第2話
時間は、残酷なまでに引き延ばされた。
私の指先から、あの小箱が重力という名の無慈悲な法に従って離脱した瞬間、世界の音はすべて消え去った。
箱が空気を切り、静止したままの私を置き去りにして、床に向かって弧を描く。
そのコンマ数秒の間に、私の脳内では、昨日からの苦労と、今日この後の絶望的な結末が、走馬灯のように、しかも最悪の編集で再生されていた。
手汗で湿った包装紙の感触が、まだ指先に幽霊のように残っている。
私の心臓は一拍、一拍を、まるで死刑台の階段を上る足音のように数えていた。
カラン、という、あまりにも呆気ない音が廊下に響く。
運命というものは、常に最悪のタイミングで、最も残酷な角度の放物線を描くのだ。
私の魂の結晶は、廊下の冷たいワックスに弾かれ、まるで自らの意志で私から逃げ出すかのように、橘王の足元へと滑り込んでいった。
育ちの良さを隠そうともしない、あの、鼻につくほど完璧に整えられた前髪。
まるで道端の石ころを見るような、あるいは賞味期限の切れた牛乳を眺めるような、あの独特の「薄ら笑い」を浮かべて私を待っていたのだ。
「おっと。メロナ、これは俺への供物か? 随分と熱烈なパスじゃないか」
ああ、死。ヤツに死を与えたまえ。
彼の発する一言一言が、私の脆い鼓膜を、そして薄氷のような自尊心を、容赦なく踏みにじっていく。
ヤツは知っているのだ。この袋の中にある、ドロドロに溶けた私の執念を。
私は、ただ、黙秘した。沈黙。それだけが、私の残された唯一の武器であった。
橘が、わざとらしく優雅な、しかし反吐が出るほど完璧な動作でそれを拾い上げようとした。
ああ、神よ。なぜ私の恋はいつもこうも劇的で、不格好なのか。
私の胸は、羞恥と憤怒で爆発しそうだ。私は、己の自尊心がタイルの隙間に吸い込まれていくのを感じながら、地を這うような勢いで叫んだ。
「返しなさい! それは、私の心臓よりも重い、禁断の果実なのよ!」
私が手を伸ばした瞬間、背後から「わあ、危ない!」という絶叫と共に、ラグビー部の巨漢たちが雪崩のように押し寄せてきた。
練習開始の合図に遅れまいとする彼らの濁流。
スパイクの金属音が床を叩く威圧感。私は木の葉のように翻弄され、踏みつけられることを恐れて体を縮めた。
「待って、踏まないで! 私の純情が、カカオの塵になってしまう!」
混乱の最中、救世主が現れた。芹香だ。
彼女は生活指導の目を盗み、まるで忍者か何かの如きアクロバティックな身のこなしで、橘の指先が箱に触れる寸前にそれを奪い取った。
彼女の制服が風を切り、私の目の前で翻る。
「メロナ、ここは私が食い止めるわ! あんたは先に行きなさい!」
「芹香! あんたって人は……!」
「いいから! ほら、生活指導のディオニス先生が来るわよ!」
廊下の向こうから、「こら、そこ! 廊下でチョコの授受は校則違反だぞ!」と、竹刀を抱えた教師が迫りくる。
私は芹香からチョコをひったくるように受け取ると、再び走り出した。
足首の関節が、過度な緊張と運動不足で軋み、悲鳴を上げている。
だが、不条理の連鎖は止まらない。
階段の踊り場で、私は今度はバケツを持った清掃委員の女子と衝突しかけた。
「きゃっ!」 間一髪で身をかわした。
しかし、その拍子に、私の両腕は自分自身の意志を裏切り、チョコの箱を空中へと突き放した。
チョコの箱が、階段の縁をリズミカルに叩く。
ゴン、ゴン、ゴン――
それは私の希望が一段ずつ剥がれ落ち、摩耗していく音だ。
「ああ、終わった。私の人生は、今度こそ完全に、物理的な位置エネルギーと共に墜落したのだ」
私は、踊り場に膝をついた。
下では、低学年の男子たちが「あ、チョコ落ちてる! 誰かの忘れ物じゃね?」と、まるで珍しい石ころでも見つけたかのような無邪気さでそれを拾い上げ、あろうことか隣の教室――一年生の教室へと持ち込んでいくのが見えた。
なぜだ。なぜ私のチョコは、私を嫌い、別の主を求めて彷徨うのか。
周囲の生徒たちの笑い声や話し声が、まるで私を嘲笑う劇伴音楽のように聞こえる。
私は、自分が世界で一番滑稽な迷い子になったような気がした。
自虐の闇が、冷たい触手のように私の四肢を縛り付ける。
「もう、いいじゃないか。あんなに転がったチョコを渡したところで、不衛生だと思われるだけだ。セリナ君だって、きっと困るに違いない……。私は、ここで、この冷たい床と同化してしまえばいいんだ」
私は、冷たい手すりに額を押し当てた。
一分、一秒と、放課後のタイムリミットが、私の恋を無慈悲に切り刻んでいく。
窓から差し込む夕陽さえ、私の無様さを赤々と照らし出す審判の光に見えた。




