エピローグ
祭りのあとの教室は、ひどく寒々として、それでいて残酷なほどにいつも通りであった。
放課後の喧騒は潮が引くように去り、残されたのは、西日に照らされた埃が静かに舞う、無機質な空間だけだ。
私は自分の席に深く腰を下ろし、まだ熱を持ったままの膝をそっと撫でた。 胸の奥が、まだ痛い。
肺に吸い込んだ冬の冷気が、あのアスファルトの熱狂を、喉の奥に刻まれた血の味を、生々しく思い出させる。
――私は、今日、走った。
それは他人から見れば、校則を破ってチョコを届けただけの、ひどく滑稽で、取るに足らない小劇だったかもしれない。
だが、私にとっては違う。
それは、宇宙のすべてが反転するほどに眩い、たった一度の勝利だった。
世界は何も変わっていない。
校舎は同じ場所に立ち、黒板は相変わらず汚れ、机の落書きも、時間割も、私の席の位置も、何一つ変わってはいない。
それでも――
確かに、私の中の何かだけが、取り返しのつかない形で変わってしまった。
「……何よ、その、世界を救った後みたいな顔は。メイク、まだ落ちたままよ」
隣の席に、芹香が座った。
彼女はいつも通り、どこかから調達してきたコンビニの肉まんを、無造作に頬張っている。
その日常的な咀嚼の音が、私の高ぶった意識を、優しく、しかし容赦なく現実へと引き戻す。
「いいのよ。今の私は、仮面を脱ぎ捨てた素顔の私なのだから」
「何言ってるの、めんどくさいわね。ほら、半分食べる?」
差し出された肉まんの温かさが、かじかんだ指先に沁みる。
明日になれば、私はまた、この教室の隅で文庫本を盾にし、自意識の迷宮を彷徨う臆病なメロナに戻るだろう。
セリナ君の微笑みに一喜一憂し、橘王の嫌味に怯え、自分の名前が刻まれた「分不相応」という辞書の頁を、まためくり続ける日常が始まる。
それでもいい。それでいいのだ。
なぜなら私は、知ってしまったからだ。
人間は、愚かで、臆病で、自意識ばかりが肥大した、救いようのない道化であっても、それでも走れるということを。
泥を跳ね上げ、汗にまみれ、息を切らし、震える足で土を蹴り、誰かのために、あるいは自分自身の納得のために、一歩だけ世界を押し動かす瞬間が、人生には確かに存在するということを。
――さらば、今日までの死んでいた私。
明日の私は、今日よりも少しだけ、速く歩けるようになっている気がするのだ。
……と、そんな美しい独白を脳内で完成させた直後、私は椅子から立ち上がろうとして、無様に床へ転倒した。
膝が、笑っている。いや、爆笑している。
私の感動的な決意など、乳酸の蓄積という生理現象の前では、羽虫ほどの重みもありはしないのだ。
「……芹香、悪いけど、家までおんぶしてくれない?」
「あんた、さっきの『仮面を脱いだ』とかいうセリフ、今すぐ返上しなさいよ」
さらに、追い打ちをかけるような報せが芹香の口から届いた。
私が死に物狂いで届けたあのチョコの箱は、度重なる落下と激突によって、中身が完全に粉砕され、もはや「カカオの砂漠」と化していたらしいのだ。
セリナ君はそれを、あのどこまでも無垢な微笑みと共に、「わあ、新しいタイプのふりかけかな? 明日の朝ごはんのお供にするね」と、慈悲深い言葉で受け取ったという。
ああ、死にたい。やはり私は、どこまでも救いようのない道化なのだ。
私の純情は、白飯の上で踊る「ふりかけ」に成り下がった。
そこへ、帰宅途中の橘王が、わざわざ私の教室のドアを開けて顔を出した。
「おいメロナ。必死に走るのもいいが、明日からはもう少しマシなフォームを研究しろ。お前の走る姿、中庭から見ていたが、完全に『逃げ出したアルパカ』だったぞ」
私は、手元にあった肉まんの包み紙を、渾身の力を込めて彼に投げつけた。
私の新しい一歩は、今のところ、橘王への純粋な殺意によって力強く踏み出されている。
恥の多い生涯だ。
だが、ふりかけになろうとも、アルパカと呼ばれようとも。
私は明日も、この震える足で、生きていかねばならないのだ。
(了)




