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八百比丘尼

八百比丘尼やおびくに』というものについては諸説ある。

 昔から謎が多いとされるが、山姥や歩き巫女、仏教思想が融合した存在といわれる。共通項としてはいつまでも若く、死なない女。山から下りてきて諸国を歩き回り、春を報せ、あるいは長者者であるとされる。


「私が御室の里を訪なったは、五百年ほど前にもなろうか」

 高田家の奥座敷。箱庭の庭先で、その『八百比丘尼』は語り出した。青空には残暑が戻ってきている。綿を伸ばしたような雲が漂い、秋の気配があった。鹿目は狭い庭の地面を、小枝で掘り返して遊んでいる。


 雪輪が古道具屋を出て、二十日というものが早くも過ぎていた。

 今日はやっと肝心の、高田家の“用事”が始まる日。


「浄蓮尼様は、御室の里をご存知なのですか?」

 尼と並んで縁側に腰掛け、呼ぶ声が来るのを待ちながら。庭で遊ぶ鹿目を眺めていた雪輪が向けた質問へ、尼僧がこともなげに返してきたのが先の答えだった。


「あの頃すでに、人魚の肉を食べて三百余年……山も海も変わり、生家や故郷も波間へ消えた。血筋の者も死に絶えて、残るは我が身一つのみ」

 穏やかな笑みで、浄蓮尼という名の八百比丘尼は自らの過去を語りだす。


「『人魚の肉』を食した者が、死を忘れるのは存じておられよう?」

「はい。不老不死の仙薬と」

 確認された雪輪は、微かに頷いた。


『不老不死の薬』は、昔から数多語られる。竹取物語の仙薬をはじめ、肉人の別称もある『ホウ』。飲めば若返る変若水おちみずも類似している。知られているのが『人魚の肉』で、食べた者は不老や不死となり、何百年も生き続けると言われてきた。夢の仙薬ゆえ、人魚やその肉を売れば大金持ちになれると語られてきた霊薬。


「浄蓮尼様は、どちらで『人魚の肉』を?」

「昔話よ」

 雪輪の問いかけに、尼僧は笑みで繋ぐ。


「父は多く海郎あまを養う網元で……母と、娘の私とがいた。ある日、旅の者に一夜の宿をしてもてなし、麻布の包みを受け取った。中に入っていたのが『人魚の肉』。あの頃の私は、人の死ぬむなしさに怯えていた。それゆえ、愚かにも食べてしまった。以来この通り、“同じ姿”が保たれている」


 伝説的な仙薬について語る尼の奇談も、雪輪は平静に聞いている。

『人魚の肉』は長二郎が持っていた『河童の塗り薬』や、神刀『霧降』と同じで、目に見え形を持つ“誓約”の一つだったのだ。浄蓮尼の不死身は、神々と人間の境界線が薄かった時代に起きた、奇跡の一つと思われた。そして尼の過ごした年月は、八百年を過ぎた。王侯貴人に限らず、誰しも欲しがる不老不死。それを手に入れるための苦難や金銀財宝は、この女には必要なかった。


「人魚の肉を運んで来た旅の者とは、何者だったのでございましょうか?」

 浄蓮尼が死を恐れる人間だった頃。田舎の漁村へ現れた不思議な“旅人”について尋ねると、尼僧は視線を庭の土へ向けた。


「雪輪様もご存知かと」

「わたくしが?」と呟いた雪輪に、また八百比丘尼は微笑んだ。それから眩しそうに青空を仰ぐ。


「ともかく、私は御仏の慈悲に縋るほか無い身となった。何処も長くは居辛い。野に旅寝を重ねて幾年月……あるとき立ち寄った市で、“名を無くした神”と生きる、古い一族が暮らす里があると聞き知った。そこは古のまじないをも保っているとな。願わくば元の肉体へ戻れまいかと、訪った」

