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楽茶碗

 数鹿流堂は店としては休業中なので、表側は毎日閉じきっている。そのため裏の戸口から入るしかない。古道具屋へ帰って来た柾樹が裏へ回ると、見覚えのある娘が一人立っていた。


 橙色の格子柄が入ったたんぽぽ色の着物に、くすんだ紺色の帯。肩の細い後ろ姿。腰まで届く濃鳶色の長いお下げが二つ、背中に垂れている。娘は戸の向こう側に心を奪われていて、背後の青年に気付いていない。悪戯を思いついた柾樹はそおっと近づくと


「鈴」

おさげを片方引っ張った。おさげは「ヒャあぁ!」と飛び上がって振り返る。柾樹を見つけるなり、白い頬が朱色に染まった。


「あ、相内さん!」

娘は胸の風呂敷包みを抱きしめ、「ああ驚いた!」と溜息をつく。それから赤らむ顔を綻ばせた。悪戯を笑って許してくれた娘の笑顔につられ、柾樹も小さく笑い返す。


 娘は浅草御蔵跡(米廩と呼ばれる米蔵)近くにある蕎麦屋、『野村庵』の看板娘で、『鈴』といった。愛嬌のある円らな瞳に小さな鼻と口。小柄で、体つきは貧弱なくらい痩せっぽち。それこれのせいか十六歳という年齢以上に、まだまだ『女』よりも『少女』の色合いが強い。


「何やってんだ?」

 腕を組み、幾分くつろいだ声で柾樹が尋ねると

「こっちに来る用事があったもんですから。みなさんどうしてるかと思って……」

ついでに数鹿流堂を覗きに来たのだと鈴は言う。そういえばここで留守番下宿を始めてから、鈴が時折漬物や飴玉を持ってきてくれるのだと、千尋が言っていたのを思い出した。


「上がったらどうだ」

「あ、いいえ。お客さんがいらっしゃるみたいですから、もう帰ります」

 柾樹の勧めに鈴はニコッと笑って答えた。笑うと、艶やかなおさげ髪も一緒に揺れた。


「客?」

「はい。それじゃ、あたしはこれで失礼させていただきます」

 お辞儀を残し、おさげが去って行くのを見送った柾樹は、まさかよもやと思いつつ裏戸をくぐる。今、鈴は『客』がいるみたいだと言った。弥助の時のように、『幽霊』を見られたのではないかと疑ったのだ。だが幸い、柾樹のこの予想は外れた。


 勝手口付近で千尋と立ち話していたのは、初老の男性だった。白髪交じりの頭に中肉中背。顎の皮膚が垂れてきていて、小さな目をしている。筆でちょんと書いたような短い眉をした、柾樹の知らない顔であった。渋い茶色の着物を着た身体は意外と身軽なようで「はい、ごめんなさいよ」と言い、胸に何やら抱えて、銀縁眼鏡の前を擦りぬけて行った。


「何だ?」

 客を見送って柾樹が尋ねると、応対していた千尋は友人に「おかえり」と述べてから

「近くに住んでいる袋田さんだ。そこで床屋をやっている」

角刈りに近い短い黒髪をガリガリ掻いて答える。


「隠していた茶碗をおかみさんに見つかって、家を追い出されたそうだ」

「茶碗?」

「ああ」

 一体何の事かと疑問に溢れる柾樹の前で、千尋は笑う目元に疲れを浮かべて言った。


 千尋によれば、今を去ること数週間前。理髪床屋の主人の袋田氏は、店のお客に三十円の金を貸し、借金のカタに古い茶碗を受け取った。『楽茶碗』であるという。だがその客が先週夜逃げし、借金に纏わる諸事情が女房にバレて家を叩き出されたのである。そこでやむなく、袋田氏は茶碗を売り払うことにした。茶碗が三十円で売れれば、女房の頭に生えた角も引っ込むと考えたのだ。しかし今日になって知り合いに、「茶道具なんてのは、今じゃ二束三文だよ」と教えられてしまった。


 御一新以降の十年間よりは持ち直してきているものの、今も国産古美術品の価値はかなり低い。古い茶道具は金蒔絵の金部分を削ぎ落されて捨てられ、利休の茶杓がたった十銭という話もある。


 そういった業界の事情に疎かった袋田氏は、話を聞いて血の気が引く思いだった。そして自分の手元に残った黒い茶碗が、本当にそんな低い価値しかないものなのかを確かめるため、何はともあれ懇意にしている古道具屋へ、茶碗を抱えてやって来たのである。


 困ったのは古道具屋の留守居役だった。千尋は自分は単なる留守役で道具の売り買いは出来ない上、こういった類のものはわからないと正直に言って、お引取り願おうとした。質屋などへ行った方が良いとも勧めた。けれど床屋は「学校に行ってる書生さんなら、学があるから少しくらいわかるだろう」と聞かなかった。何でもいいから、家へ帰るための応援が欲しかったのだろう。


「それでとりあえず茶碗を見て、『いいものみたいですよ』と励ましてやって、今やっと帰って貰ったという」

 追い返しても良さそうな床屋の愚痴やら世間話やらに、千尋は気長に付き合ってやったのである。聞いているだけで柾樹は力が抜けた。


「お前もよくやるな……そんな一銭の得にもならねぇようなことを」

「まぁ茶碗の目利きをしたのは、俺や長二郎じゃなくて、雪輪さんなんだがな。あの人わかるんだな」

 感心した風な千尋の言葉を耳にした柾樹は、「あ、そうだ」と小さく言って家の中へ駆け込む。どたどた上がり込んだ家の中は、斜めの陽光が差し込んで薄明るい。どこを見ても、雪輪の姿がなかった。


