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春満月

「お若いの。どこからお出でか?」


 鍋焼きうどんをつついていた手を止め、源右衛門は尋ねた。

自分から、それも歳の離れた赤の他人に声をかけるなど、一体いつ以来だろう。何故声をかけたのですかと誰かに問われたとして、源右衛門自身、理由などわからなかった。


 昔から社交的で人懐こくて人間好き。お節介と呼ばれる人種であるとは自覚している。しかし近頃、そんな性格や人付き合いの仕方までもが変わってきていた。齢八十を幾つか過ぎても、まだまだ歳の割に若いと思っていたのだが。きっと本当に老いたのだと、源右衛門は自らの変化をそう結論付けている。


 好きだった芝居も、ちっとも興味が湧かなくなった。仲の良かった古い知人が一人二人と世を去って、めっきり将棋も指さなくなった。気にかけてくれる近所の人々もいるし、それをありがたいと頭でわかってはいる。けれどだんだん日常の人付き合いも何もかもが億劫になってきて、身体まで思い通りに動かない。以前からあった呼吸の苦しくなる間隔が短くなり、咳も頻繁に出るようになってきた。そんなのは歳をとれば当たり前と慰められても、何だかがっかりしてしまう。生きた証や残せるものとて、今となっては何も無い。


 こんな使い物にならない爺は引き際を心得え、さっさとお払い箱になるのが最後のご奉公と、半ばヤケクソ気味な考えが浮かび始めたのも、こういう小さな苦痛や憂鬱が積み重なったからだろう。長年勤めた相内屋敷の門番を体調不良を理由に引退して以来、この一ヶ月というもの、源右衛門は家で寝てばかりの生活だった。誰とも話さない時間が増え、これは良くないと外へ出かけても、目的や行くあては特に無い。


 それは、こういった事情で堀田源右衛門が夜っぴて帝都をほっつき歩いた末、神田区S町にある長屋へ帰る途中の道端で、鍋焼うどん屋に立ち寄った時の事だった。


 雨上がりで白い靄の漂う夜の帝都は、春とはいえまだ寒い。そんな冷えた靄の漂う闇の中よりやって来た、一人の若者。その客に、源右衛門は声をかけたくなったのだ。源右衛門の声で、うどんが出てくるのを待っていた若者が振り向いた。


 月と行灯の光でぼんやりとしか見えなくとも、ハッとするほど美しい面立ちをしている。浮かび上がった顔の線には、少年と言って良さそうな幼さがあった。透き通るように色が白く、見た感じ十四、五歳といったところだろうか。だが切れ長の美しい目元には歳に似合わぬ気品のような、あるいは鋭さが漂っていた。『士族かな』と、源右衛門は思うとなく思う。


 見ず知らずの老人が不躾に向けてきた問いかけで、少年は綺麗な目を丸くした。でもすぐに、相好は崩さないまま答えた。


「最近、日光街道を上ってきました」

 迷惑がる素振りも見せない。口調はハキハキとして礼儀正しく、声もいい。だが身体から発する警戒は消えていなかった。


 どこから来たのかの質問に、具体的な地名を答えない相手の態度で、『言いたくないのだな』と源右衛門も察した。幼顔も抜けきらない若者が、人目を憚るように夜の片隅で鍋焼きうどんを買っているのだ。言いたくない事情くらい、あっても不思議はないだろう。


 老人は「そうか」と言って、歯の抜けた顔で笑い返した。しかし小汚い顔で笑い返しながらも源右衛門は、これはおかしいぞと密かに首をひねっていた。


――――この少年を知っている気がするが………さて?


 さっぱり思い出せない。思い出せないが、自分はこの人物を知っている。そんな直感があった。初めて会った相手なのは間違いない。でも先ほどから、何故か妙に懐かしいのだ。日々の雑事に押し潰されてきた遠い記憶の一片が、脳味噌の底で叫んでいた。


 けれども近年は新しいことを覚えるよりも、忘れる方が上手になってきている。しかも元よりねちねちと、執念深く過去を覚えているのは苦手な性分ときていた。これだから長生きしたのだろうと言われ、自分でもそう思っているが、こんな時には困る。


 源右衛門が一人悩んでいるうちに、若者は注文品を受け取ってしまった。そうして金を払うと源右衛門に会釈をし、湯気の立つうどんと箸を盆に載せ、「すぐ戻ります」と鍋焼き屋に言って闇の向こうへ消えていく。器を手に黙ってそれを見送り、源右衛門は取り残された気分になった。くしゃみが出なかったときのような気持ち悪さを持て余していると


「狐か狸じゃねぇだろうな……」

ふいに、鍋焼うどん屋の親父が呟いた。人の良さそうな親父は、手の中の金を引っくり返したり噛んでみたりしている。この人物も大人しくうどんを作りながら、若い客を何となく怪しんでいたのだろう。先の客は不思議というか、どことなく妖しげな空気を残り香のように引き連れていた。とりあえず金は本物だったらしいけれど


「あれはもう、戻ってこねぇだろうなぁ……」

諦め半分といった調子で鍋焼きうどん屋の親父が首を伸ばし、若者の消えて行った方角を眺めていた。『あれ』とは彼が持ち去った器その他のことである。それを聞くと、うどんを食い終わった源右衛門が腰を上げた。


「どれ。ではわしが見てきてやろう」

 軽々と言って器を返し、若者が消えた方角へと歩き出す。「旦那、いいんですよ!」と親父に止められたが、源右衛門は笑うだけで歩みは止めなかった。


 あの少年を、狐狸の類などとは考えていない。ただ何かを思い出せそうで思い出せないもどかしさと、とても懐かしい人に会ったときに似た感覚が、源右衛門に見知らぬ相手の後を追わせた。それにどうせ急いで帰ったところで、家には誰も待っていない。


 月明かりを頼りに、源右衛門は静まり返った住宅街の狭い路地を抜けた。すると思っていたよりもすぐに、闇の彼方から声が風に乗って聞こえてきた。声に導かれ、角からそっと覗き込む。


 道の向こうには、世に忘れ去られた如き小さなお稲荷さんがあった。手入れもして貰えないのか枯れ草に覆われ、古びて傾きかけた赤い鳥居が建っている。そこに向けて、あの若者が何か話しかけていた。建物の影に誰かいるようで、器を柱に差し出している。


「いくら何でも少しは食べないと……心配はいりません。僕はもう十分食べました」

 離れた場所で様子を伺う源右衛門には気付いていない。


 靄の漂う夜の隅。白く輝く月の下。辺りに漂う尋常ではない気配を感じつつ、老人は物陰から息を殺して見つめている。


 やがて赤い鳥居の影からすうっと白い白い腕が二本伸びてきて、盆を差し出す若者の手を握った。

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