全て捨てたら幸せになれました
母が亡くなったのは私が八歳の時。両親は政略結婚だったけれど、愛し愛される夫婦として社交界でも有名な夫婦だった。
母が亡くなった後の父は憔悴していた。
私を見ると母を思い出し泣き崩れる。
私を抱きしめ数日離さない。
「お嬢様、暫く領地でお過ごし下さい。ヘルナン様が回復なされるまで、どうか……」
長年公爵家に仕える執事に頭を下げられた。
私も父の憔悴した姿を見るのは辛くて、執事の提案に頷いた。
私は領地で過ごす事を選んだ。
父のために……。
私は領地で教育を受けた。公爵家の後継として語学も領地運営も作法も。
私が父と会う事となったのは領地で八年過ごしていたある日、父から王都に来るようにと手紙が届いた。
父と会える嬉しさで、私は急いで馬車に乗り込んだ。
八年振りの本邸にはいり、父を探した。
歩き回ると、中庭で父の声が聞こえた。
「クロエは母を亡くしてずっと領地に引き篭もっている。私が辛い日々を過ごしているのに、顔も見せず手紙すらないのだ。
これから家族にはなるが、難しい娘となった。何かあれば私に言うように。マルナ、お前を必ず守るからな」
私の名前、クロエと聞こえたので立ち止まった。
盗み聞きするつもりはなかった。
(私は引き篭もってなんかいない。お父様のためだと……)
クロエは目の前の景色が滲むのをただ呆然と見ていた。
父と手を繋ぐクロエより歳下の少女。
父と少女を優しく見つめる綺麗な女性。
私は全てを理解した。
あの少女と女性は新しい母と妹なのだと。
中庭から立ち去る父をクロエは泣きながら見つめていた。
侍女長が執事を責め立てた。
「ご当主のためにクロエ様が領地に移るように貴方が指示したのではないですかっ!」
執事は苦しそうに顔を歪ませている。
「あの頃のヘルナン様を救うには、クロエ様を離すしかなく……」
「それは理解します!ですが、クロエ様の立場を貶めてまでする事ですかっ!」
侍女長やクロエ付きの使用人が執事を責めるも、本邸の使用人が執事を庇う。
「もういいの……」
クロエの小さな声に使用人達は息を呑む。
淑女として育った小さな女性は凛とした姿勢で使用人達を見た。
涙はポロポロと流れるも、構うことなくクロエは話す。
「この事は誰にも話してはなりません。記憶から消しなさい。そして、本邸の使用人は今迄通りにお父様と新しいご家族に仕えなさい。ただし、領地に足を踏み入れる事は許しません。領地に連絡を寄越すことも」
話を終えると、執事の前に立った。
「私の公爵家からの予算はきちんと払って下さいね。母の財産は私の名義となってます。後日管財人に来てもらい、正式に署名をします」
執事の顔は真っ青になっていた。
ヘルナンは一年もかからず回復していた。
クロエの事を話そうとした頃、新しい母となるリリーシアと出会った。
リリーシアは未亡人となり実家の伯爵家に戻っていた時に夜会でヘルナンと出会った。
お互い愛する人を亡くし寂しく過ごす事で気持ちが近付いたのだ。
執事は新たな恋でヘルナンが生き生きと過ごす姿に安堵した。
そして二人の交際が続いた頃、リリーシアが娘のマルナを連れて公爵家を訪れた。
マルナは笑顔の可愛らしい娘で、ヘルナンに直ぐに懐いた。
この時に執事がクロエの事を正直に話していれば、何かが変わったのかもしれない……。
ヘルナンはマルナを見るたびにクロエを思い出したが、手紙すら寄越さない薄情な娘を忘れようとした。
リリーシアも前妻の娘がいない事に安堵した。娘として接する事が怖かったから。
そして、リリーシアは罪を犯した。
ヘルナンが領地のクロエに宛てた手紙を出すふりをして捨てていたのだ。
その事を知る者はいた。執事が拾い幾つか手元に隠してある。
マルナは実の娘より自分を選んでくれた事に喜び、クロエを下に見ることになった。
公爵家が新たな家族として平穏に過ごせるのは、不在のクロエを蔑ろにする事で保たれていた。
クロエは泣きながら馬車に乗り込んだ。
侍女長の胸に縋り付いて涙する。
クロエは薄々気が付いていた。一年二年ならば連絡がないことに違和感はなかった。
父の母への愛が深いゆえの父のあの姿。
クロエは父のために会いたい思いを我慢した。
でも……年月が過ぎるたびに、自分の存在が忘れられているのでは?