「それが、『御室の里』でございましたか」

 言った娘に、白い頭巾に包まれた浄蓮尼の頭が深く頷いた。


「辿りつくこと、中々に容易ではなかった……私に“憑いてきている者”たちもいた。里の首領殿がその者らを打ち払い、里へ入る許しを下された。それが、湾凪様」


 帰る場所も行くあても無く、流離い続けていた八百比丘尼が助けを求めた先。そこが当時、まだ古代を守り続けていた『御室の里』だった。


 呼ばわる名も無くした、古い神の眠る山。

 神の隠れる山を守り生きる者達は、多くが髭を蓄え獣の皮を纏い、草で編んだ靴を履いていた。弓矢を携え飛ぶように駆けては、諸国を回った旅の尼さえ聞いたことの無い言葉で歌い、声は鳥や獣に似ていた。山の精霊を思わせる俊敏な動きと姿の彼らは、頑なに余所者を受け入れない。浄蓮尼も“憑いてきていた者”共々、追い払われた。だが矢で射抜かれようと斬られようと、この尼は死なない。


 それをどこかから見ていて、異常に気付いたのだろう。

 最後に湾凪の家の主が現れ、尼の身の上を聞いてくれた。


「されど……元の肉体へ戻るは叶わぬとわかった。それでも、卑しみもせず慰めて下された」

 そう言って、浄蓮尼は持ち歩いている椿の杖を差し出す。

「その時に拝領したものだ。持ってみよ。雪輪様なれば、聞こえるはず」

 促された雪輪は躊躇ったが、指を伸ばして椿の杖を握った。頭の中で『声』が響く。雪輪が聞き取ったのは、遥か昔の先祖の声だった。


――――再び会う日もあろうぞ。我らもここで長き時を、無名の君に侍る宿命にて。


 声は、父の声にもどこか似て聞こえた。

 首領たる湾凪家は、堅固に閉じられた里と外界とを繋ぐ小さな『窓』の役目も負っていたという。湾凪家は里のために見聞を広めるのが務めであると、それは雪輪も親から伝えられていた。浄蓮尼の話しでは、里で唯一外交を司っていたその人も当世風に髷を結い、流行の太刀を提げていたらしい。


「枯れたと思っていた涙で、袖を濡らしたことは今も忘れぬ。このときの記憶が、長らく私をお守り下された」

 杖を膝に横たえた浄蓮尼は、空の彼方を見つめた。


「だが、御室の里も失われた。私が遍歴に流され何も出来ぬままに……。不老不死の身となると、一日千秋が逆さとなる。千の秋も、一日の如くに過ぎてしまう」

 墨色の衣の女は、人造の秋の庭を見つめて囁く。

 有り余る時間も不老不死の肉体も浄蓮尼には意味がなく、手に入れた膨大な時間は矢の如く過ぎた。薄い皺の刻まれた横顔は、そう物語っていた。


「ところで……まことに雪輪様は、『ひいのこと』を聞いておられぬか?」

 ふと横を見て、尼が尋ねてくる。

 花火の日に鹿目が運んできたその言葉は、雪輪の方こそ訊きたかった。


「お恥かしゅうございますが、わたくしは聞いておりませぬ」

 無表情を、微妙に固めた娘の返事に

「おや、まぁ。どうりで」

おかしいと思った、という感じの明るい口調に乗せ、浄蓮尼は身体を軽く反らせる。


「火乱や、常世の者たちも、あまり教えてはくれぬのです。何やら、決まりがあるようで……」

 そこまで言い、雪輪は末尾が淀んだ。常世の仕組みや結びつきを『忘れた』のは、湾凪家と御室の里である。とすれば、火乱たちが教えてくれぬとなじるのは、何やらお門違いかと考え直した。


「あやつらも、程度の差はあれ映し世にある限り、言霊に括られておるからな」

 浄蓮尼が答える。火乱も以前そんなことを話していた。

「ならば……僭越ながら、私がお伝え致そうか?」

 隣に座る娘の方へ、浄蓮尼は少し身体の向きをずらして申し出た。


「『ひい』は、数の一の意味。『こと』は、祀りを意味する。『ひいのこと』という祀りだ」

 尼僧は指で、宙に文字を書く仕草をする。

「口外は禁じられているとて、仔細は存ぜぬが……常世の神より、御進物を賜るそうだ。それを口にし、神と契り、常世へ御供仕ると。『固めの杯』のようなものか。下賜を受ける者を、『針の先』と呼ぶ」

