17話.三日月の月詠
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月詠の屋敷に戻った俺は、兄の部屋へと足を進めた。
【当主館】と表札がある建物の前にいる見張り番に軽く頭を下げると、彼は俺よりも深く辞儀をした。
「兄上に謁見願いたい」
見張り番に告げると同時、建物の中から初老の男性が出てきた。
周りの者が一斉に頭を下げる。
当主直属の補佐官だ。
「帝様、お時間は御座いますか?」
深々と辞儀する補佐官の男が、俺を窺う。
「俺は構わない……が」
まさかとは思ったが正に。
補佐官の男は手のひらを上に向け、俺に中へ進むよう促した。
「五分程度なら構わないと申されております故、お急ぎください」
兄の庶務室、当主館に入るのは久しぶりで、自然と背筋が伸びた。
螺旋階段を上り一番奥の部屋の扉を開けると、正面の大机の向こうに兄がいた。
「……ご無沙汰しております、兄上」
声をかけると、兄は手元の書類に目を落としたまま返事をした。
「久しいな、帝」
俺の十つ上、今年で二十七になる一番上の兄は、数ある兄弟の中でも唯一、俺と同じ母親から生まれた。
黒髪が同じだ、目元が似ているなど、様々なことを言われるが、俺はなに一つ納得していない。
その若さで当主を任された兄上は聡明かつ偉大だ、俺では足元にも及ばない。
「学校はどうだ? 愉快に過ごせているか?」
「お陰様で」
「我はなにもしていない、謝辞は亡き父上に述べるべきであろう」
「ご指摘の通りです」
「無茶を通して庶民学校に入学した甲斐があったな」
「…………」
嫌味なのか、それとも本心からの祝辞か。
兄の言葉はいつもわからない。
表情が見えぬ所以もあるが。
「兵なら出さぬぞ」
他念を持っていた合間に先手を切られ、慌てて顔を上げる。
「なにを、おっしゃっているのか……」
「五分程度しか設けぬと言ったろう、無駄話はやめろ」
「……ご指摘のとおりです。夜竹羽姫を連れ戻したいがために、兄上から東城へ……」
「遺伝子鑑定で血縁が証明されたのであろう? なれば月詠が介入する理由はない」
「俺の個人的な、厄介事です」
「個人的、か……随分前だが、月詠の名で警察を動かせたろう?」
「警察?」
「唐の商人を捕まえた、とか」
「あぁ」
姫の恋人選び、候補であった阿部が騙された時のことだ。
たしかにあの時、警察の同行を依頼したが。
「月詠の力を行使した覚えはありません。一私人、ただの高校生として通報、助力の懇願は致しましたが」
「だが姓を名乗ったろう? ただの高校生のために、あれ程多くの国家公務員が早々に動くと思うか? 悪戯を疑いもせずに?」
「……以後、気を付けます」
「一私人として認識されたいなら月詠の名を捨てろ」
淡々と吐き出される言葉。
兄の視線は俺ではなく、机上に積もる書類の山だった。
一枚、また一枚と目視しては何かを書き込み、また別の場所へ積んでいく。
よくもまぁ、俺と会話をしながら別のことが出来るものだ。
俺には無理だ、確実に。
「それは、月詠の家を出て行け、と解釈しても?」
「阿呆か、お前は。月詠の姓を名乗る以上、自身の言動に責任を持てと言ったのだ。だが、お前がそれを望むなら我は構わないぞ。父上は幸いにして数多の男児に恵まれた。帝、心得ているだろうが、末男のお前が月詠の当主になることはあり得ぬ」
「承知しております」
「継嗣が一人いなくなったところで誰も困らぬ、むしろ喜ぶ輩もいるであろうな」
兄の手が止まった。
膝の上で両手を組み、俺を見つめる。
「月詠の姓を持つお前の言動には、御三家の責が伴う。自らの行いを省み、面が立たぬことはするな。一私人として自らの本意に従って行動したい場合は、月詠の名を捨てろ」
久しぶりに見た兄上の目は綺麗だった。
曇りのない、真っ直ぐな瞳。
それなのになぜ、俺はいま、説教を受けているのだろう。
『月詠の名を捨てろ』と、破門のようなことを言われているのだろう。
昨年の暮れまで、父が在命の頃は愉快だった。嫡子の兄と共に、様々な社交の場へ連れ出された。そこで藤宮や東城とも知り合った。
世継ぎではないからと名前で、『帝』と呼ばれるようになった。
特別ではないのに特別な存在。
父が亡くなるまで、他の兄と違って自分は特別なのだと思っていた。
嫡子しか行けないはずの社交場に連れて行ってもらえた、好きな高校に行かせてもらえた。
いまさら、月詠の名を捨てろと?
「……申し訳ありません」
深々と頭を下げると、兄のため息が聞こえた。
「話は以上だ、下がれ」
顔を上げると、兄は再び資料の山に目を通していた。
深く礼、顔を上げて姿勢を正し、踵を返す。
外に出ると、兄付き老人が辞儀をして俺を見送った。
会釈し、自分の部屋へと向かう。
廊下を歩いている時に様々な人に会った。腹違いの兄が侮蔑の視線を投げつけたり、下女がなにかを喚いて追ってきたりしていたが、全て無視して自室に戻った。
ネクタイを解き、自分が未だ制服を着ていることに気がつく。
「……絋介に、話をせねば」
鞄から取り出した携帯が震えていた。
いや、震源は俺の手だ。
止まらぬ震えを反対の手で押さえつけ、携帯をベッドに投げ捨てる。
なにを、話すのだったか?
そもそも俺はなぜ、兄の元へ向かったのだろう。
『月詠の名を捨てろ』
どうして、そのような話になった?
混沌とする頭の中、微かに往年の記憶が蘇った。
満月の光の中、日本一高い山の頂上に煙が立ち込めていた。
天の羽衣を纏い消えた少女、地上では残された男が一人、枕を濡らす。
『逢ふことも涙に浮かぶ我が身には』
あのとき守れなかった人は……
生まれ変わってでも共に、今度こそ想いを遂げたかったのに。