そう思うようになった。
使用人に王都での父の様子を調べてもらい、話を聞く限り父は昔の威厳のある公爵家当主となっていた。
もう少し、もう少しと、父の様子を見ていたクロエ。
愛情がなくなったと思いたくはなかった。
なのに……新しい娘に父としての存在を示した。実の娘の名を貶めて。
「もういい……公爵家を捨てるわ」
クロエは泣き止むと、以前から話しがあったある提案を受ける事を決断したのだった。
王都から帰ってきたクロエは、領地の使用人達を集めた。
「急にごめんなさい。一月もしないうちに、私は辺境領へ向かいます。領地の邸は封鎖して王都に全て権限を移します。
皆さんには新たな勤め先の紹介状は書きますから安心して下さい」
クロエが説明するが、反応がない。
「お嬢様、私達も辺境領へまいります。先代の奥様の名義の領地ですよね?一緒に連れて行って下さい」
「いいの?公爵領より辺鄙よ?」
全員がクロエと共に辺境領へ向かうことになった。
王都から管財人が到着した。本邸の執事も同席するように指示をしていた。
「クロエ様に母君でありますエリザベス様のコスタム辺境領の名義を変更致します。そして、公爵領の領地の権限を持つエリザベス様からクロエ様は権限を変更されていましたが、この権限を放棄する。
それで宜しいでしょうか」
管財人の言葉に驚いたのは執事だ。
「クロエ様!領地の権限を放棄などっ、公爵家を捨てるおつもりですかっ」
執事の言葉にクロエははっきりと告げた。
「公爵家を捨てるのではありません。私が公爵家から捨てられたのです。
私は公爵家の後継として公爵様の回復を祈りながら八年もの間、領地で支え続けました。その間に公爵様からの連絡は一つもない。誕生日の贈り物もカード一枚すら届いていません。
娘とも後継とも思われていないのに、無駄な時間を過ごし公爵家に縋り付くほど私は暇ではありません」
執事はクロエが父親を公爵様と呼んだ事に絶望した。膝を突きクロエに謝罪を告げようとするが、クロエがそれを制した。
「確かにきっかけは全て貴方の指示です。ですが、公爵様が私に会いに来る事は出来ました。貴方をこちらに寄越すことも。でも、それをなさらなかったのは公爵様自身です」
話は終わり。と、クロエは管財人が並べた書類に名を記し印を押した。
「これより、クロエ・コスタム辺境伯となります。隣国との重要な領地となります」
管財人はクロエに気を抜かずに当主を務めよ。そう言葉を含ませた。
「私クロエ・コスタムは国を守る辺境伯の当主として国への忠誠を誓います」
膝を突き深く礼をとった。
国への忠誠の礼をとった事を管財人達は「陛下に必ずお伝えします」
そう告げると邸を後にした。
膝を突き呆然としたままの執事にクロエは構わず部屋から退出した。
「二日後にはコスタム辺境領へ向かいます。邸はその数日後に閉鎖されます。鍵などは全て王都に送りますので」
侍女長が執事に重要な話だけ伝えると、全員が立ち去った。
執事は当主のヘルナンのためにと、クロエを領地に向かわせた。
八年もの間、この領地を先代公爵夫人のエリザベスから名義をクロエに変更し領地運営をしていた事は知っていた。
知っていたが……ヘルナンに伝える事はなかった。
そしてヘルナンも新たな家族と過ごす事で領地は使用人達が回していると思っていた。
年端もいかない娘のクロエが運営しているとは思っていなかったのだ。
エリザベスからクロエに財産が全て移された事は公爵家には伝わらない。エリザベス個人の財産であり、生家の侯爵家の財産でもあるからだ。
エリザベスの兄である侯爵はクロエの状況を調べていた。クロエ抜きで暮らす公爵家のことも。
侯爵はクロエに侯爵が持つコスタム辺境領を継がないかと、話をしていたのだ。
執事が全てを告げるのに、半年を要した。
その時、ヘルナンは初めてクロエが公爵家の籍を外れていた事実を知る事となる。