 それが五百年前に浄蓮尼が御室の里で聞いた、古代の祀りの欠片だった。


「それは大層……大切なお話しにございますね」

『針の先』の娘は、じわりと声が重くなる。

「左様に大事な祀りや、言葉まで、失ってしまうとは」

 かつて故郷にあった神の山には遺物が残され、昔は古文書や絵巻もあったと聞く。しかし伝えられてきたそれらも欠落し、紛失し焼失し、記憶は隙間だらけになり、とうとう封印は緩んで守る里ごと滅び去った。


「御室の里は、まことよく持ち堪えてこられたと思うぞ? さりとて人が抗えるにも、限界がある。忘れさせようとするもの達との、戦いでもあったはず……手を変え品を変え、たっぷりと時間をかけてな」

 慰めるように言い、浄蓮尼が目を細めた。


 話しを聞く雪輪の脳裏を、幼かったあの日に見た景色が過ぎる。

 無名様から渡された白くて丸い何か。あれは神の贈物で、『固めの杯』だったのだ。あのとき雪輪は『針の先』に選ばれた。天狗の雲竜坊の言葉通りなら、半分だけ。しかし下賜された白いアレを手に持ったところまでは覚えているが、そこから後が霞がかかったように思い出せない。


――――何故だろう?


 考えるものの、雪輪の頭には何も浮かばなかった。


「それはそうと、帝都で鹿目を見つけたときは驚いた。名残りを宿す者がまだおった、と」

 庭の隅で何か掘っている子供へ視線を移し、浄蓮尼は明朗な声色に変わって言う。

「見ただけで、おわかりになったのでございますか?」

 雪輪も鹿目を眺めた。ぼさぼさ頭の少女は、さっきから箱庭の秋海堂の花の下で何か仕事をしている。


「分かる。雪輪様が、この家のお桂を見て、すぐに『分かった』のと同じ」

 浄蓮尼の返答の意味を、体感的に理解可能な娘は視線を落とした。

『お桂』というのは、高田屋の内儀である。


 二十日前の深夜。

 門前で提灯を手に、浄蓮尼の来訪を待っていた高田冶兵衛は、歳五十ほどの男だった。小さな身体に、不恰好なほど大きな丸い顔を乗せていて、髪が薄い。そして戸主の半歩後ろで、腑抜けた顔をして控えていたのが妻のお桂だった。


 雪輪は女を一目見て、「これは」と思った。

 故郷で子授けの祈祷をしていた頃、こんな顔をした人を何度も見てきた。その手合いの相、とでも呼べそうな顔つきがある。


 必死というだけでは足りない。全身から迸るように、辛い、悲しい、虚しい、苦しいと発してくる。乱れる心の現れ様は、人の数だけあった。見るからに疲れ果てている人もいれば、笑顔を絶やさない人もいた。「負けるわけにはいかぬのです」と唇を噛み締める女もいた。「もう一度、あの子を産んでやりたいのです」と話す者もいた。進んで身の上を喋り続ける人も、逆に一言も話さない人もいた。それでもどの人からも辛い嘆きと苦しみが、見えない震動となって伝わってくる。


 胡乱なお桂の顔は、そういう人達と同じ相だった。

 雪輪はこういった人心を、ある程度自然とさとってしまうところがある。異様に目のつり上がった真っ白な娘を見てもどうとも感じないらしいお桂は、半ば夢の世界を漂っているように見えた。


