第5章 玄の姫巫(クロノアルア)
風のない日であった。アースは、久しぶりにポッポ翁に会うために万年銀杏にある洞ん翁の家を出た。ウイグラフと分かれてからは農閑期だったこともあり、万年銀杏にずっと泊まり込んで修行を続けていた。
太陽が、雲間から光の矢を降り注いだ。鏡池に立ち寄って、少し休憩しようとしたアースは、ひんやりとした池の水を手のひらにすくい上げた。村にもどったら、久しぶりにプッルやションカたちにも会いたいな。そう思うと、自然に口元が緩んだ。
その時だった。どこからかかすかな音が流れてきた。最初は鳥の声のように思われた。だが、それは人の声であった。少し悲しげな旋律にのった歌声であった。陽気な鹿晋族の祭りの歌と違って、透き通る声が水面を漣のようにわたってくる。
山陰にある鏡池の上には、もやがかかっていた。そのため、向こう岸がよく見えなかった。そういえば、この間あの大男の聖理師、ア・マリンと会ったのは、どれほど前だったのだろう。村の友達とすらどれくらい会っていないのだろう。そんな想いにとらわれていたアースの頬を風が通り抜けて行った。もやがすうっと風に吹き分けられた。アースはようやく向こう岸に立つ歌声の主の姿を見た。
白かげろうの春羽のような薄い服を身にまとっていた。額から後頭部にかけて銀色の鎖と金剛石の飾りが付いた髪飾りをつけている。その姿は歌に合わせて、ゆっくりと両手を頭上に掲げた。湖面の上を流れるように、ゆったりと舞い上がる。夜のような黒い長い髪がその動きにあわせてゆるやかな曲線を描く。
息をおもわず止めている自分に気づいてアースは驚いた。あの時いた緑色の目の少女だ。聖理師、ア・マリンと一緒に居たあの少女だ。腕を上げると、白い糸で編まれた薄い服がひらひらと風に揺れた。
胸の前に白いしなやかな腕を組み、少女は祈るように瞳を閉じていた。合わされた掌と指が三角形をかたどると、そこに鏡池の水面から光が集まってきた。手を中心として、そのはかなげな緑の光の群れが舞い踊り始めた。同時に少女の両手が光の中に伸ばされた。彼女の細い足が、湖岸から離れる。少女の姿は宙に浮かびあがった。
「あの男と同じだ。飛んでいる。」
アースは思わず声を出してしまった。あわてて口を押さえたが少女には気づかれてしまったようだった。
少女は反対岸にたたずむアースに向けて微かに笑い、ゆっくりと湖面を舞いながら近づいてきた。手を伸ばせば届きそうなところまでやって来ると、そこで止まり、小さな声でささやいた。
「あなたは、ケイロン様のところのあの坊や。・・・アース。白き星の定めのアース。託言の子アース。私の事を覚えていたの。」
「君も、聖理師なの。空を飛んでた。」
「ふふふふふ。違うわ。舞は私たちの仲間なら誰にでも出来ることよ。聖理師が使うア・マリンの飛空とは異なる技なのよ。」
「君の仲間って、他にもいるの?」
「いるけれど、もう少ししか残っていない。」
少女は悲しげにうつむいた。
「でも、いるだけいいさ。」
「あなたにはいないの。」
「仲間はいるよ。鹿晋族の村に行けば友達もいる。洞ん翁や、ポッポ翁もいる。でも。」
少女はじっとアースの紫色の瞳をのぞき込んだ。
ここで、この子に話したとしても、本当に僕の同族はいない。それが変わるわけではなかった。
「おどり、とっても上手だったよ。」
「ありがとう。アース、あなたは何が得意なの。」
「うーん、釣りはションカより下手だし、聖理語の覚えは悪いしね。」
アースはこの少女のきらきらと輝く瞳が苦手に思えてきた。けれど、完全に視線をそらすことも出来ずにいた。見つめれば見つめるほど、息が苦しくなるのがわかった。頬や耳たぶまでが、胸にあわせて早鐘のように鳴っていた。どれほどの時を過ごしたのだろう。もやが薄れ、太陽が再び、湖面を照らしだした。
「もう行かなければ。」
少女はそう言って立ち上がった。
「うん、そうだね。」
「また、会えるといいわね。託言の子、アース。」
少女は少し微笑み、ゆっくりと舞い上がった。もやの中にさしこめる光の幕の中を、少女はゆるやかに舞いながら去っていく。そして、もといた岸にたどり着くとそのまま森の中に消えて行った。
彼女の姿が見えなくなっても、その歌声は、しばらくの間、アースの耳に届いていた。