コスタム辺境領は自然豊かで穏やかな領地。
クロエは使用人達と辺境領へと入った。
馬車から見える景色は美しかった。
実際は隣国との緊張状態が続いていた。
コスタム辺境領は当主不在の領地だった。当主不在が可能だったのは、結界が張られているから。
コスタム辺境領の結界を張る者が当主となる。
領地は侯爵家と辺境領に仕える者が運営していた。
エリザベスは生涯に二度、コスタム辺境領に結界を張った。
自分の子供に魔力の多い子供が生まれたら『この地に結界を一緒に張ってもらう事を夢見ていた』と、伯父になる侯爵から手紙で知らされた。
コスタム辺境領の邸は街が一望出来る丘に建っていた。
門をくぐり玄関に馬車が止まる。
クロエがコスタムの地に足を着くと、玄関ポーチに並ぶ使用人達が頭を下げた。
「よく来てくれた。エリザベスの兄のリュカスだ」
「初めまして。エリザベスが娘、クロエです」
リュカスはクロエに腕を出し、エスコートをする。
クロエはそっと手を置き、リュカスについて行く。
邸の中には入らず邸をグルリと周り、裏手に向かう。
丘に建つ邸からはコスタムの街並みが見える。
「エリザベスはこの景色が好きだった。いつか子供と結界を張るのだと夢を語っていた。見えるか?空にキラキラした輝きが。あれがコスタムの結界だ。少し弱くなっている。クロエが結界に魔力を注ぎ張ってもらいたい」
クロエは空を見上げた。
空に輝く光は、母のエリザベスの魔力。
目尻を伝う涙を拭うことはなかった。ただ、母の魔力を眺め続けた。
侍女長のマリアはエリザベスの侍女であった。この地でエリザベスが結界を張り直す姿を見ていた。そして、リュカスに語った夢も耳にしていた。
マリアも声を殺して涙を流していた。
翌日、街の神殿で結界を張る儀式が行われた。民達が神殿の周りに集まりクロエが魔力を注ぐ時に、一緒に祈りを捧げる。
コスタムの民達で領地を守ると、誓いの意味もある。
クロエが神殿の神具に触れると、結界から魔力を感じた。優しく温かい魔力はエリザベスと、先祖の当主達の魔力。
領地の空が光を放つと、結界にクロエの魔力が馴染んだ。
儀式は成功した。この結界の儀式の光は隣国にも届く。コスタム辺境領に新たな結界が張られた事を知れば、戦争が回避される。
コスタム辺境領は魔石が採掘され、それを他国にも輸出している。
コスタム辺境領は争いを避けるために均等に各国に輸出する。しかし、隣国は魔石を独占するためにコスタム辺境領の監視を強めていた。
自国の王家からも伯父は新たに結界を張るように命じられていた。
いつかクロエに頼むつもりでいたのだが、クロエの話を知り当主にならないかと誘いをかけた。
そしてコスタム辺境領の結界が新しく張られ、新たな当主となったクロエのお披露目が王都で催される。
クロエの名前は夜会の当日まで公表される事はない。
王都では新たな辺境伯当主の祝いでお祭りとなった。
辺境の防衛である結界があるからこそ、隣国の侵略から守られている事を国民はきちんと理解していた。
夜会の会場は新たな当主の話題でざわめきが大きい。
当然ながら公爵であるヘルナンと妻のリリーシアとマルナも参加していた。
公爵夫人として美しく装い、マルナも公爵令嬢としてドレスを新調しての参加となった。
マルナは公爵家に正式に養女として迎えられて以降、釣書がたくさん届いていた。養女であるがゆえ、伯爵家が一番身分が高い縁談であり、子爵家や男爵家が主だった。
それが最近になり、全ての釣書が取り消された。不思議に思っていたが、公爵令嬢に縁談をする身分違いを理解したのだと。
そうリリーシアとマルナは思っていた。
貴族の情報は早い。名前は公表されずとも公爵家の後継であるはずのクロエがコスタム辺境伯となる事を調べていた。
ならば、マルナが後継となり嫁ぐ事はないと釣書を下げたのだ。
婿入りするための釣書を出すのか?