「アイツどこ行った?」

 荒れ寺のような庭に面した一室で、書き物をしている長二郎を突き飛ばすようにして問えば


「感謝したまえよ相内君。僕が気を利かせたお陰だぞ?」

長二郎は顔を上げ、古ぼけた小机に頬杖をついてにやにや答えた。娘は廊下を渡った、奥の離れ座敷にいるという。


 雪輪は客人達に姿を見られてはいなかった。客が来たときには、土間やその周辺にいなかったのだ。もし遭遇していたら、弥助の悲劇が再現されるところだったかもしれない。それに男だらけの下宿に、どこの誰ともわからぬ若くてちょっと妖しげな娘が居ると知れれば、後ろ暗いことは何もなくとも近所の噂になって、面倒くさい事になりそうである。長二郎が大変な仕事中であるということにしたので、袋田氏も遠慮して中には入らなかった。ちなみに長二郎が使っているこの小机も古道具屋の品で、彼は無断で引っ張り出して使用している。


「ああ、そりゃありがとよ」

 恩着せがましい説明を叩き切るように終わらせ、柾樹が後ろを見ると


「お帰りなさいまし」

「脅かすんじゃねえよッ!」

いつの間にか雪輪がいて、畳に指先をついていた。足音くらい立てろと思い、飛び上がった心臓を落ち着かせている柾樹をよそに


「そうだ、雪輪ちゃん。さっき塩鮭を買ってきたから、焼いてくれないか?」

「はい」

「ぜんまいも山ほど貰ったんだよ。たいておいてくれるかな?」

「はい」

慣れるのが早い長二郎と雪輪の間で、夕餉の献立についての話しが始まる。自分よりもすんなり長二郎の言う事を聞いている(ように見える)雪輪を見て、むすっとしていた琥珀色の髪の若者へ


「柾樹さま」

珍しく雪輪の方から話しかけてきた。


「堀田様のお加減は、如何でございましたか」

 身体を細かく震わせ、黒々とした目で柾樹を見上げて一言ずつ、ゆっくり尋ねる。雪輪は動作から喋り方までゆっくりしていた。先手を取られ、機嫌を損ねそびれた柾樹は毒気を抜かれて、何故自分の行った先を知っているのかとか、そんなことを不思議に思うのも忘れたまま「うん」と頷き、座敷へ胡坐をかく。


「あれはもう駄目かもしれねぇな」

 軽いとは言わないまでも、存外にカラッと言った。先刻、柾樹は源右衛門の家へ行っていたのである。


 神田の長屋へ柾樹が着いた時には、すでに医者が来ていた。他にも人がいたので死んだのかと思ったら、同じ長屋に住む左官の夫婦が源右衛門を診せるために、医者を呼んだのだという。朝方、あんまり静かなので左官の女房が様子を見に来た際、声をかけても源右衛門はいびきをかくだけで起きなかった。それから何度見に来ても目を覚ます気配すら無い。そのため夫婦は相談し、医者を呼んできたとのことだった。


 身寄りが無いに等しい病気の年寄りなど、隣近所から鼻摘みもの扱いされてもおかしくない。酷い時は長屋から放り出されたりもする中で、この長屋は稀有なほど情に厚い連中が多いようだった。それに夫婦は柾樹の見た感じ、田舎くさくて人付き合いも得意そうではなかった。こんな人々すら気にかけて医者を呼んでやりたくなるほど、源右衛門は人徳があったのだろう。しかし肝心の源右衛門が起きないので、医者もこれ以上どうしようもないようだった。そうこうしているうちに話を聞きつけた隣の家の女房や独り者や、差配人もやって来た。


「痩せなすったと気を揉んでいましたが、あたしらには医薬代の世話もさせやしません」

 言って、差配人などはほろりと涙をこぼしていた。周囲は前々から、真剣な養生を勧めていたとのこと。でも源右衛門は医者にかからなかった。体調不良で門番を辞めてからも昼酒を飲み、毎晩ふらふら歩き回っていたという。これでは何のために門番を辞めたかわからない。


「やっと近頃になって夜歩きも止めてさ、家で大人しく寝ている様子だったんだよ。持って行ってさしあげりゃ、握り飯やみそ汁も片付いてたから、あたしらも安心していたんだけどねぇ……」

 左官の女房が残念そうに言っていた。


 源右衛門が家にいたのは、たぶん家に雪輪がいたからだろうと思ったが、柾樹は黙っておいた。老人の耳元に口を寄せ、「雪輪は送り届けたぞ」と小声で話しかけると、源右衛門はこのときだけフガフガと反応するも、またすぐいびきをかきはじめた。


 このまま枕元で様子を見ていても仕方が無い。源右衛門の知己の人々も、知らせを聞いたか入れ替わり立ち替わりやってくる。狭い長屋の中は満杯だし、この調子だと自分の屋敷の人間もやってきそうな気がした柾樹は、一旦長屋を離れ古道具屋へ戻ってきたのだった。


「明日また行くが、何か源に伝えることはあるか?」

 あいつに聞こえるかどうかはわからねぇけどな、と付け足し、雪輪に問うた。柾樹はまだこのとき漠然と、源右衛門はまたそのうち起きるだろうと思っていた。春めいてきた斜陽の中、小刻みに震え続ける青白い顔の娘は考え込んだ後


「いいえ、何も」

と答える。


 そして堀田源右衛門はこの日の晩、近所の人たちに看取られながら、一度も目を覚ますことなく死んだ。

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