第4章 洞ん爺|洞守《ケイロン》
池の向こう側にいた洞ん爺は手招きしてアースを呼んだ。我に返ったアースはゆっくりと池の縁のぬかるんだ縁をまわり、洞ん爺の元にたどりついた。洞ん爺は池の畔にある桂梼に腰を掛けていた。
「もう歳じゃからのう。大声を出すと疲れちまうわい。」
洞ん爺の瞳には先ほどの厳しい光は影もなかった。洞守族の民に見られる年輪のような深い皺と針のように逆立った白い髪のよく似合う、いつも通り、洞ん爺の笑顔であった。
「あの人たちは誰。鹿晋族の人じゃないよね。いったいどこから来たの。」
「これはこれは。ちいさいアース。何でも知りたがるのう。じゃが、物事と言うのは知るべき刻が来るまでがまんしなきゃならんもんじゃ。」
「あの人、ア・マリンってゆう人もそう言っていた。」
「いい子じゃ。それで今日の所はよしとするのじゃ。‥‥あと七度、太陽と月の祭りが過ぎたらすべてを話すからのう。」
「その刻が成就の刻なの?」
「今はまだ教えてやれんのじゃ。もしかしたら、もっと早くなるかもしれん。そのかわり明日から毎日わしの所へ来るのじゃ。学ばねばならんことが数多く待っとるぞ。ポッポにはわしから話そうのう。」
それきり、洞ん爺は黙り込んでしまった。道端の楡の木陰から様子をうかがっていたウィグロが戻ってきてあれこれと話しかけてきたので、洞ん爺との話はそれきり終わってしまった。
家に帰るなりポッポ爺にその出来事を話すと、なぜか悲しそうな顔をした。洞ん爺が言っていた最後の言葉を伝えた頃には、顔を真っ赤にして怒り出す始末だった。
「洞ん爺め。何を考えとるんだ。いいかアース。お前を今日まで育ててきたのは俺だ。教えなきゃならんことがあるなら、俺がきちんと教えるわい。胚蝉の孵化のさせかたも乳の絞り方も、粉の挽き方も、水車の調節も何もかもだ。ここで生きていくのに必要なことは何もかもだ。」
ポッポ爺がこれほど不機嫌になったのをアースは見たことがなかった。しかし、次の日からアースは何とかポッポ爺の目を盗んで洞ん爺の住む万年銀杏へと足を運んだ。家の手伝いや水車小屋でする粟麦の粉挽きの準備などはきちんとしてから出かけていた。初めこそそんなアースを叱りまくったポッポ爺も、そのうちにあきらめがついたのか、何も言わなくなった。何も言われなくなってから初めて、アースは自分のしていることに少し後ろめた感じた。アースはその頃には基本的な神聖語の発音を習い終えていた。
今、自分の学んでいることがこれから何に役立つのかをアースは考え始めていた。行き着いた答えは村を出る日がやがて来るだろうというものだった。洞ん爺が約束した太陽と月の祭りが七度終わらぬうちに新しい旅立ちがアースを待っていたからである。
洞ん爺のところに通い始めてからはや一年が過ぎていた。神聖語の勉強もほとんど終わり、今は共通語と簡単な聖理の唱法を学び始めていた。他にも樹嵐の地理や生き物についての多くの知識が彼の知識の一部になっていた。
いつもと同じように朝食を済ませたアースが、谷の道を走り抜けて洞ん爺の洞に着いたとき、大間の木卓の前に一人の男が座っていた。
「・・・アースか。大きくなったものだなあ。」
以前出会った聖理師ア・マリンよりもさらに一回り大きくがっちりとした男だった。萌葱色の外套の下には、甲殻で作られた甲冑を身にまとっていた。アースが初めて見る武器らしい物を腰に下げていた。男の片腕ほどの長さはある刀だった。
「剣がそんなに珍しいのか。どれ、持ってみるがよい。」
大男は鞘から抜き取った剣を差し出すと、にやりと笑った。その眼には鋭い光が走った。アースはあわててとびのいた。
「まずは合格だ。武器を手にしている相手には決して油断しないことだ。」
「からかうのはそれぐらいにな。ウイグラフ。アースには剣などより先に学ばなければな らないことが数多くある。」
いつのまにか大間の扉の所に洞ん爺が立っていた。
「師よ。これは失礼しました。」
剣を鞘におさめた大男は恭しく胸の前で腕を組んで洞ん爺におじぎをした。
「そんな呼び名はよすのじゃ。こんな老いぼれにはな。」
大男はわずかにうなずくと再び視線をアースに戻した。
「少年よ。右手を見せてほしい。」
そういいながら大男はアースに近づくと、右の手をつかみ、その手のひらをじっと眺めた。
アースの手のひらには三つの不思議な傷跡があった。ポッポ爺は子供の頃に転んでつけた傷だと言っていたが。