そう簡単には動けない。
王族には王太子以外に三人の王子がいる。
王太子以外に婚約者はいない。
公爵家のクロエとの縁談があるだろうと予測をしたが、その話も上がらない。
ならば、マルナとの縁談となる可能性を考え、王家より先に釣書を出せずにいた。
公爵家の後継が変更となること。
王子達の縁談の行方。
コスタム辺境伯になったクロエの経緯。
それよりも、社交界に顔を出さず領地に引き篭もっていたのはなぜなのか。貴族達はクロエに興味を持っていた。
宰相の声が会場に響き渡る。
王族が到着したことを知らされる。
両陛下が先に入られ王太子夫妻の後から三人の王子達も入られた。
陛下に夜会の開催のお言葉を賜る。
「今宵はコスタム辺境伯の新たなる当主となる者を紹介しよう」
陛下が緞帳の奥に手を差し出すと、一人の令嬢が現れた。
美しい容姿の令嬢を見てざわめく貴族達がいた。
「エリザベス様」
そう口にするほど、クロエの容姿はエリザベスに瓜二つであった。
会場が静まるなか、ヘルナンがポツリと呟いた。
「クロ……エ?」
リリーシアとマルナがヘルナンを見ると、ヘルナンは陛下と並ぶ美しい令嬢に視線を奪われていた。
クロエと呟いた言葉に、リリーシアの顔が歪む。マルナは初めてみたクロエに対し敵意の視線を向けた。
(なんでクロエがあそこにいるのよ!領地で惨めに暮らしていたんじゃなかったのっ)
マルナは父ヘルナンと公爵令嬢の立場を独占したかった。クロエを排除して、公爵家唯一の娘として今迄過ごしてきた。
今更クロエが出てきた事が腹立たしかった。
「クロエ!なぜお前がコスタム辺境伯となるのだっ。公爵家の娘であろう」
ヘルナンが壇上の下まで来ると、クロエにそう言葉を伝える。
クロエが父であるヘルナンを見る視線に温もりはない。
他人のような視線にヘルナンが一瞬怯む。
「お前は私がエリザベスを失った地獄の中にいる時に領地へと引き篭もった。手紙の返事すらしてこない、家族を見捨てる薄情な娘が新たな当主となるのか?」
ヘルナンは自分を捨てた娘であるクロエに憎らしい視線を向けた。
「クロエ殿。何か言いたい事はあるか?」
事情を知る陛下がクロエに問いかけた。
「私が捨てたのではありません。公爵様が私を捨てたのです。ここで話す事はありません。執事は全て知っております。帰られましたらお尋ね下さい」
クロエは陛下へ視線を向け、ヘルナンを視界から消した。
ヘルナンが何かを言いかけるも、近衛騎士に口を塞がれ会場から外されていく。
「今宵、第二王子とクロエ殿の婚約も発表する。皆で若き二人を支えてやって欲しい」
第二王子のフェリクスがクロエの手をとり壇上から挨拶をする。
マルナは自分より下だと思っていたクロエが王子と婚約したことを告げられ、扇子を折れそうな程に握りしめた。
リリーシアだけは、クロエが公爵家から離れた事に安堵していた。
手紙を捨て、クロエの情報をヘルナンに話さなかった事で全て手に入ったと。
リリーシアだけが笑顔でクロエとフェリクスの婚約に拍手を送った。
クロエは夜会での挨拶に疲れ、庭園へと涼みに出ていた。
挨拶するなかで母エリザベスの話を聞かせてくれる夫人は沢山いた。
後日、その夫人達とお茶会をする誘いも受けた。
公爵家の領地やコスタム辺境領では聞く事が出来なかった母の話を聞き、クロエは温かさに包まれていた。
「大丈夫ですか?」
そう声をかけてきたのはフェリクスだった。
「ええ、少しだけ疲れましたが、母の話を沢山聞けて嬉しかったですわ」
「良かったですね」
フェリクスはクロエの手を取ると指先に口付けを落とす。
クロエは初めての事に頬を染める。
初々しいクロエを見て、フェリクスは満足そうに笑みを浮かべる。
「弟達を蹴落として貴女の婚約者になれて幸せです」
フェリクスはクロエとの婚約を喜んでいた。
陛下は昔から公爵令嬢のクロエが王子の誰かと婚約をする事を考えていた。
陛下が身辺調査をすると、クロエは領地におり公爵は後妻達と暮らしている。
虐げているのかと、詳しく調査すると誰かしらの思惑により父と娘はすれ違いを起こしていた。
だが、陛下は責任はヘルナンにあると考えていた。
クロエが引き篭もっていたとしても、手紙の返事がなくとも本当に娘を思うのならば領地に行けば良かっただけ。
ヘルナンは亡き妻と娘から逃げたのだ。
陛下は公爵家をどうこうするつもりはない。犯罪を起こしたわけでもなく家族間のいざこざとして処理をした。
