文字遊び
数鹿流堂の庭では、ナデシコや桔梗が風に震えていた。庭奥の葛や百日紅はまだ青を残しており、薄紅の萩も咲き始めている。女郎花が一際鮮やかに咲いていた。
乾いた秋がちらつく庭に面した、十二畳の古い座敷。
畳廊下で反射した斜陽に照らされ、柾樹は仰向けに転がって手紙を読んでいる。隣には開いた古いガンケースと、銀色の古拳銃が添い寝していた。
手紙を睨みつけていた銀縁眼鏡。起き上がった青年が、殊更渋面になったとき、裏でガタガタ戸を開ける音がする。
駆け込んできたのは、風呂敷を抱えた長二郎だった。「ただいま」と言ったか言わぬかの間に、紺絣は下駄を土間へ放り出す。板の間を横切り、友人を呼んだ。呼ぶ必要のない距離にも関わらず呼んだ長二郎の足は、柾樹を蹴飛ばす寸前だった。
「世話になっている先生のところへ、調べものに行っていたんだ。そうしたら別の発見があった」
興奮気味に顔を赤くし、擦り切れた紺の木綿絣は話し始めた。
本日、書生氏は小石川に住んでいるという夜学の先生のところへ、借りていた本の返却に行ったそうで。
「先生は新聞を集めるのが趣味なんだ。毎日何紙も買っているから、書斎の他に部屋が一つ丸ごと新聞で埋まっている変わり者だ。僕は今日、そこで調べものをさせてもらっていたら……」
忙しく喋りながら、長二郎が風呂敷から取り出したのは古新聞だった。さっきから柾樹は返事もしていないのだが、語り手はその辺が眼中にない。
「君たちに見せようと思って借りてきた」
君たち、と口で言っても、標的が柾樹であるのは明らかだった。高揚した顔の長二郎は、新聞を畳の上へ広げる。
情報を運ぶという第一の役目は、だいぶ前に終えた新聞だった。世には帝都を本拠とする大新聞から、地方紙まで色々とある。出てきた小新聞は柾樹の知らない名前で、後者のようだった。四辺は茶ばんで、脆くなっている。
小石川に潜む先生宅。
床が抜けそうなほど積み上がった新聞の谷底で、長二郎は調べものをしていた。そこで書生の目が何の因果か見つけたのは、小さな記事だった。
長二郎が「これだ」と指差した先には、『山崩レ 死者三百十余人』の題があった。
「山崩れ?」
ここまできて柾樹も、友人がのぼせている理由を解した。半分寝ていた目を開き、古新聞を引き寄せる。
「場所はT県の山奥。時期は今年の二月だ」
長二郎が先回りして説明した。
『……この険阻な山奥、某村では冬にハ珍しいほどの大雨降りしという。雷が鳴り、大きさ七分くらひの雹が降り、昼と夜ハ逆さとなり人々逃げ惑い、命ハ助かったが散々なことになったとの知らせ。更にここより奥の山郷ハ、山崩れて平らとなり地下に沈没み哀れにも大被害の全体未だ不明なり……』
題字に連なる印刷の小文字へ目を通し、柾樹は微かに眉を寄せた。
「こんな災害あったか?」
自分へ尋ねるような声の小ささで言う。
洪水や地震、火山の噴火などは各地で立て続けに起きていた。政治や日々の事件事故も合わせて、新聞各紙は報せて回る記事に事欠かない。だが、それにしても覚えがない『山崩れ』。長二郎も頷いた。
「僕もそう思った。取り上げているのは田舎新聞のこの一紙だけで、扱いも小さい。結構な被害なのにな。握り潰された可能性もある。世に知られると不都合なことでもあったか」
貧書生は古新聞の紙面を見つめ、幾分表情を険しくする。
規模と被害から考えれば、もっと広報されるべき災害だった。それが帝都の住民の、目や耳にろくに届いてもいない。情報伝達手段が発達し、田舎にも各地各国の事情が刻々と届くようになった。しかし人々が文明の便利さを喜んでいる反対側で、奇妙な現象も起こるようになってきていた。
「それより柾樹。雪輪ちゃんの故郷というのは、日光街道を下った先にある山里なんだよな?」
「そう言っていた」
長二郎の質問で、柾樹の首が縦に動いた。
「T県なら日光街道の先だろう? 季節も今年の二月だ。湾凪家の姉と弟が、このときの山崩れで故郷を失って帝都へ出てきたとすれば、話しが通じると思わないか」
