る。店開いてるだろ?」

「は? ……あ、はい、はい!」

 停止していたおさげ娘は、返事と共に首が折れそうなほど何回も頷く。柾樹も、まだ昼食を食べていないらしかった。勝手に決めて、袴はずんずん先へ行ってしまう。


――――え? ええ! 相内さんと!? うちまで歩くのッ!?


 しばらく一緒に歩くと決まっただけで、鈴は大混乱だった。


 相手は(曲がりなりにも)華族様。凄い豪邸にお住まいの御嫡男その人が、平民の娘を送ってくれる。口が悪くて、喧嘩ばかりしていると聞くけれど(そして喧嘩したときのべらぼうな強さは鈴も知っているけれど)、近所で似口じぐちの洒落を連打しているあんちゃん達とは、やっぱりわけが違うのだ。


「め、目立ち過ぎる……」

 身分違いの道行に、おさげ娘は震える声で呟いた。

 三社祭のお神輿の横を歩く祭り団扇はこんな気分かしらと、無意味な思考を廻らせる。見苦しいことは何もなくとも、鈴は無闇に決まりが悪かった。


 蕎麦屋に顔を出すようになった琥珀色の髪の書生さんが、子爵家の御子息と知ったときも、鈴はこういう心地になった。切欠は何だったか忘れてしまったが、それと教えてくれたのは千尋で、長二郎が何か冷やかしていて、柾樹は知らん顔していた。あのとき鈴は驚いて、全身化石みたいになってしまったのだ。


「何だ? 人力車くるまにでも乗りたいのか?」

 動かない娘に、柾樹が立ち止まって尋ねた。道楽息子は、嫁入り前のよその娘を連れて歩こうが人力車に乗せようが、何とも思っていない面をしている。小柄な鈴にとって、かなり上の方から見下ろされた目と目が合って焦った。


「いえええええ、滅相も無いことで! な、なな何でもないです! 歩きます!」

 こんなに断わったら、かえって失礼じゃないのかと一周回って反省した。のぼせている自分が恥かしくなり、風呂敷を抱きしめる。柾樹は何も言わず、再び歩き始めた。編まれた長い濃鳶色の髪が、大急ぎで後へと続く。


――――下女。うん、そう。お供の下女みたいなものよ、大丈夫。


 自分に言い聞かせ、蕎麦屋の娘はそのつもりで歩き始める。

 それでいて、足はふわふわと雲の上を歩くようだった。


「仕送りだったんだろうな……」

 柾樹の独り言が、鈴の耳を掠めた。洩れ聞こえたそれで、娘の頭と心がすとんと沈着する。柾樹がさっきから、猫に執着しているのを思い出した。


『赤い猫』、『車夫』、『仕送り』。

 何のことですかと尋ねてみたかったけれど、蕎麦屋の娘は飲み込んでしまった。


 鈴の知らないどこか遠くを見つめて歩いている人。

 その横顔を見たらそれだけで寂しくなって、訊けなくなってしまったのだ。

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