「ひいさま、尼様。見とくれ!」

 そこへ、鹿目が何かを手に駆けてきて、雪輪は物思いから引き戻された。

「芋だ!」

 鹿目は細いサツマイモを持っている。熱心に何をしていたのかと思えば、これを掘っていたのだった。何かの弾みで庭へ入り込み、発芽してここまで育ったのだろう。


「蒸かしてもらうか?」

 少女の収穫に、笑顔で浄蓮尼が提案したが

「おいらが腹が減ったから、芋が出てきたんだよ」

 鹿目の返答は自在勝手で、言うなり芋を頭上に捧げたり下ろしたりして踊り出す。木の葉のように、小さな両手を翻した。


「芋のうまいはー、炊いてからー、茎をかじるなー、老いねずみー、やえーさ、ほーい」

 自分のために芋が出てきたと喜び、即興で歌い踊る。おどけた動きに、浄蓮尼が手を叩いて笑った。

「鹿目、軽々しいことです」

「はぁい」

 雪輪に諌められ、子供はひょいと再び庭の隅へ飛んで行った。掘り出された芋は、また地面へ埋められるようである。


「鹿目は、御室の里で生まれた子か?」

 声を小さく、尼僧が尋ねてくる。

「生まれは、隣村です。母親がおしんといって……元はわたくしの子守女。屋敷で下女もしておりました」

 答える雪輪の声も、これまでより小さくなった。


 雪輪を鬼に攫われるという大失態をしたおしんは、あれから子守女の任を解かれた。

 その後、短い期間を湾凪の屋敷で下女となり働いていたが、間もなく隣村へ嫁いでいった。どんな顔をして御室の里で暮らせるものか、と囁く声は雪輪にも聞こえてくるほどだった。


 そんなおしんの嫁いだ先は、隣村の中でも良家の機屋はたやだった。

 若い嫁にも里帰りを許してくれる、温厚で豊かな家。おしんは土産を手に、湾凪の家へも挨拶に訪れた。中々赤子が出来ないと言ってはいたが、不満や焦りとは違っただろう。里で暮らしていた頃より表情が増えて血色も良くなり、「早くやや子が欲しい」と話していた。


――――ひいさまも、お祈りしておくんなさいましな。


 あどけない新妻の願いを聞き、五歳の雪輪は『子授け』をしたのである。

 雪輪は誰に何を教わるでもなく、『早くやや様が来ますように』と唱えて、おしんの腹を撫でた。両親は幼い娘の戯れを微笑ましく眺め、おしんもくすぐったそうに笑っていた。


 それから時をおかず、懐妊の報せがあった。

 月日が満ちて赤ん坊が生まれる。すると遠路遥々山を越え、おしんは乳飲み児の顔を見せに来た。里の人々に囲まれ、赤ん坊に乳を含ませて笑顔を振りまいていた。


『ムミョウサンだよ。ムミョウサンは“子授け”の神様だべ?』

『ひいさまにお腹を撫でてもらったら、たちどころに授かったんだから!』

『不吉だなんて、とんでもねぇ! おかげさまで良い事続きだよ』

『おっ義母さんにも、その山の神様を、よーく拝んでお辞儀しておいでと言われてきたんだ』

『今度はひいさまに、跡継ぎの男子をお願いしようと思ってさ』


 おしんは御室の里中に言い触らして回った。

 子供の名も、御室の山の要岩にちなんで『鹿目かなめ』と名付けた。


――――よほど、心苦しく思っていたのか。


 はしゃぐ姿を離れた場所から見て、雪輪の母である那智の口から、遣る瀬無さそうに独り言が零れていた。


 おしんは自分のせいで、「ひいさまを不具者にしてしまった」と感じていたのだろう。生まれ故郷に刻まれた、負の記憶を払拭したい願望も心のどこかに潜んでいたか。里帰りの折には、まだ態度の端々に残っていた不安や緊張。それらの暗い色も消え、胸を張って故郷の人々に言って回るおしんは、喜びと自信に溢れていた。


 惨めに里を追い出されたはずの、おしん。

 それがこの数年来、御室の里で生まれなくなっていた赤ん坊を抱いている。満ち足りたおしんの様子を、里の女達が羨ましそうに見ていることには、雪輪はまだ気付けなかった。


 そして子宝を喜ぶおしんは、別の効果ももたらす。

 雪輪をかどわかそうとした鬼や、紛失した御神刀の件で軋んでいた湾凪家と里人達の間で、ある種の潤滑油になったのだ。


 あの日以来、身体が小刻みに震え、『壷から声がする』などと奇妙を口走り恐れられる一方だった雪輪。それが一転、『子授け』の恵みをもたらすと祀り上げられるようにもなった。やがて、次々と赤ん坊が生まれ始める。


 無論それらは全てひどく曖昧で不確かで、長続きもしなかったが。

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