悪い夢
花簪の高田屋で、“話”が始まった時刻は、午後をだいぶ過ぎていた。
浄蓮尼に付き従い、俄か弟子の雪輪と鹿目が通された部屋は、渡り廊下を越えて廊下の角をいくつも曲がった先の十畳間。雪輪は開け放たれた襖を隔てて、次の間に控えることにした。鹿目はと言えば、とことこ入っていき、小さな机の上のカルタに釘付けになっている。部屋は一目で子供部屋とわかった。もしくは、かつて子供部屋であった部屋だった。
「お桂殿。加減は良くなられたのか?」
「ええ、もうすっかり」
日当たりの良い南の座敷へ浄蓮尼を迎えて、座布団をすすめた高田屋の妻、お桂は微笑む。それでも頬には、やつれた陰がまだ残っていた。
高田屋の幼い末娘は、風邪をこじらせた。熱が上がったり下がったりを繰り返し十日以上。そして娘が治ったと思ったら、今度は看病に根を詰め過ぎた母親のお桂が倒れてしまう。回復するまで、また数日を要してこの日となった。
「家の奥を取り仕切るお内儀に何かあっては、ご家中も心細かろう。ご自身の体もお大切になされよ」
労わる尼僧へ、お桂は苦笑で頷く。年の頃は四十半ほどと思われた。
「浄蓮尼様にまでご心配をおかけして、お恥かしいことでございます。主人にも叱られました」
お桂の髪は、紫の縮緬を飾った丸髷に結い上げられている。縞柄の入った鼠色の小袖には、病み上がりの隙間があった。くすんだ月草色の帯も、どことなく緩んでいる。
「袖触れ合うも多生の縁……私は経を上げて差し上げたいばかりに、伺っただけ。冶兵衛殿もお忙しかろうに、何くれとなくもてなしてくださる。長居となってしまい心苦しい」
「いえ、そのような……ありがたく存じます。あの子のことを覚えていて下すって」
女達が、会話を交わしていた。そこへ、子供の高い声が無遠慮に割って入る。
「ねぇ、これ誰が作ったんだい?」
引き出しもついている小さな机の上に乗っていた、青い折鶴を手に取って麻の葉文様が尋ねた。
「鹿目。勝手に触っては」
隣室から潜めて声をかけた雪輪に、お桂が首を振る。
「良いのです。さぁ、こちらをやりましょうね。小さなお弟子さまは、折り紙は好き?」
鹿目の傍へにじり寄り、千代紙を差し出してお桂は微笑み話しかけた。
高田の妻女は、元々子供好きであるらしい。鹿目が廊下で逆立ち歩きに挑戦しているのを見ても、「怪我をしないように」と言うのみで、咎めないのだと浄蓮尼が話していた。鹿目の方も、高田屋の同年代の子供達には近付かないが、内儀だけは『蜜柑や金鍔をくれる人は良い人』という理論なのか、比較的懐いている。
他の使用人たちは、浄蓮尼の幼い方の弟子の破天荒ぶりに呆れていた。
そのお陰でというか、雪輪は注目されていない。容貌と雰囲気について、「由緒ある家の娘が、病の快癒を祈願して尼様と共に遍歴している」という誤報が少々聞こえてきただけだった。『師匠』の尼が、意図して誤報を広げたのかまでは確かめていない。
「きらい。おいら、こういうのうまく出来ない」
「ではこれに絵を描いてごらん。色鉛筆もありますよ」
唇を尖らせている鹿目に、お桂は真新しい色鉛筆と帳面を出して渡す。
帳面を開き、鹿目はぐじゃぐじゃと、絵でもなさそうなものを書き始めた。色鉛筆の滑る心地を味わっているのだとわかった雪輪の方へ、浄蓮尼の首が振り返る。
「お雪様。お桂殿の身の上、聞いてやってほしい」
さりげなく促した。
雪輪が無言ながら指先をつくと、お桂の目が下方を向く。
「キヨシといいます。次男です。事故で、死にました」
言葉に出来ることから順番に、口の外へ出てきた。
「間もなくご命日……法事は盛大に執り行われるとお聞きしているが」
お桂の正面に座る浄蓮尼が、静かに言う。
「はい。でも……キヨシがこの世からいなくなったと、私はまだ少しも信じられないのです。おやつの時間になったら、『おなかが空いた』と、どこかから駆け込んでくる気がして」
母親の目が、すうと縁側を見る。今にもそこから、子供が駆けてくるのを待っているようだった。
「この折り紙は、キヨシが最後に折ったのです」
