呼ぶ者
「ひいさま。ひいさま」
大川の花火の日。
外からそう呼びかけられたとき、縫い物をしていた雪輪は亡者の声を聞いた心地がした。渾名であれ嫌味であれ。雪輪を『ひいさま』と呼ぶ者は、もはや一人もいないと思っていた。
「いるんだろ? 開けとくれよ」
湿った土の匂いの中で沈黙している雪輪へ、外の子供の声は尚も言う。こつこつと窓の戸を叩いてくる。蔵の娘は常世の者を疑ったが、声の響きが異なっていた。明瞭過ぎる。
常世の者達は、雪輪やここに住む人間の許しの言葉がなければ古道具屋に入れなかった。古道具達の結界が張られて以来、土々呂は現れない。火乱と仙娥は、雪輪が許した。化け狐や化け狸は人に姿を変え、書生たちを利用して何度かここへ入り込もうとしたようだが、一度ツネキヨが成功したのを除き、失敗している。
「おいら、鹿目だ。御室の里の、おしんの子の鹿目だよ。開けとくれってば」
故郷で、雪輪の子守女だった『おしん』。
隣村へ嫁ぎ、子授けの嚆矢となった娘の名前にハッとして、半ば無意識で縫い物を下ろした。
「開けてくれなきゃ、この窓ぶっ壊すぞう。ひい、ふう、みい、よお、いつ、むう、なな、やあ、ここのつ、とー……」
数え歌が終わる前に立ち上がり、雪輪は近付いて窓を開けた。
伸ばせば手が届くほど近く。橙色へ近付く周囲より一段薄暗い楠の枝に、痩せた子供が膝を折り曲げ、大きな鳶みたいな格好で蹲っていた。
「わ……お母が言ってたとおりだ。真っ白。震えてらぁ、おかしいや」
猫に似た大きな目を丸く見開き、子供は感じたままを口にする。無礼かどうかより、雪輪を見ても驚くだけで怯える素振りが無い点に、言われる側は気を取られていた。その隙に、麻葉文様の鳶はひらりと室内へ飛び込んでしまう。身は軽いようだった。
しまったと思うが、もう遅い。
「お前は……たしかに、おしんの娘の?」
振り向いた白い娘が尋ねると、子供はこくんと頷いた。
「うん。『与野鹿目』」
桔梗色の着物の懐へ、はみ出していた草履を仕舞いなおして言う。
「息災だったのですね……」
雪輪は呟き、少女が蔵の中を物珍しげに見物している様子を見つめた。背丈こそ歳相応だが、表情も仕草も幼い印象を受ける。窓の戸を半分ほど閉め、雪輪は定位置へ戻って正座した。
「鹿目、そちらへ座りなさい」
少し離れた場所を、黒い目で見て命じる。
「それ以上、わたくしに近付いてはなりませんよ」
「? うん」
鹿目は逆らわず、言われたとおりの正面でぺたんと尻をついて座った。
「おしんは……母は恙なく暮らしていますか? 鹿目が生まれて間もなく、一家で帝都へ出たとは聞いていましたが」
一先ず、当たり障りの無さそうな話しをかけてみる。
「今は、お父と牛乳屋で働いてる。牛乳配達してるんだよ」
「そう……まずは嬉しいことです」
青白い顔の娘は、異様に切れ上がった黒い目を微かに細める。帝都で牛乳配達が始まったのが、十年ほど前だった。
都市部の人間の方が、牛乳と距離が近い。
御一新の後、空き家になっていた大名屋敷が牧場となり、そこから牛乳は各地へ広まっていった。牛の乳を飲む習慣自体がほぼ無かったため、当初は需要があるとしても『薬』として扱うか、外国公使館などに限られていたのである。新政府と牛乳生産者は『滋養強壮』『乳母要らず』などと宣伝し、軍にも取り入れ普及に取り組み、近頃ようやく民間へ浸透してきている。
鹿目の一家は、そこそこ時流に乗っているものと思われた。しかし
――――ずいぶんと痩せている。
雪輪は内心で少し訝る。
袖から伸びた少女の手足は、色も黒くて牛蒡のようだった。頭頂部で無理やり括ってある髪は艶がなく藁団子みたいで、総合してちぐはぐな印象を受ける。