「そうだな」
古道具屋までの道中も、忙しく思索を重ねて帰ってきた青年の指摘に対し、琥珀色の前髪の下で無表情が短く答える。
「他に返事は無いのか?」
蔑ろにされた気分で、長二郎は不満を表明する。もっと盛り上がると期待していたのが、肩透かしも甚だしい。
しかし友人の不満にも柾樹は無関心な顔を保ったままで、庭の方へと目を向け黙ってしまった。
小柄で猫背の長二郎は、少し見上げる格好になる。この前千尋の話していた『庭先』の目撃談が思い出されたが、口には出さなかった。触らないですむ神なら、出来るだけ無難に避けたい長二郎である。
柾樹の琥珀色の髪が、光りを透かしていた。ふと、中学で初めて会った頃、ここまでの髪色であったろうかと違和感が小柄な書生の頭を掠める。たしか柾樹の髪は生まれたときは栗色だったと、どこかで話していた。髪や肌の色が薄い人は日本海側の、特に北へ行くほど多い。長二郎も色白で、母親の影響らしい。けれどこの子爵家の御曹司は肌は地黒であり、髪の色合いも自然色と若干質感が異なって見えるのだ。
「ちょうどいい。田上、これ」
そこで柾樹が突然、置いていた状袋と西洋紙の束を、手荒に掴んで差し出した。
「うん?」
古新聞を畳んでいた紺絣は、つい受け取ってしまう。紙束にインクで横書きに記されている文章は、全て英字だった。
「『エアラ・マックフォード』……?」
「ロバートの女房だとよ」
状袋に認められた差出人の名を声にした長二郎へ、柾樹が返す。
「ええ? あの……殺された亜米利加人か。君に、拳銃をくれた?」
「ああ」
手紙と古い拳銃と、その持ち主を順繰りに見て驚く友人へ、柾樹は答えて再び寝転がる。
柾樹に手紙を送ってきた人物は、ロバート・マックフォードの妻だった。妻がいたとは知っていたけれど、『エアラ・マックフォード』という名であると、書生たちはこれで初めて知った。
「拝啓、あいうちまさき様……」
「挨拶の辺りは読んだ」
視線を天井を向けた柾樹が、口を挟む。長二郎は嫌な顔をし、寝転がっている金茶頭を睨んだ。
「翻訳して欲しいなら、もっと慎み深く頼みたまえ」
何故手紙を渡してきたのか、わかった。紙の束をバタバタ鳴らし、嫌味まじりで言ってやる。柾樹は外国語の手紙を読もうと試みるも、音を上げたのだ。
「お頼み申し上げます。これでいいか?」
「良くないね。僕は手に取れるものが好きなんだ。シャモ鍋だったら考えても良い」
「乗った。女の文は細かくて読む気が失せる」
双方、横柄な口調の交渉だったが、シャモ鍋の威力で商談は成立する。
翻訳を引き受けた苦労人は、ざっと黙読した。
丁寧な字で、長々と書かれた手紙。正しい挨拶に始まり、『突然のお手紙で驚かれているでしょう』と流れ、文面は夫の死と後の事情について語り始めた。
人々の力も借りてロバートの葬儀一切をはじめ、残した仕事や生活周辺も片付き、妻は帰国の途につく次第になったという。日付から見てエアラは既に船上の人であり、手紙は帰国直前に出されたものと思われた。受取人様の名前と住まいは警察に問い合わせたと、誰も興味のなかったことまで書いてある。
「まだ帰国していなかったんだな」
黒い天井板を瞳に映す柾樹は、数ヶ月前の出来事をなぞる顔をしていた。
「ふむ……夫人は後ろ髪を引かれる思いだったようだ。祖国は海の向こう。そう簡単に墓参りに来られるものでもない」
長二郎が手紙の代理人みたいな口ぶりで言う。でも聞き手は「運が悪かったな」という感想しか述べなかった。
「身の上話しの下の辺りから、拳銃のことが書いてあるだろ?」
友人を横に見て言う柾樹の言葉に
「ああ、うん……これが本題か」
手紙の殆どを占めている『本題』に、少々の溜息を織り交ぜて長二郎は頷く。
説明が足りなかったとは絶対に言われたくない、とばかりに長い手紙。神経質そうなそれを一通りめくり、先に最後の方を一回読んで、長二郎は手紙の『本題』を読み始めた。
「えー……すこぶる丁寧な手紙だな。簡単に訳すぞ?