お桂は言って、掌の上の青い折鶴を見る。
折り紙だけではないと、雪輪も気付いていた。部屋は色も様々な思い出で埋まっている。飾られている幼い絵も、手習いの字も、衣文掛けの小さな羽織も、カルタや竹とんぼや独楽など楽しいおもちゃも。恐らくはキヨシという子が作ったり、愛したりしていた品々だった。
「幼稚園で作ったのですよ。帰ってくるなり、『お母さん、見て!』と跳ねて来ましてね……僕が一番上手に折ったんだと自慢をして」
青い折鶴へ笑いかけるお桂は、昨日のことのように話している。
「あの時、私がチャンと折り紙の話しを聞いてやれば……相手をしてやっていれば……あの子も、あんな悪戯心は起こさなかったものを」
お桂の声の後ろが震えた。
日々の仕事の山に追われていた母親は、幼い次男坊の話しを片手間に終わらせてしまった。それが母子の最後の会話になるとは、思いもせずに。
キヨシという子は、もうじき小学生になる男の子だった。学校が楽しみで待ちきれず、支度された帽子を被り、本や筆箱を入れた鞄を提げ、屋敷の中を行進していた。水兵さんに憧れていた元気いっぱいのこの少年に、惨劇が訪れる。
「夫の部屋の戸棚に、拳銃一丁が仕舞ってありました。夫は刃物も銃も嫌いな性質なのですけれど、近所で盗みや強盗もあって物騒でしたし、護身用にと備えておりました。ただし危ないのは承知ですから、子供達には、あれはお父さんがお使いになるもので、お前たちは決して触ってはいけないよと、何度も言いつけていたのです」
しかし、やんちゃ盛りの少年は言いつけよりも好奇心が勝ってしまった。
退屈していた『水兵さん』は、通りかかった父親の部屋へこっそり忍び込んだ。そして踏み台を持ってきて開けてはならない戸棚を開け、ぴかぴか光る重たい拳銃を取り出すと、しゃがみ込んでいじっていた。仕組みはどうなっているのだろうと銃口を覗き込んでいるうちに、引き金に小さな指がかかったか。銃声と共に少年は頭を撃ち抜き、即死した。
「まさかと、部屋へ飛んで行ったのです。床に倒れているあの子の足を見たところまでは、覚えているのですが……そこから後が、思い出せません。気付いたときには、お通夜になっておりました」
聞き慣れない音が銃声とわかり、高田屋の内儀は息も止まる心地で、部屋へ走った。倒れている次男坊の小さな足を見たのを最後に、血の色も何も覚えていない。記憶が途切れているという。
「まだ悪い夢をみている気がするのです」
宙を見つめたお桂は、力無く言った。
「だって、そうでしょう浄蓮尼様? おかしいでしょう、こんなこと? あの子まだ六つですよ。罰が当るような悪さなんて、何もしてやしません。良い事も悪い事も、何もしていません。人生も、まだまだこれからじゃありませんか。何も始まってもおりません……これでは一体、何のために生まれてきたのでしょう」
言うほどに瞼へ涙が溜まり始めたお桂を、色鉛筆を持つ手を止めて鹿目が見上げていた。
「あの子は地獄へ堕ちるのですか? そう話している人がいたのです。あんな、頑是無い子が? 親より先に死んだだけで? 言いつけを守らなかった親不孝で? あんまり惨いでしょう? そんなのは、どうしたっておかしいでしょう?」
親より先に死ぬのは親不孝。不孝者は地獄へ落ちる。幼少者は賽の河原で鬼に責められながら、終わらない石を積むという観念は、長年培われてきた死後の世界観の一つでもあった。
浄蓮尼は耳を傾け、お桂の疑問を受け止め続けている。今にも泣き伏しそうな女の声を、雪輪も隣室で黙って聞いていた。先ほどお桂自ら述べたとおり、『悪夢』は終わっていないようだった。
「何ゆえキヨシが連れて行かれたのですか……。どうして“死神”は、あの子を選んだのでしょう? 『六歳まで』などと、何故そんな惨い運命をあの子に」
袂を強く握ることで感情を堪え、お桂は畳へ向け吐き出すように言った。
「……“死神”とは?」
雪輪が問うと、お桂は目頭を袖で押さえてから顔を上げる。
「あの子のお通夜の前……夫から聞かされたのです」
夫の冶兵衛は妻を招き寄せ、一つの打ち明け話しをしたのだった。