ただ、公爵家として領地をきちんと運営してくれれば良いと結論付けた。
三人の王子にクロエの話をすると、フェリクスが一番乗り気となり二人の王子を抑え込み婚約者の名乗りをあげた。
フェリクスは貴族令嬢が苦手だった。
高位の立場の者に嫁ぐ事が令嬢としての幸せの一つである事は理解は出来る。
理解する事と受け入れる事は別で、自分の足で立つ令嬢を求めていた。
そして、頑張る令嬢を甘やかしたいとも思っていた。
話を聞く限り、フェリクスの理想の令嬢であるのがわかった。
密かにコスタム辺境領へ顔合わせに向かい、クロエを見た瞬間に一目惚れをしていた。
クロエは政略結婚でも、両親のように愛し愛される夫婦になれる姿を見てきた。
母を失った父は変わってしまったけれど……。
顔合わせでフェリクスにクロエがそう告げると、フェリクスも同じように考えていると答えた。
二日の滞在ではあったものの、お互いの印象は悪くないとなり婚約が結ばれた。
クロエはフェリクスを良い人と見ているが、フェリクスは好いた相手である。
フェリクスはクロエに毎日魔鳥を飛ばし手紙を届ける。
クロエは毎日とはならなかったが、なるべく返事を書いた。
お互いの距離を縮めながら、少しずつ仲を深めていた。
夜会での婚約の発表の時には、クロエはフェリクスをちゃんと好きになっていた。
フェリクスはコスタム辺境領へ婿入りとなる。当主はクロエでフェリクスはクロエを支えていく事になる。
クロエとフェリクスの仲睦まじさに夜会の会場が温かさに包まれている頃。
公爵家では冷たい空気が流れていた。
ヘルナンは執事から全てを聞かされ絶望していた。
最愛のエリザベスが亡くなり、クロエまでもが邸を離れた。
地獄の中を一人公爵家のためにと奮闘した自分は何だったのか。執事により聞かされる話を呆然と聞いていた。
クロエは執事から言われて領地に行ったと。
自分がいてはエリザベスを失った悲しみから抜け出せず、衰弱していく私を心配し離れたと。
リリーシアとマルナを紹介するために呼び出したあの日、本当は屋敷にきていた。
そしてクロエを貶める発言をした自分の言葉を聞いて涙を流したと。
執事の話を受け入れる事は出来なかった。
リリーシアは不安気にヘルナンを見るも、マルナは不満気だ。
マルナは何を不満気にしているのか、わからない。
クロエとは一度も面識がないのに、クロエの名が出るだけで不愉快な表情をする。
「侯爵様がお越しです」
エリザベスの兄であるリュカスが突然訪問して来た。コスタム辺境領は侯爵の領地でもある。
リュカスから話を聞こうと訪問を許可した。
「全て聞かされましたか?」
ヘルナンの憔悴した顔を見て、リュカスがそう口にする。
「知っていたのですか?ならば、なぜ教えてくれなかったのです」
「教えられたからクロエに会いに行くのか?大事な娘ならば、八年も会いに行かない親はいない。エリザベスならば、数日会わないだけで追いかけるだろう」
八年……。
「貴方は八年も娘を放置した。そのうちの六年は新たな家族と過ごした。幸せだったでしょうね。新たな妻と娘を得て。
でも、クロエはエリザベスから領地運営の名義を移して領地を守っていた。貴方達の幸せな生活を支えるために、たった一人でね」
ヘルナンは胸を抉られる痛みで胸のシャツをグッと握りしめた。
(クロエ……)
「手紙の返事がないと言っていたが、貴方からの手紙など一通も届いてはいない。それに、私は二度クロエの近況を貴方宛に届けた。だが、貴方が動く気配がなくて止めたよ」
リュカスの言葉にリリーシアの肩が小さく跳ねた。
「まぁ、どうでもいいんだがね。クロエはコスタム辺境領を継ぐ時に公爵家の籍を抜いてある。もうクロエは家族ではない。クロエを気にせず、新しいご家族と仲良く過ごされると良い」
リュカスは離籍届の写しをヘルナンの前に置き、部屋を後にした。
ヘルナンは離籍届に視線を移す。
クロエの名前に赤いペンで線が引かれていた。
夜会で見たクロエは美しい令嬢となっていた。エリザベスの令嬢時代の姿をそのままに。
ヘルナンは離籍届を握りしめ泣き続けた。
誰を責めて良いのかわからない。
自分の判断の過ちが一番の原因である事は理解している。
だが、執事が早く事情を伝えてくれれば。
ヘルナンとリュカスの手紙を隠した者を見つけなければ。
見付けたところでどうなる?
