26話.反転
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階段を駆け下りている最中、携帯電話を取り出した。
通話履歴から発信、相手は暇なのかワンコールで繋がった。
『やぁ、今朝ぶりだね』
「君は常に携帯の画面を凝視しているのか、電話に出るのが異様に早い」
嫌味を言ったが、藤宮はさして気にせずケタケタ笑った。
『偶々見ていたんだよ。で、今度は何かな?』
「君の仕事にクレームを入れたい。夜武羽姫の行動予定に関して、聞いていた情報が実際のものと異なっていた」
『あぁ、讃岐の家を早く出発したアレね』
「故に、新たな情報を求める」
僅かな沈黙のあと、『ふふっ』と笑い声が漏れる。
『帝、いま何時かな?』
「午前十一時半過ぎだ」
『姫はまだ俗世にいる。讃岐の家に引き返したみたいだよ。昼食を頂くことにした、と』
「……そうか」
それはよかった。
絋介の叔母が、手に塩をかけてご馳走を拵えたことが無駄にならなかった。
『その後、もう一度学校へ行く』
「学校……とは此処のことか? 何故?」
『約束を忘れていた、と』
「約束?」
何のことだ?
誰との約束?
「……ありがとう、藤宮」
それよりも今は、好機に恵まれたことに感謝しよう。
姫はもう一度、学校へ来る。
話をする機会がある。
『でもさ、詳細な時間はわからないんだよね』
「構わない。姫が再度、学校へ訪問するという情報だけで有難い」
『優しいねぇ、帝は。でもそれだと、僕が自分を許せなくてね』
ザッ、と足で地面を擦る様な音が通話の向こうから聞こえた。
まさか、そんなことはあり得ない。
そう思いつつも、疑念を投げかける。
「藤宮……君はいま、どこにいる?」
『約束しただろう? 今日は外に出るって。僕はいま、月詠の屋敷の前にいるんだ』
「……はぁぁ?」
立ち止まり、大声を上げてしまった。
あたりを見渡すが、幸い誰の姿もない。
『久しぶりに来たけど、月詠家は相変わらず厳格だね』
「藤宮家が緩すぎる……それよりも、なぜそんな所へ」
『実を言うと、帝へ渡した情報が間違っていたことにはすぐに気がついたんだ。だけど謝って済む問題ではない、何か良い対価は無いかと考えて、こうして月詠へ出向いた』
「だから何故、月詠の屋敷に」
『帝が、夜武羽姫を取り戻すと聞いたから』
「そのつもりだが。説得して、相手が了承した場合に限るが」
『それってさ、東城に歯向かうことになるよね?』
「いや……ただ俺は、姫の本意を引き出そうと」
『夜武羽姫は東城の戒律に従うことを納得している。それをひっくり返そうと動くことは、東城の意思決定に難癖をつけるのと同じことじゃないかな?』
返す言葉が見つからなかった。
藤宮の言う通りだ、姫を説得すれば良いと言うわけではない。
姫は既に東城の娘だ、彼女自身それを受け入れている。
俺が今から行うのは、丸く収まったことをひっくり返す? 俺の言動で姫が意見を覆せば、東城家の怒りを買うのは必須だろう。
月詠の姓を名乗る以上、自身の言動に責任を持てと言った、兄の声が脳裏に蘇る。
一週間前、姫が連れ去られた日、当主の庶務室で投げられた言葉。
俺が何かを為すことは、月詠の名を使うこと。
生家の名誉を汚すということ。
最悪、月詠家と東城家の抗争の種になりかねない。
「……それでも俺は、姫を」
『助力するよ、帝。君が月詠の名を捨てたいと願うなら、僕が兄君に口添えしよう』
「口添えとは……月詠の名を、捨てる?」
『違うのかい? しかしなぁ、東城に喧嘩を売るとなると、月詠の名を持ったままでは何かと不都合だろう?』
はっとして、兄の言葉を反芻した。
あの時、しきりに月詠の名を捨てろと言っていた。
気づかれていた、わかっていたのだ、兄上は。
俺が本意に従って動けるように、大切なただ一人のために、何もかも捨てる事を厭わぬように。
「だから俺に、名を捨てろと……兄上も藤宮も、君たち御三家の当主は本当に、才気煥発という言葉がよく似合う」
『僕は未だ当主ではないけれどね。そうなった時、同じ言葉をもらえるよう努めるよ』
「問題ないだろう、君ならば。ありがとう、藤宮」
『まだ何もしていないよ。さて、帝、君が僕に望む事は?』
「藤宮家次期当主の君ならば、口添えではなく請求ができるだろう。俺の月詠離脱の要請を頼む、俺の代理として」
『承った』
ザッザッと地面の鳴る音、風の切れる音が聞こえる。
『昼食が済むまでには何とかしておくよ。安心して、想いを遂げるといい』
足音が止むと同時、ビーと鳴る警告音。
盛大な音量に片目をつむったとき、通話が切れた。
「正に感謝する。ありがとう、藤宮」
携帯を額に当てて瞑目したあと、再び階段を駆け下りた。
心配はない、藤宮はうまくやってくれる。
兄上に至っては、口に出さずとも俺の味方だ。
幼い頃からわかっていた、兄の目が優しいことに、触れる手が温かいことに。
小窓から見えた空が明澄で、どこまでも晴れ渡っていて、世界が俺に味方しているのではとの錯覚に陥った。
大丈夫、月はない。




