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王子様は休業中  作者: 小林晴幸
よん。異変が現れはじめました。
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25.白から黒へ





 帰れないと聞き、それで踏ん切りが付く訳ではない。

何より、自分の精神の異常性を自覚して尚、鈴蘭は元の世界へ戻りたがった。

それは彼女が、自分の取るべき行動をそういうもの(・・・・・・)だと考えた上での選択であったが。

それでも、彼女は自分で考えて帰るべきだと思った。

記憶の欠落を埋める術は、未だ誰にもわからなかったけれど。


時間が経つ事、次第に恐怖が増してくる。

己の記憶がないという、その事実に対して。

実感として湧かなかったものでも、冷静に考えるとおかしいと気づく。

それは客観的な視点で見ての話ではあったが。

自分の記憶がないこと。

当然あるべき筈の感情が、見つからないこと。

そして何よりも、そのことで取り乱さない己。

それら全てに対して、自分が得体の知れない生き物になったように感じて…鈴蘭の心は、日に日に大きくなる恐怖に押しつぶされそうになっていた。


そんな鈴蘭にとって、唯一の救いを感じられる道。

それが、故郷への生還であった。


 もしかしたら、元の世界に戻ったらこの異常も治るかも知れない。

根拠もなく、そう思う。

すぐに治らなくても、生まれてからずっと過ごしてきたであろう環境に戻ることで、失った記憶も取り戻せるかも知れないと。

何の取りかかりもないよりは、ずっとマシ。

何かを手がかりに、または何かを切欠として。

そうやって、記憶が戻ってくれたら…。

それが甘く、何の保証もない考えだろうと。

それでもその考えに縋らないと、精神の立て直しができそうになかった。

そのくらい、鈴蘭は追い詰められていた。

自分でも、自覚のないままに。


治ることがなかったとしても。

これ以上の進行は食いとどめられるかも知れないと。

鈴蘭は直感的にそう思ったのだ。

そしてそれは、あながち外れた考えだとも言えなかった。



 そんな鈴蘭の考え、焦燥を感じ取ったのだろうか。

深く思案に沈む鈴蘭に、提案したのはスノウだった。

とにかく、彼女の気持ちが浮上するような情報をと。

そう思って、スノウは王宮の奥へと鈴蘭を案内した。


「初代王の、遺室?」

「ああ、そう呼ばれている」

「初代って…確か、異世界出身だったって人だよね」

「覚えていたか。その説明をしたときに話しただろう? 異世界関連の資料を集めた秘密書庫があるって。今から行くのがそうだよ」

「あ、そう言えば帰る道が閉ざされたら行ってみようと思ってたんだった」

「そう。それじゃ都合も良いね。初代の残した資料が一番多いけど、真意の水の効果で多分文字も大丈夫だろう」

「それが何語かにもよると思うけどね」


 そして、鈴蘭はスノウ達につれられて一室に辿り着いた。

そこで、知りたくもなかった真実を知ることになろうとは。

そんなこと、欠片も思わないで。




 案内された部屋は、あまり人が入らないのか閉ざされた匂いがした。

降り積もった埃と、堆積した時間の匂い。

そして数え切れないほどの本による、独特の空気。

元々位置的に窓のない部屋だったのだろう。

日の差さない部屋は、薄暗い中に重苦しい雰囲気がある。

壁という壁の全てが本棚に覆われ、部屋の中を仕切るように所々で天上から垂らされたタペストリが重苦しいだけの雰囲気を「重厚」と言い換えさせるだけの品格を加えている。

茶色とワインレッド。

色とりどりの、落ち着いた色合いが並ぶ本の背表紙。

中には装丁もおざなりで、紐で縛っただけの紙束も多い。

そして何の資料なのか飾りとしての置物なのか判別できないような、様々な品が適当に置かれていた。

まるで置き場所を探して考えた末に、取り敢えずその辺に置かれたような配置も何も考えていない小物類。

何に使うのかも用途不明な、鈴蘭には何とも判別できない品々

ごちゃごちゃとしていてまとまりなど無いはずの部屋の中は、しかし降り積もった時間がそれを自然な形へと馴染ませていったのだろう。

雑然と散らかっているはずなのに、そうあるのが自然であるような空気。

そのままの形で一つの空間を作り上げていた。

「雰囲気のある部屋だね」

「ずっとこのまま、放置してあるとも言えるけどね。時々たまに資料を探して誰かが入ることもあるけれど、基本は初代の時代からずっと同じ配置で放ってあるんだ。ただ、資料だけは時代と共に増えて、分類もできずに適当に押し込められてきたみたいだけど」