クロエは戻ってはこない。
公爵家から幸せな笑い声は消えた。
コスタム辺境領は穏やかな時間が流れる。公爵家の領地で培った知識を使い、クロエは領地を繁栄させていく。
仕事ばかりするクロエをフェリクスが攫い、屋敷に数日閉じ込めてしまう。
使用人も領民も働きすぎるクロエの身を案じてくれている。
領民達がクロエを見て働き過ぎると感じていると、フェリクス殿が迎えに来ないかな……。と、話が上がるくらい、クロエとフェリクスの仲睦まじさは公認となっていた。
隣国との緊張状態は続いてはいるけれど、クロエの結界は強固で隣国も手が出せずにいる。
暫くはコスタム辺境領も国も安心して過ごすことが出来る。
クロエのお腹が大きくなり、仕事をフェリクスから制限されるなか一通の手紙が届いた。
差出人は執事からだった。
クロエが封筒を眺めていると、フェリクスがヒョイと封筒を奪った。
差出人の名前を見て、眉間にしわを寄せた。
「胎教に悪い手紙だといけないから、先に読んでも?」
「お願いしても?」
フェリクスは手紙に視線を移した。
「公爵が倒れたらしい。当主交代があるってさ」
ヘルナンは精神的に追い詰められ、当主の役割が出来ずにいた。
親族である伯爵家から養子をもらい、後継として教育を始めたと。
あの夜会から日を置かずに聞かされていた。
リリーシアは手紙を隠した事実を知られ、離縁はしていないが離れに移されたようだ。
そして、マルナが後継となるかと思ったけれど。クロエに敵対心があるマルナは、社交界でクロエを貶める発言を繰り返した。
陛下により公爵家は厳重注意を受けてしまう。
伯爵家から迎えた養子のライアンとマルナの婚約の話があったが、ライアンがマルナの性格を嫌い婚約は整う事はなかった。
ヘルナンとリリーシアに甘やかされて育ち苦労を知らないマルナは我儘令嬢で有名となった。
ヘルナンもクロエを貶めるマルナに愛情もなくなり、親族の後妻として嫁がせた。
幸せな家族のはずが、クロエがいなくなった事で不幸な家族となった。
クロエは沢山の物を手放した。
母と過ごした王都の邸の生活。
父と過ごすはずだった八年間。
社交も学園にも通えなかった令嬢時代。
母の代わりに運営した領地。
手放した後、自分の行動で新たに沢山の物を手にした。
父を恨んではいない。母を深く愛し過ぎて失った悲しみが原因なのだから。
でも、娘として寂しかった気持ちを無かった事には出来なかった。
「手紙を書くわ。公爵様に」
クロエはペンをとり手紙を書いていく。
『家族ではなくなった公爵様を恨んではいません。
ですが、寂しかった気持ちを無かった事には致しません。
母エリザベスのためにも生きて下さい。母に会う時にきちんと反省して許して貰えるように、これからを大切に生きて下さい』
フェリクスは手紙を覗き込み、涙を流すクロエの頬に口付けを落とした。
「クロエ、幸せかい?」
「幸せよ」
涙を流す美しい妻を抱き寄せ、フェリクスは深い口付けをする。
思い出した悲しみを寂しさを忘れさせるように、フェリクスは沢山の愛情をクロエに渡していく。
これから先もずっと……。
誤字報告ありがとうございます
訂正しました❀




