35.花明かり
廊下に出ると人影はなかった。
下校時間を過ぎているからだろうか。そういえば、あれ程騒いだにも関わらず旧階段には誰も入って来なかった。
誰かが人払いでもしてくれていたのだろうか。
「にしても、庶民の学校だよなぁ」
校舎の装飾を見渡しながら東城が言う。
「不躾だぞ、東城」
「そういえば、お前らの約束ってなに?」
歩きながら、東城は懐から電子煙草を取り出す。
蓋を開くとすぐに煙が立つ、風情もなにもない代物だ。
校内は禁煙だと思うが、面倒なので放っておいた。
「明年、桜を見に行くと約束した」
「桜?」
「姫は未だ見たことがないと言うのでな、桜を見て花吹雪に打たれてくる」
「はぁ? なんだ、そんなことか」
「そんなこととは無礼な」
「桜なんか見ても愉快なことはないぞ、やめとけ、羽姫。花吹雪なんて、髪が乱れて心も乱れて終いだ」
「君は花吹雪を見たことがあるのか?」
「見なくてもわかるだろ。たいしたことない」
「東城、君は風情という言葉を知っているか?」
「花吹雪だろうが桜吹雪だろうが、俺たち東城の人間の絢爛さには敵わんよ。羽姫に至っては特に、高嶺の大輪だ」
「……ろくでもないな、君たちは」
呆れてものが言えぬとはこのことだろう。それ以上の会話をやめて歩く俺の後ろを、姫が微笑しながら付いてきた。
かわいらしいことこの上ない。
ずっと見ていられると思って、それと同時に不安に駆られた。
やはり離したくない。
彼女の側でずっと、共に笑っていたい。なにか彼女の気を引くような……俗世に留まりたいと思えることないだろうか。
衣食住に至っては東城の屋敷に勝る物はない、人付き合いも居心地が良いと姫自身が言っている。
東城家に無くて俗世に有るもの。
俺か? いや、それは自意識が過ぎるな。
もっと、姫の心を動かすような……
「いてっ、おまえ、前見て歩けよ」
考え事をしていた故、東城の首に頭をぶつけてしまった。
「大丈夫ですか」と駆け寄る姫を片手で制し、東城は正面に向き直る。
「さて、帰るか」
煙草を加えた東城が校舎の扉を開ける。
それとほぼ同時だった。
俺たちが感嘆の声を漏らしたのは。
「……桜吹雪?」
声を上げたのは姫だった。
見たこともないのに、彼女はそう呟いた。
俺の話を聞いて想像していたものと、いま、目の前に広がる光景が一致したのかもしれない。
扉を開けると、校舎の外では桜吹雪が舞っていた。
はらはらと、風に漂いながら舞い落ちる桜の花弁。
造形どころか動きも本物と違わず、手にしなければ偽物とはわからないだろう。
「……綺麗だ」
手のひらで花弁を受け止めた東城が、ふらっと校舎の外に出た。俺と姫も東城に続いて外に出る。
それは絶景と呼ぶに相応しかった。
あたり一面桜色の紙吹雪。
そよそよと風に舞い、地に落ちてはまたふわりと舞い上がる。風がうまく花弁を宙に運び、また天からは新たな花びらが舞い落ちて。
吹き荒れる桜吹雪の中、俺と姫は手を繋いだ。
後で聞くところによると、風の演出は大伴と彼の仲間によるものだった。校舎の様々な場所から団扇で仰ぎ、風を起こしていたと。その横で石島は執筆活動に励み、後に風演出のメンバーは演劇部に入部し、【月の姫の転生物語】なる劇を大成することとなる。
屋上には愉快に手を振る繭と、彼女の横で必死に花弁を舞い落とす蔵持。その他大勢の男たち、生徒だけでなく教師まで、男どもが繭を囲っていた。
体育館の隅で涙を流すギャラリーの中には姫の友人二人。
駐車場の向こうでは、阿部が[我が心の友、帝くん]と描かれた旗を振り回していた。
停まっている車の中に、空を眺めている藤宮の姿が見えた。藤宮は俺と目が買うと片手を上げて微笑み、再び桜吹雪に目をやって誰かに電話をかけていた。
「いとをかし」
姫が呟いた。
俺は首を傾げる。
「ん?」
「嬉しいとか、心温まる感情を示す言葉です」
「……ああ、うん。いとをかし」
俺の返答に、姫が嬉しそうに笑う。
その笑顔が愛おしくて、繋いだ手をぎゅっと握り返す。
「姫、約束しましょう」
姫が俺の顔を見つめたので、俺も彼女の方を向いた。
本日もう何回目かの愛らしい、いとをかし。
勢いそのまま言ってしまえ、恋とは衝動的なものなのだ。
「春になれば、本物の桜吹雪を見にいきましょう」
「え? 今のこれは?」
「これは蔵持の作成した紙吹雪です。本物はこれより更に美しい、色鮮やかな自然の美が視界を覆い尽くします」
「これよりも更に、美しい」
「花明かりという言葉があります。桜の花が一面に咲いて、夜でもあたりが明るく見えるという……いつか先の未来、君と二人で、その場景を眺めたい。もう一度俺と恋をしてください、姫。俺は本当に、君のことが好きで仕方ない」
「はい……」
ひらりと、桜の花が姫の前髪に舞い降りた。
茫然としていた姫の頬が真っ赤に染まり、やがてふわり笑顔を咲かせる。
「帝様、私––––」
姫の声が、風の音と重なった。
だけど俺は聞き逃さなかった、彼女の言葉を。
小さな手が俺の手を握り返した。
可愛い、愛らしい。
好きだ、大好きです。
伝えたいことはたくさんあるのに言葉にするには難しくて、空を見上げた。
姫とともに、手を繋いで。