「師よ。私には師のお考えがわかりません。この子を次の座にとお考えではなかったのですか。この手のひらには・・・。」
「その呼び名はよせと言うたがのう。それにこの子の道はこの子が選ぶのじゃ。わしにできることはどれを選ぼうとも困らぬように心構えを教えるだけじゃ。」
アースは二人の会話に何とか割り込もうとして大きな声で尋ねた。
「ねえ、この傷がどうかしたの。」
どちらからも答えはなかった。ただウイグラフの目には涙が潤んでいた。
「その傷の謂れを知ったとき、お前はとてつもない力を手にするのだ。そして本来の自分のあるべき姿と名もな。」
「知らぬまま生涯を過ごすかも知れぬ。その時、お前は力の代わりにやすらぎを手に入れるのじゃ。アース。どちらがあるべき姿かは、小さいアース、お前自身で決めるのじゃ。」
「僕の本当の姿。」
アースは二人の会話を聞きながらも、まるで高い崖の上に一人で立たされている自分を感じていた。
ウイグラフはそれから二、三日ほど洞ん爺の所にとどまった後、何も言わずに、どこへともなく旅出っていった。
別れ際に、洞ん爺にアースに渡してほしいといって一振りの剣を置いていった。洞ん爺はしぶしぶながらその剣をアースに手渡すと、呟いた。
「剣の使い方も習っといたほうがよいかもしれんのう。この次にウイグラフが来るまでに基本的な型だけは教えておこうかのう。」
そう言いながら洞ん爺が教えてくれた型と言えば、剣など一度も持たせないものばかりであった。万年銀杏の木々の間を飛び交う鳥を見させたり、どこまでその鳥が飛んでいけるかを尋ねたり、河原の砂の上を裸足で走らせたり、万年銀杏のひこばえの枝にぶら下がったりと、そんなことばかりであった。
あのとき二人が言っていた時は静かに近づいていた。アースの背は櫟井の木よりも高くなった。髪を後ろに束ねて走り回る速さは、村一番の韋駄天と呼ばれるスブレを凌いでいた。腕まわりこそ、それほど太くならないものの、発する力は十分身についていた。どちらかといえば白かった顔も日に焼けてたくましいものになった。近所の大人達はアースの成長ぶりをうらやんでいたが、身長が伸びたことによって友達とはますます疎遠になった。アースの成長を一番喜んでくれそうなポッポとも、ここのところ話す言葉がめっきり少なくなった。
体だけでなく、知識も十分に身についていた。神聖語のほとんどをものにしたアースは古代語の唱法を学んでいた。「真なる名」を支配し、聖理を使いこなすための言葉である。この知識を得るだけでも、呪い司として根の国で一生食べるには困らないほどのものであった。ただし洞ん爺の教えてくれるものは、治癒や防御に直接応用できるぐらいで、他のものは長い時間と準備が必要なものばかりであった。
「よいかちいさいアース。全き法理とは長い時間の中にゆっくりと織り込むものなのだ。
折り目がひとつずれても、大いなる力を生かすことはできない。自然の流れを歪めて自分の利を得ようとしても、その歪はいつか自分にかえってくるのだよ。できるだけ時間をかけなさい。そして自然の流れを読みなさい。」
自分のへそよりも下から洞ん爺に、
「小さいアース。」
と呼びかけられる度に、アースはなんだか不思議な感じになった。
洞ん爺が古代語の唱法に入る前には必ずこの言葉を繰り返したものだった。
「では魔理帥はどうなるのですか。彼らの力は大きなものだと聞きますが。」
ある日、突然そう尋ねたアースに、洞ん爺は少し目を見開いたが口調はいつものままで
「魔理帥の力は大きいのか。そうか。そう思うのだな。ちいさいアース。よこしまな思惟によって、果たして自然の大いなる力にたどり着けようか。目先の力の大きさに惑わされてはならぬ。川が下から上に流れれば喜ぶ民も居ろうが、すべての水を逆流れさせることができようか。そうした力は大いなる力の一部を得ているに過ぎない。一時の力の歪を生むだけじゃ。魔理帥の末路を知っていよう。」
「はい、塵に還ると聞いています。」
洞ん爺は悲しそうな顔をして続けた。
「その歪みは己一つの体であがなうのだ。」
「では聖理によってなら、大いなる力に迫ることが可能なのですか。」
「聖理とて大いなる力の内側にあるに過ぎない。それは人の器には余る力だ。じゃができぬことではない。」
「どうすれば。」
「それを知るためにはアース。樹嵐の天上にすら登らねばならぬぞ。彼の者の住まう天空城