「それって適当にも程がない? 資料探しにも無駄に時間がかかるでしょ。分類しないと探すのが面倒じゃない」

「初代の妃だった方の遺言があるんだよ。初代と、妃の生前のままの配置で放っておくようにって。何か意味があるんだろうね。初代の妃は当時、国随一の白魔法使いだったんだ」

「へえ? この国って徹底して白魔法使いの国なのね。まさに白い国」

「国の名前からして『白の国』だからね。そもそも初代の妃がずば抜けた白魔法の使い手だったから、この国はそうなったんだ」

「黒魔法が禁じられているのは?」

「それは…詳しくは知らないけど、奴隷として初代や初代の仲間達が虐げられていた時、黒魔法に随分苦しめられたからだって聞いてる」

「黒魔法は、他者に進んで危害を加えるような物が多いですからね。単純に攻撃するだけでなく、自由の侵害、囚人の拘束、精神操作等々、奴隷であったのなら、身勝手な思惑の為に散々苦しめられたのではないでしょうか」

「チシャさん、詳しいの?」

「私は白魔法使いですが、元々黒も使えなくはないですからね」

「鈴蘭、ラプランツェのようなのは一般的じゃない。枠外だからな」

「念を押さずともよろしいでしょうに、王子」

「…この姿の時に、王子と呼ぶな。虚しくなる」

 寂しそうに自分の姿を改めて見下ろすスノウ。

だがそれも既に今となっては今更過ぎることで。

サンドリオは主のことを放って、さっさと資料探しに移っていた。

こんな時には役立たずに成り果てるベルリオだけは自分も置物になったかのように唯一の出入り口付近で直立不動。

ベルリオのことをそのままに、スノウ、鈴蘭、ラプランツェも直ぐさま資料探しの仲間に加わった。




 異変が、身を翻す暇も与えてくれず襲いかかってきた。

それは鈴蘭が何気なく棚を漁っていた時のこと。

本棚の中途半端な空間に、漂白したような白い宝珠。

金色で蔦をもした台座に納められ、大人しく静かに鎮座している。

両の手の平で丁度覆い隠せそうな大きさの、ひたすらに白い石。

チラリと視線がかすめた時、まるで視線を固定され、縛られたように感じた。

意識の外で、何かが囁く。

だけどその声がなんと言っているのか、自分でもわからない。

でも、これだけはわかった。

自分が、とうに逃れられなくなっていること。

視線と共に、手が吸い寄せられる。

触る気も、見る気すらも無かったのに。

だけど手が動く。

現実に、視線は釘付けとなり離れない。

文字通り本当に、釘で打たれて固定されたような強制力。

大きな不安が去来しても、鈴蘭の手は止まらない。

操られるような不自然さで。

見えない糸につり上げられた手は、宝珠に指先が掠めた。


 途端、その途端だった。


宝珠から、光の奔流が溢れ出し、鈴蘭の体を飲み込んだのは。

息も止まる。声も出せない。

一瞬の隙さえ与えずに、光は鈴蘭を絡め取り、捕らえ戒めた。


 見るともなしに視線をそらせていたスノウ達の、隙を突いた出来事だった。

異変に気づき、止めようとした時には既に手遅れ。

手を延べても、それを受け止め握り返す人はない。

助けを求める余裕さえなかった鈴蘭には、スノウに助けられるのを待つ時間もなく。

彼女の意識は、光に塗りつぶされて真っ白に染まった。


 白い闇の向こうで、視界は真っ黒に染まる。

白い世界から転じた黒い世界。

鈴蘭の名を呼ぶ者は、誰一人いない静寂の世界。

自分ではない何者かの意識の中に、飲み込まれてしまったようだった。


 その、闇の中。

どこからか声が聞こえてくる。

聞こえてきた声は、あまりに甘美で麗しかった。

妖しい気配が漂うほどに。




 それは囁くような声音で、闇の中に響いていた。

ひたすら、誰かの名前を呼ぶ声。

なんと言っているのかは、わからないのに。

ただの音の羅列に聞こえて、意味を拾えない。

名前だとはわかっても、何という名前かわからない。

だけど。

だけど何故かその名前が酷く懐かしく…

どうしてか、鈴蘭自身もわからなかったけれど。

何故だか自分が呼ばれているような気がした。

その、聞き覚えのない筈の名前で。






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