プロローグ
明日、私は走らなければならない。たった一つのチョコのために。
そう、私の人生はいつも小さな悲劇とともに進むのだ。
――そして誰も知らない、私の胸の爆発寸前の鼓動を。
友達に宣言してしまった以上、逃げるわけにはいかない。
私は愚かで、臆病で、それでも全力で走らねばならないのだ。
思えば、私の十六年は「沈黙という名の安全地帯」に引きこもるための歴史であった。
目立たぬよう、波風を立てぬよう、教室の隅で一冊の文庫本を盾にして、世の中の喧騒をやり過ごしてきた。
それなのに、どうしたことか。
あの白石セリナ君の、抜けるように白い肌と、春の陽だまりのような、どこか心もとない微笑みを目にした瞬間、私の堅牢だったはずの防波堤は、砂糖菓子のように脆くも崩れ去ったのである。
「明日、私、セリナ君にチョコを渡すわ。……放課後、彼が帰るまでに。必ず」
放課後の教室、夕闇が忍び寄る窓際で、私はそう口走ってしまった。
言った瞬間に、私は自分の喉を掻き切りたい衝動に駆られた。
ああ、恥を知れ、春川メロナ。分不相応という言葉を辞書で引いてみるがいい。
そこには私の名前が、小さな活字で、申し訳なさそうに刻まれているはずだ。
親友の芹香は、驚きのあまり手に持っていた紙パックのいちごオレを握りつぶさんばかりの勢いで私を凝視した。
「メロナ、あんた本気? セリナ君って言ったら、あの橘王に目をつけられてる、学園の天然記念物よ?」
わかっている。そんなことは、この胸の痛みほどに痛感している。
だが、一度吐いた言葉は、私の唇から離れた瞬間に「宿命」という名の鎖となって、私の首に巻き付いた。
明日、私は日没までに、あの白石セリナという名の聖域に、自作のカカオの塊を捧げねばならぬ。
もし遅れれば、私は自ら命を絶つ代わりに、今後一生、誰とも目を合わせずに登校するという、より残酷な刑に服さねばならないだろう。
深夜、台所で湯煎したチョコをかき混ぜながら、私は独りごちる。
「なぜ、チョコはこうも甘く、そして残酷に溶けるのか。私の自尊心もまた、このボウルの中でドロドロに形を失っていくようだ」
「神よ、私に翼を、せめて明日だけは、橘王の妨害をすり抜けるための、強靭な脚力を与えたまえ」
窓の外では、無慈悲な月が私を嗤っている。
神は沈黙し、月だけが全てを見ていた。
明日。決戦の日は、もうすぐそこまで、音もなく忍び寄っていた。




