36.新しい朝
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桜吹雪の日から半年経った。
満月の夜から目覚めた俺は親指で瞼を押さえ、息を吐き出す。
「おかしな夢を見た、かもしれない」
目頭が熱い。
しかしそろそろ起きなければ。
ゆっくりはしていられない、なぜならば……。
「おはようございます、先輩!」
物凄い勢いで部屋の扉が開かれる。
入口には、日本人らしからぬ亜麻色髪の乙女が立っていた。
「もしかして着替え中でした?」
「君が来るまでには起きようと思っていた故、油断した」
「まだそんな格好で寝てるんですね、寒いのに」
「月詠の屋敷は暖かいからな。それよりも繭、扉を閉めて一度出て行ってくれないか?」
ふふっと微笑した繭が、後ろ手で扉を閉める。
「いや、だから、一度出て行ってくれと」
「私は構いませんよ、このまま着替えてもらっても」
「君は良いかもしれないが、俺が困る。兄上にだってなにを言われるか」
「あー、そうですね。それなら外に出ておきます。朝食出来ているので、準備できたら来てくださいね」
繭はくるんと踵を返し、俺の部屋を出て行った。
「……忙しいな」
ため息を飲み込み、ベッドから起き上がる。少し寝坊してしまった、今朝は早く学校に行くつもりだったのに。
制服に着替え、姿見で身なりを確認する。
寝癖などついていないだろうか、ネクタイは曲がっていないか。
ブレザーに埃などついておるまいな?
逐一チェックするがきりが無く、時間もないので鞄を持って部屋の外に出た。
「改めて、おはようございます。帝様」
部屋の外で待っていた繭が、俺の持っていた鞄を奪い取って廊下を歩く。
俺はゆっくりとその後を追った。
「おはよう、繭」
「あら、繭って呼んでくれるんですね。召使の下女と呼んでくれても構いませんのに」
「朝からなにを言っている?」
「それともメイド女のほうがお好みですか?」
「どちらも好かん。今日は機嫌がいいな、なにかあるのか?」
「旦那様が夕食を共にしよう、と」
「ほぅ、仕事が落ち着いたのか」
「そうみたいですね、なに作ろうかなぁ」
「……君が作るのか?」
「えぇ、せっかくですから」
「それは……兄上も、望んでないのではないか?」
「私が旦那様のためになにかしたいんです」
「君もたいがい、自分勝手だな。間違ってもクッキーなど焼くなよ?」
俺の言葉など耳に入らずで、繭は鼻歌を口ずさみながら廊下を歩いた。
あの後、月詠を除名になった俺は一度屋敷に戻った。部屋のものは全て無くなっていたが、かたを付けなければと兄上の元へ向かった。
陳謝する俺の声を無言で聞いていた兄だが、いよいよ俺が月詠の屋敷を出るに当たって、玄関まで来て言った。
『お前次第では、月詠に戻ることを許す』
あれ程威勢を張ったにも関わらず、やはり故郷は恋しい。
なにより、兄の条件は容易い物で俺は二つ返事でそれを了承し、月詠家に戻った。
我が身のなんと浅ましい事か、そして自分がどれほど勝手かを思い知った。
「繭、今さらだが君に謝りたい」
俺の言葉に、繭は立ち止まって不思議そうに振り返る。
「俺が月詠に戻る条件として君に迷惑をかけたこと、本当にすまない」
惚けていた繭だが、やがて踵を返し、頭を下げる俺の顔を覗き込んだ。
「今さらですか? ほんと自分勝手な人ですね」
「自覚はある」
「先輩と添い遂げる覚悟をするだなんて、あの人ももの好きですね」
「君だって以前はそのもの好きの仲間だったであろう」
「私はいいんです、その後、本物の愛を見つけましたから」
そう言って朗らかに笑う繭は、以前より随分と綺麗になった。
半年でこれだ、この少女はこれからもっと、美しくなるだろう。
「最初は驚きましたけどね、月詠家に下女として仕えろだなんて。私の知らぬところで勝手に承諾する先輩も先輩ですよね、私の家が月詠に逆らえないとわかっているのに」
「すまない」
「謝らないでください。むしろ感謝してるんですから」
兄上の出した条件は『香坂繭を下女として月詠家に迎え入れるよう説得しろ』というものだった。
繭なら頻繁に月詠家に出入りしている、なぜ今さら。
わけがわからぬと思っていたが、繭を迎え入れて納得した。
彼女は本当に、男を虜にするのがうまい。
「先輩に会うために出入りしていた時より、今現在のほうが……今が一番楽しいです」
再び歩き出す繭。
よかったと言っていいものかもわからず、彼女の後を追った。
「でも、最近になって急に帝様の世話係に就けだなんて、旦那様はなに考えてるんですかね」
「それはおそらく、俺を試しているのだろう」
「先輩を試してる?」
「俺と君の間でなにかあれば、今度こそ兄上は容赦なく俺を追い出すだろう。俺と君の関係が本当に終わっているのかと、兄は試しているのだ」
「えぇっ? そんなことする必要ないのに。私は一度好意を持った相手には一途だし、先輩だって目移りする余裕ないですもんね?」
食事処につき、扉に手をかける繭がふふっと微笑んだ。
「でも、嫉妬させてみるというのも面白いですね。旦那様が取り乱す様を見てみたい気もします」
「……君は本当に、どうしようもないな」
「先輩の自分勝手には敵いませんよ。さぁ、新しい朝です」
繭が扉を開けると、温かな朝の陽射しが顔にぶつかった。
「おはようございます、帝様」
そうしていつもの日常が始まる。