『私の夫が貴方にお渡しした拳銃について、私はお伝えしなければならないと思い定めて、ペンを取りました。これからお伝えする件を知った後、どういった行動を選ぶかは、貴方にお任せします。信じられないとは思いますが、どうか一度は目を通して頂きますようお願いいたします。
私の夫が、古い拳銃についてどう説明したかは存じません。僅かですが、彼が私に話していたことを思い返すと、おそらく『古い迷信』として、お伝えしていたのではないでしょうか。
彼は父が遺した不思議な古い拳銃も、母の遺言も、迷信として笑っていました。私も昔、拳銃について『これは持ち主を狂わせて死を齎し、死者の手から手へ渡る死者の拳銃なのだ』と脅かされました。私が嫌がると、他愛ない伝説だと言って一笑に付していました。あの拳銃は、常に彼の身辺にありました。売る素振りを見せても、結局はいつも夫の部屋の隅に置いてあったのです。大切にしているとはみえない扱いでした。それでも、捨て去りがたい存在だったのでしょう。
深夜にランプの灯りに照らして、眺めている姿を見る事もありました。亡くなった父や母を思い出しているものと、私は黙っていました。けれど、それはみんな私の勘違いだったようなのです。夫は密かに、あの拳銃について調べていたのです。大層深刻な情熱をもって、調べていました。
先日、遺品を整理していた私は、変な紙を見つけて驚きました。落書きのような紙が一枚、本の隙間から出てきたのです。魚、虫、人や動物、植物を模したらしい記号と、夫の字が書き込まれていました。私は、あの人が気紛れに遊んでいた何かの『文字遊び』だろうかと思いました。しかし目を通すうちに、描かれているものがあの拳銃の模様であったと気がついたのです。
貴方の手に渡った拳銃には、奇妙な文字が刻まれていたでしょう。
夫は、『文字』の解読を試みていたのです。解読することで彼の一族が蒙ってきた、不条理の一端がわかるのではないかと、そう考えていたのでしょう。なぜなら彼は両親だけでなく、祖父や祖母や、その前の代から各地を転々としてきたのです。今にして思えば、まるで何かから逃げ回るかのようでした。
私は不気味で仕方ないのです。貴方が夫の拳銃を始末してくださったなら、とても嬉しく思います。心から歓迎します。破壊して、もう誰の手にも渡らなくして頂ければ安堵できます。
どうするべきか悩みましたが、手紙と一緒に同封します。おそらく解読表です。貴方には必要ないかもしれません。でももし何かの助けになれば幸いです』……とまぁ、こんなところか。これはシャモ鍋の後に、鰻丼もつけてくれなきゃいけないやつだ」
読破した長二郎は手紙を折り畳み、渡されたときと同じく手紙を受取人へつき返した。柾樹はそれを受け取り、手紙を一枚ずつ繰っていく。
「いくらでもつけてやる。紙ってのが……これか」
鰻丼の利子支払いを快諾し、怠け者は起き上がって胡坐をかいた。手紙の最後にくっ付いていた、手触りも粗い紙切れを広げる。
「ロバートが解読した文字の表だな? 何と書いてある?」
興味深そうに長二郎が身を乗り出した。
『解読表(もしくは対応表)』は、きちんと仕上げられたものではなかった。書き手にとっては、備忘の走り書きだったのだろう。紙の右上隅には、考え事の形跡と思われる独り言も残されている。そして下には例の拳銃に刻まれている『文字』と、それに対応する英単語が並んでいた。
「……『私』、『教える』、『閉じる』、『持つ』、『梯子』、『最後』? ……何だこりゃ」
上から順番に読み上げていた柾樹が首を傾げ、紙切れを下へ置く。
「他には? ……『扉』、『詐欺師』、『外す』、『導く』、『コヨーテ』、『裏切る』、『終わる』、『戦う』、『笑う』、『大きい』……うむ。わからんな」
長二郎が続きを読むも、単語の羅列と判明しただけだった。訳された言葉の種類も多くはない。