『子授けの神通力』の、火付け役となった鹿目。
この子と家族は、早い時期に故郷の山里周辺から離れた。そのため流行り病の災禍に遭わず、生き残っていたのだ。それにしても、帝都で会う機会があろうとは想像していなかった。子授けと神通力に関わって生まれた子供達は、雪輪の知る限り全員世を去っている。
残されたのは
『授かったのは鬼子であった』
『孕んだ女は物狂いになる』
『子授けの祈祷を受けた、親までも死ぬ』
といった類の逸話のみ。無事にここまで成長している子に対面するのは、初めてだった。
「鹿目が生まれたとき、おしんは隣村から遥々山を越えて、お披露目に来たのですよ」
その後も、おしんは何度も里帰りをして、最後に会った日の鹿目はまだ伝い歩きをしていた。
「知らねぇや、赤ん坊のときのことなんて」
幼過ぎて覚えていない昔話に照れているのか、鹿目は殊更興味無さそうに答えた。
「それで……わたくしに何用ですか? どうしてここを知ったのです?」
蔵の住人の冷たい声が尋ねると、少女は「うん」と喉の底で答えて頷く。
「『土々呂』って薬売りに聞いたんだ。帝都に『子授け観音』のひいさまが隠れておいでで、拝めばきっとお助けくださるって」
鹿目の話しに、雪輪は極小さく嘆息した。頭のどこかで、そんなことだろうと予感していた。
「でもさ、ひいさまの居場所がわからなくて困ってたんだ。薬売りはいなくなっちまって、探してもいないし。そうしたら、尼様がここを教えてくれたんだよ」
嬉しそうに鹿目は言う。笑うと口から反っ歯が覗いた。
「尼様……?」
「うん。旅の尼様だ。ひいさまに会いたいって、言ってたよ。『ひいのこと』について伝えてくれって、おいら頼まれたんだ」
細い足をそわそわ揺らして、少女は言う。
――――『ひいのこと』?
雪輪は記憶を探った。覚えが無い。『尼』とやらにも、過去から今に至るまで心当たりが無かった。
数秒後、娘はつり上がった目を閉じる。
鹿目がここを探し当てた手段については、「わかりました」と答えた。
「それで何ぞ、鹿目は困り事がありましたか?」
頭を切り替える。忘れた故郷の『子授け観音』を探し、鹿目が両国古道具屋の土蔵へ来た事情を尋ねた。すると行儀悪く膝を舐めていた鹿目は、目だけで雪輪を見上げてから座り直す。一つ大きく鼻を鳴らした。
「おいらぁ、どうにも出来が悪い。お母やお父を困らせてばかりだから、遠くへ行くことにしたよ。ひいさまも、これからどこか遠くへ行くんだろ? おいらも連れて行っておくれ」
骨も浮く薄い胸を張って、子供は頼み込んでくる。小刻みに震える娘は、呆気に取られた。
「……鹿目は、父や母を、どのように困らせているのですか?」
否応を出す前に問う。
「お父もお母も、仕事で忙しいんだ」
つまらなそうに、鹿目は言った。
聞けば、鹿目は両親が忙しくて構ってもらえない上、家の手伝いや弟妹の世話を任されている。しかし忘れて遊んでしまう。とうとう親に、そんなに勝手ばかり言うなら、飯でも何でも他所でやれと怒鳴られた。そういった経緯で、鹿目が家出を望んでいるのはわかった。何のことはない。
――――ただの親子喧嘩ではないか。
世の中で、そう分類されそうな話しだった。
通常なら、帰れと言って追い返す。時間と善意をふんだんに持っている人であれば、子供の話しに気長に耳を傾けてやるなり、場合によっては親元まで付き添ってやるかもしれない。
けれど雪輪は、別のことを思った。
――――これが“先触れ”というものか。
呟きは口中に留め置く。
承知していたつもりで、知らず意識の中から薄れさせていた現実へ思考を向けた。
近頃、身辺が俄かに騒がしい。