「キヨシが生まれた日です。家の門前に、知らない男が立っていたそうです。夫は『不気味な男だった』と申しておりました。手拭いを目深に被って、顔は見えなかったと。何者かと思い、主人が出て応じましたところ、男が家を眺めて『六歳までだ』と言ったのです。主人もその時は、こんな事になるとは思っていなかったそうで……」
不気味な来訪者の予言と、次男の死の一致。商売人の冶兵衛は縁起の悪さを嫌い、これまで黙っていたのだと妻へ謝り、告白したという。
「そこからは、覚えていらっしゃるのですね」
「はい」
雪輪の質問に、女は頷く。
キヨシが死んだ後、一度完全に途切れたお桂の記憶は、ここから始まっていた。
「キヨシに、その男が不幸な運命を塗りつけたのです」
お桂は言い、乾いた唇を強く結ぶ。
「お弟子さま……お雪様と申されましたか」
浄蓮尼の後ろで半分隠れるように控えている雪輪へ、高田屋の妻は視線を向ける。
「その男は、何者と思われますか? 何処から来て、何処へ行ったのでしょう? どうしてキヨシが選ばれたのでしょう? それとも……あの子の末路も、全て予め決まっていたのでしょうか? 決まっているものなのでしょうか? あの子が六つで死ぬことは、生まれたときから……生まれる前から、決まっていたのでしょうか?」
女の眉の間が、苦悶でゆがみ始めた。
雪輪に対しても、やはりどこにもおびえる素振りが見られない。平常心を保ちつつ、お桂の意識と注意力は、全て死んだ我が子へ集中しているようだった。
「生まれる前から?」
雪輪が小さく繰り返すと、お桂は「ええ」と答える。
「主人は、そう言うのです……決まっていたのかもしれないと。仕方ないのだ、と」
語れば語るほど、高田屋の妻の瞳は青い陰に覆われ、生気が消えていった。
しかし夫に「仕方ない」と言われても、到底承服出来ないお桂は、行動を始めたのである。
死後の世界でキヨシはどう過ごしているのか。何か『男』の手掛かりは無いかと、寺社仏閣へ熱心に通い詰め始めた。周囲の人々から、怪談や霊魂の話しを聞き集める。気狂いと言われようと、自分がしっかと見つけてやらねば他に誰がやるのだという、使命感に近い執念が、母親を『百物語のお内儀』と囁かれる有様にしていた。
「たくさんの人に尋ねました。何か手掛かりはないかと思ったのです。でも、誰も知らないのです。答えてくれないのです。男の正体も、前世の事も、来世の事も……あの子が死なねばならなかった理由も」
何も出来ない無力さに打ちひしがれている女は、思い出に埋まる子供部屋の中で項垂れていた。
「……ご覧のとおりで、お桂の悪夢は続いているのだ」
奥の座敷へ戻る廊下を渡り、浄蓮尼がぽつりと言った。
音も立てず雪輪がその後ろへ続き、鹿目は二人の前へ飛び出したり途中の部屋を覗いたりしては、ぴょんぴょんついてくる。
「お桂さんは……彼岸の御子息をご心配されたり、怪しい男を恨むことで、お子を亡くされた辛さと悲しみを、僅かなりとも避けようとしていらっしゃるのでしょうか?」
師匠の背後で肌も青白い娘が呟くと、前を行く浄蓮尼が頷いた。
「心が壊れる危機の直撃から、無意識に身を守っているのだ。そして何度も何度も、繰り返し問い続けている……。あれはお桂なりに、過酷を受け入れようとしている姿でもあろう」
一部の記憶が失われているのも、幼子の看病に過剰なまでに熱中してしまうのも、百物語を集めるのも。潰されそうな哀惜と悔恨が由来しているとすれば。
「……誰がそれを責められましょう」
雪輪が洩らした言葉に、浄蓮尼が足を止めた。
「雪輪様……?」
渡り廊下を越え、間もなく奥座敷へと着く手前。立ち止まった娘は、つり上がった黒い目で尼を見つめ返した。
「浄蓮尼様。わたくし、この家の事件とよく似た説話を存じております。子供の歳など、細部は異なりますが」
花簪の家を訪れた『男』について、澄んだ声がさらりと言う。チョコレートの効き目が切れ始めたようで、雪輪の身体は再び小刻みに震え始めていた。
「『今昔物語集』の、たしか……巻二十六、十九章であったかと」