「拳銃の文字ってのは、この……じゃみじゃみしたやつだよな?」
奇妙な拳銃を指差して、長二郎が言った。銀色の表面を細かな黒い模様、又は文字が埋め尽くしている。冬眠の小虫が、びっしり木の肌に貼り付いている様に似た気味の悪さだった。
「まず、わかる単語を拾ってみるか」
無精者は琥珀色の髪を掻き、手近な葛篭へ手を伸ばす。引き摺ってきて、文机の代わりとした。古い拳銃をオブジェとして置き、鉛筆を手に一覧表を参照しつつ該当する文字を探し始める。
「刻まれている順序で並べ直せば、文になるんじゃないか? 文法にもよるだろうが……しかしここまで謎解き出来たということは、ロバートは言語の勉強でもしていたのかな? 参考になる他の文献も、持っていたのだろうか?」
柾樹の正面に座り、作業を見守る人は一人で喋っていた。長二郎も本格的な解読は知らない。しかし賃訳という仕事の末席にいる経験上、手掛かり無しで知らない言語を読むのが困難を極めるのはわかっていた。
「模様を二つ並べて一つの字になるのか? まるで『偏』と『旁』だ」
「漢字みてぇだな……」
解読一覧表によると、刻まれた文字は漢字の作り方と似ているようだった。縦棒一本と、人の形を組み合わせて『私』という意味の文字になる、といった具合で出来ている。
「くっそー、読み辛ぇ……細けぇし」
柾樹が歯軋りした。文字の大きさはおよそ二ミリ。それが隙間なく均等を保って刻まれていた。どうやって彫り込んだのか。度を過ぎた完璧さは、読めるものなら読んでみよ、とあざ笑うようだった。
「文法は、英語と似ている部分もあるのか……。でも全部キレイに当て嵌まるほど、話しは単純じゃないんだろうな。漢字に近いなら、文字の数は二十六どころじゃすまないぞ」
アルファベットは二十六。漢字となれば数千とある。解読一覧表を手に取った長二郎が、紙の隅の走り書きにも目を通して言った。
「横書きで、右から左へ読むみたいだな。そして先に主語が来る……どこだ? どれが文頭なんだ? そうだ、句読も無いのか。どうやって読めと!」
読ませる気が無い『文字』に向けて長二郎が喚くと、文字を探し続けていた柾樹が呟いた。
「この……色硝子が文の頭らしい。全部がそうなのかは、わからねぇが」
拳銃の所々に嵌め込まれた、赤や緑の小さな丸い石。観察しているうちに、柾樹はそれが装飾ではなく、意味があって配されていると勘付いた。別紙を用意し、判明している文字を見つけては、拳銃に刻印された順番で並べていく。
「たしかこの拳銃、専用の銀の弾丸があるんだよな?」
「触るな。暴発しても知らねぇぞ」
拳銃へ手を伸ばしかけた長二郎を、柾樹の声が止める。伸びかけた手は、慌てて引っ込んだ。
「装填してあるのか?」
「さっき調べたついでにな……どこも壊れてなかった」
書面から目を離さず、銀縁眼鏡の青年はぶっきらぼうに言う。
柾樹はマックフォード夫人の手紙が届いたのを切欠に、手入れを兼ねて、もう一度この拳銃を調べていたのだった。そして故障や異常は見つからない。
「銀の弾は、残り何発あるんだ?」
「六発」
特別に誂えられた銀の弾丸は最初七つあったが、黒い犬との喧嘩で一発使ってしまった。
「文らしくなったところもあるが……ますます意味がわからん」
完成品を眺める柾樹の顔に、達成感はなかった。職業病で黙っていられない長二郎が口出しする。
「ひ、ひどい……文章としてひどすぎる。もう少し体裁も整えろ」
「これ以上変わらねぇだろ。意味わかるか? ロバートの解読が正しいとも言い切れねぇんだぞ」
「ううーむ……」
座敷で言い合う青年達。
拳銃に刻まれた言葉が開示してくれた秘密は僅かで、以下のように呟いていた。
――――私は“コヨーテ”。
――――教え導く、大詐欺師。
――――梯子を外して大笑い。
――――私の最後の持ち主は、戦い、裏切り、終わりの扉を閉ざすだろう。