芝の辺りに、鬼が出たと聞いた。柾樹はチョコレートを持ち込んできて、雪輪に外へ出ろと言いだした。神保町には桜のニセモノが現れて予言をし、それは狸だったらしい。そして蔵へ投げ込まれるようにやって来た、『最初の子授けで生まれた子』。
「わたくしも、ここを離れねばと、考えていたところでした」
一呼吸おいてから、雪輪は切り出した。娘の脳裏に、『いつまでもここで隠れ暮らすつもりか』と叱りつけてきた青年の顔が、一瞬浮かんですぐに消えた。
「ただし、今ではありません。七日後の夜。まだ鹿目が旅に出たいと願うならば、お出でなさい」
青白い娘から発せられた言葉で、鹿目は全身ぐにゃりと脱力し、不満と失望を表明する。
「そんなに待つのかよう」
色黒の頬を、ぶうと膨らませた。
「今しばらく辛抱せねばなりません。良いですね?」
「わかった……」
返答するも、桔梗色の着物の少女は動きの鈍さといい表情といい、不貞腐れていた。
「お返事をするときは『はい』と申しなさい」
「……」
「申しなさい」
「はい……」
『子授け観音』の気迫に負けた鹿目は俯いて、すごすご退却し始める。可哀想にも思えたが、何もかも譲ってやれるものではない。
「鹿目。わたくしがここに居ること、他の誰にも言うてはなりませんよ」
一言雪輪は付け加え、子供を家へ帰した。
喧嘩した瞬間は、親子互いに立腹していたとしても、時間が経過すれば怒りも落ち着く。怒りの原因というのは、実は空腹だとか疲れていたとか、そんなことだったりするのだ。一日二日と経つうちに、家出したくなった気分や態度も変わるだろうと考えた。そうなって欲しいと願う気持ちも入っていた。
帰り際、古道具屋から忍び出た鹿目は、通行人に見つかり「どろぼう」と騒がれていた。蔵の中で雪輪は多少気をもんだが、すばしっこい鹿目はうまく逃げ去ったのである。
「また厄介なのが寄って来よったな」
黒漆喰の蔵二階で胸を押さえる娘の傍らに、前からいたみたいな顔で猫の火乱が座っていた。どこからともなく現れる大きな化猫にとって、物質的な出入口という存在はあまり関係無いらしかった。
「鹿目が?」
「いいや」
呟いた雪輪へ、火乱の渋い声が答える。
「鹿目に近付いた尼様ですね……何者です?」
どこかで様子を伺っていたのであろう化猫に、娘は問いかける。
「八百比丘尼や」
「……不老不死の?」
「せや」
足元を見た青白い娘へ、赤毛の化猫は長い尻尾を振り平静に返してくれた。
「また来るでしょうか?」
「来るやろな」
溜息まじりで答えた緑色の目が、雪輪の方をぐいと見上げる。
「しかし、ひいさんも『またお出で』て、安請け合いしたもんやな。アレどないするんや?」
「事と次第によっては……わたくしがおしんと会って、話しましょう」
鹿目の扱いに関する猫の質問へ、窓を閉めつつ返事する。
「土々呂も、帝都にいないそうですね」
震える指先で窓縁に触れて囁く。やはり神保町で狸が予告したとおり、『時は満ちつつある』のだろう。『遠からず来る』のだと思った。
そして訪れた七日後の夜。
古道具屋の外には、鹿目がいた。先日と同じ身形で、眼差しに迷いは無く表情はさっぱりしていた。傍らには小さな袈裟行李を背負い、椿の杖を手にした尼が、色白の顔へ微笑みを浮かべて立っていた。
――――湾凪様には、まことお久しゅう。
それが浄蓮尼だった。
「本郷のね、お父の牛乳屋の近くで会ったんだよ」
そこは鹿目の住む家の近くでもあるらしい。湾凪の家の娘に会いたがっていたという尼へ、雪輪は黙って一礼した。
こうして旅の尼に従い、白い頭巾で急拵えの弟子となった二人は、市ヶ谷橋近くの屋敷に潜んでいる。




